SS:椿の日常?
潮の香りが漂う港町リース。お世辞にも大都市とは言えないし、発展しているとも言えない。赤レンガで彩られた町並みが古めかしい雰囲気をかもしだしているのかもしれない。
しかし、個人的にはこの雰囲気も好きだった。何故なら、狭い島国から抜け出して、遠くの国にやってきたかのように思え、お手軽に旅行気分を味わえるからだ。
実際、そういう目的でロストワールドを利用する人も多い。レベルアップや商業に取り組むわけでもなく、ただぼんやりとあちらこちらの町を巡ったりするのだ。それはそれで悪いことではないと思う。私だって当初は、それが目的だったからだ。
当初は、ね。
今は、と言うと、ギルドに所属し、ランカーとは言えないけど、そこそこレベルも上がっている。一緒に冒険をする仲間も増えた。そのお陰か、少し前に比べれば笑えるようにもなった。
笑えるようにもなった、ということは笑えなかったのか、と当然疑問に思うだろう。その通りで、ほんの少し昔は笑うことなんてできなかった。とある人が忽然と姿を消してしまったことで、私の日常は瓦解したのであった。
あの人が姿を消してから、もう一年以上が経つ。メッセージを飛ばすと相手に届くから、キャラは消えていないことは分かっている。しかし、返事はいつまで経っても来なかった。
どうして一言も残さずに姿を消してしまったのか。何故、返事をよこしてくれないのか――当時は本当に辛く、不安で満たされ、必死に辺りを探し歩いた。もう一度会い、どうしても理由が聞きたかった私は、船で外の大陸にも渡った。
しかし、外に出て悟ったことは、あまりにも広大なこの世界から、あの人を探し出すことは不可能だということだった。拠点としていた島国と違って、他の大陸はあまりにも大きすぎたのだ。
見渡す限り、白と青の世界、見渡す限り地平線が広がっている砂漠を見たときは、本当に泣きそうになった。高速移動スキルを発動させて数時間走り続けても、人影どころか枯れ草一つ見当たらなかったのだ。そして、世界は相変わらずの青と白だけだった。
ふと見上げれば、容赦なく降り注ぐ太陽光。実際に日焼けしているわけではないのに、肌がじりじりと焼かれる感覚が妙に現実味を帯びていて、数日は粘ったけど、結局は転移石で近くの町に戻ることにした。
どこの誰がこんな広大な世界を作ったんだと激しく憤りを感じる反面、今はその感情も沈静化しつつあった。忘れたわけではない。失った痛みに慣れるぐらいには、時が過ぎてしまったのだ。
そう思うと、時折胸が痛む。自分の薄情さに。
「……ふぅ」
交易品が並ぶ商店街。にぎやかな喧騒が満たす通りで、私は小さく息を吐いた。それは何とも雰囲気に似合わない鬱々とした感情を吐き出すため息だったけど、そんな私の様子に気づく人はいない。皆、嬉々として商品に目をやり、あれやこれやと談義を交わしている。
そんな人ごみをすいすいと縫うように私は進んでいく。商品には一目も暮れない。別にこの場所に目的があって来たわけではないからだ。目的の場所に向かうのに最短ルートを取ったら、たまたまこの道だっただけなのだ。
ちょっと失敗したな、と思う。この雰囲気は私を蝕む。どうしても、あの人のことが頭を過ぎって行く。自分が一人であることを、周囲の喧騒がより際立たせたのであった。
私は少し早足で人ごみを抜けていく。どうしても喧騒が耳に障るけど、無視できるぐらいには私の精神も強くなった。図太くなったと言うべきか……まぁ、それもこれもあのギルドのお陰……?
「何か失礼なこと考えてなかった?」
後頭部をぱしりと叩かれて、私は振り返った。そこには私にジト目を向けながら小さく息を吐く友人の姿があった。紫の綺麗な髪に整った容姿で、町を歩けば異性を惹きつける彼女の名はリンス。私も所属するギルドで、つい最近副マスターになった子だ。
実を言うと、私も副マスターなんだけど。
「いいえ、別に」
肩を竦めて私がさらりと答えると、リンスはジト目を解除して、柔らかな笑みを浮かべて私の横に並んだ。……とは言え、内心は冷や汗ものだった。このギルドは妙に鋭い人が多すぎる。
「椿も呼ばれたの?」
「ってことは、リンスも?」
お互い目的は一緒だったらしい。私たちは、海外出張を理由に間もなく引退するモノクロさんに呼ばれて、ギルドの宿舎を目指していたのだ。
モノクロさんが日本を発つまで、あと三日だ。一ヶ月ほど前からギルドを引き継ぐ準備期間として、色々な仕事を与えられてきたけれど、私とリンスを呼んだと言う事は、その最終確認のようなものだろうか? メッセージは簡潔で『メールに気づいたら宿舎に来い』だったので、用件は読めないし、いつでもよさそうな文面だけに、そこまで重要なことでもないのかもしれない。
ともかく、無視はできないので、私は宿舎へと向かうことにした。そこで同じく呼び出されたリンスと出会ったようだ。
「もう教わることはないと思うんだけれど……何なのかしら?」
頬に手をあて、可愛らしく小首を傾げながらリンスは言った。しかし、さらりと酷いことを言っていることには気づいていないようだ。年上を敬うという気持ちは無いのだろうか? ……なんて言ったら「あの筋肉馬鹿に教わることがあるとでも?」と返ってきそうなので、私は黙って頷いた。
単純な強さなら、モノクロさんはずば抜けている。と言うか、強さの源が単純すぎる。あれほど単純明快にできた人は、そうそういないと思う。私も、さらりと酷いことを言っている気がするけど。
「まぁ行ってみれば分かるんじゃない?」
私は無難に答えて、足を進めようとした。しかし、隣にいたはずのリンスの姿が消えているのに気づき、冷や汗を流した。私の周りでは人が消える不思議現象が多発するのか、と嫌な予感が過ぎったのだ。
湧き上がる焦りに私は機敏に反転し、周囲を見渡した。すると、案外近いところにリンスがいて、ほっと一息つくことができた。
「ど、どうしたの?」
リンスは私の顔を見て、怪訝そうに首を傾げている。余裕の無さに頬の筋肉が引きつっていることに、私はようやく気づいた。私は右手で口元を隠し、指先で頬をほぐした。
「……何でもない」
思わず漏れる大きなため息。しかし、それは安堵によるもので、特に悪い感情を抱いていたわけではなかった。
「とりあえず、行きましょう」
妙な無言の時間が生じることを許すまい、と私は再び宿舎に向かって足を進め始めた。
*
「……おかしいと思うんだ」
宿舎に着くと、渋い顔をしたモノクロが机に両肘をついて顔の前で手を組んで待っていた。その様子を見て、何かあったのだろうか、と私とリンスは息を呑む。普段は温厚なモノクロさんが、ここまで険しい表情で話すことは何なのだろうか? 嫌な予感に苛まれ、私の心臓の鼓動は少しずつ速まっていく。
「何がおかしいん?」
いつも軽い調子のクロウさんですら、今は茶化すことなく言った。相変わらず全身真っ黒の怪しい人だけど悪い人ではない。まぁこんな人が現実世界で遭遇したら、俊敏なターンで背を向け、全力疾走で逃げ出すけどね。人を見た目で判断しちゃいけません、とか言うけど、自分の身を守り、堅実に生きるなら無難な道を歩くべきだ。少しでも不安に感じたら、その勘に従うべきなんだ。
まぁ、ともかく、悪い人じゃないからいいんだけど。
それはさておき、未だに目を伏せ、じっと佇むモノクロさん。やがて、大きくため息をついて口を開いた。
「もし、隠しているつもりなら言っておく」
モノクロさんは私たち三人を見つめて、静かに言った。その言葉に、クロウさんの眉が僅かに動いたように見えた。リンスもいつになく険しい表情で、モノクロさんの次の言葉を待っている。私もモノクロさんの次の言葉が気になって、仕方が無かった。
「隠す必要は無いんだ……だから教えてくれ」
それ以上、モノクロさんは何も言わない。私たちの言葉を待っているのだろう。しかし、私からすれば一体何のことを言っているのか分からない。隣にいるリンスも同じようで、横を向くと不思議そうに首を傾げていた。
クロウさんはと言うと、渋い顔のまま固まっていた。
「あの……一体何のことを言っているのでしょう?」
おそるおそるとリンスが尋ねた。それを聞いて、モノクロさんの眉間に刻まれていたシワが一層深くなる。
「……この期に及んで、まだ惚けるのか?」
ぱきりと高い音が鳴った。モノクロさんが拳を強く握って骨が鳴ったのだと理解するのに、そう時間を必要としなかった。
ただ、何か私たちの誰かが隠し事をしたせいで、モノクロさんの逆鱗に触れそうになっているのではないかと、私は冷や汗を流す。この人が暴れだしたら、私たち三人が一斉にかかっても止められる気がしない。
それはリンスも理解していたようで、慌てて言葉を紡ぐ。
「い、いえ、本当に何のことだか――ちょ、モノクロさん!?」
リンスの言葉を最後まで聞かずに、モノクロさんは席を立った。その目に宿るのは悲嘆の光。そして、僅かであるけど怒りの炎。一体誰が何をした。はっきり言って、私は身に覚えがない。つまり、とばっちり。いい加減自白しろよ、とクロウさんに怒りの視線を向けたかったけど、モノクロさんの一挙一動から目を離せなかった。
私もリンスも分からない――つまり、黒はクロウさんだ。べ、別に洒落とかじゃないんだからね。
しかし、クロウさんは相変わらず渋い顔のまま、じっとモノクロさんを見つめている。何故か、その視線は冷たさをはらんでいるように見えた。
「……分かった」
ずん、と宿舎全体にを揺るがすように、モノクロさんは立ち上がった。実際に建物は揺れているようで、私の体勢はぐらりと傾いた。
これはヤバイ。私は隣のリンスとアイコンタクトした。リンスの頬を流れる汗は、きっと冷たいものだろう。私も同じだ。首筋を伝う汗は冷たく嫌なものだった。
(……逃げる?)
(それ一択しかないわ)
もはや言葉を交わす必要も無かった。私が目で訴えかけると、リンスは静かに頷いた。敏捷性に重きを置いた私は問題ないし、リンスの敏捷性もそう低くはない。逃げ切る勝算はある――そう思ったが、甘かった。
私たちがモノクロさんから目を離した一瞬の出来事だった。まるで広域殲滅魔法を放ったときのような轟音が宿舎に響き渡った。私とリンスはびくりと体を跳ねさせながら、音源に目をやった。すると、モノクロさんの目の前にあった机が真っ二つに割れ、床を裂いて突き刺さっていた。
いやいや何をしたら、そうなるのよ。モノクロさんは空手チョップを繰り出した格好で静止している。武器も使わずに? そう考えると、心の底から震えがやってきた。恐怖と言う名の糸で、地に足を縫い付けられてしまった。もはや、一歩も動ける気もせず、唯一の活路さえ封じられてしまった。
そんな騒ぎを聞きつけてか、モノクロさんの後ろにはギルドの面々が集まりつつあった。何という晒し者……私は目の前の恐怖と居心地の悪さで、吐き気を覚えた。
「何故、そこまで……」
うつむいたままのモノクロさんは搾り出すように言った。
「だ、だから何が……」
「明日、俺は日本を発つんだぞ!?」
「あ」
「え」
「は?」
リンス、私、クロウの順で間の抜けた声を発することしかできなかった。うん、忘れていた。そんな私たちの反応を見て、モノクロさんの両肩は震えだす。
「お前ら……忘れてたのか? まさか、素で分からなかったのか!? お別れ会とか予定してなかったのか!?」
リンスは気まずそうに目を逸らす。私もそれに倣った。クロウさんに至っては、呆れたと言わんばかりに盛大にため息をつく始末。
「……やってられん」
挙句の果てに、クロウさんは背を向けて、宿舎の奥へとすたすたと歩き去ってしまった。その背中を呆然と見送るモノクロさん。何だか、その姿が不憫でならなかった。
けど。
……それを自分で言う?
忘れていた私たちの非は認めるけど、お別れ会をしてほしいとか、その予定を教えてくれだとか言っちゃう? 何て言うか……うん、悲しいな。
隣のリンスをちらと見てみても、先ほどの強張った表情など、どこにも無い。それは私も同じだろう。自然とため息が漏れてくるぐらいには、緊張感も消え失せて弛緩している。
もはや死に体のモノクロさん、体力も気力もゼロだろう。私たちはモノクロさんが意識を取り戻す前に、さっさと逃げ出すことにした。
……そして、宿舎から轟音が響き渡るまで、あと一分。
*
遠くから轟音が響き渡った。それは町全体を揺るがすほどのものだったらしい。リースにいた者は、その音に恐れおののき、誰もが一度その方角を見つめたそうだ。
そして――
その日、町にあった一つの建造物が瓦解したらしい。
「まぁ、あの人ならやりかねないわね……」
カフェのラウンジでのんびりと紅茶を飲みながら、リンスは苦笑を漏らした。
あの後、一度だけ宿舎に戻った。そこにはボロボロになったギルドのメンバーに、土下座するモノクロさんの姿があった。引退する前に、所持金すべてを費やして、新しい宿舎を建てるから、と言うことで皆は許したらしい……まったく最後まで退屈させない人だ。
「しかし、筋力一つで建造物が壊せるとなると、流石にゲームバランス崩壊しそうではないか?」
敏捷性に重きを置いている私としては、死活問題だ。どうしても無視できない問題だった。
「うーん……確かに、最近はモノクロさんの真似をして筋力特化が増えてきたけれど、そこまで危惧することじゃないと思うよ?」
「どうして?」
「スキルの有無で、狩りの効率に雲泥の差が生まれるもの。今更、筋力特化で始めたところで、今までスキルに頼ってきたプレイヤーが、未熟な技術だけで戦闘を切り抜けていけると思う?」
「……確かに」
「だから、最近は筋力特化ではなくて、攻撃スキルを一種類だけ選択して、戦うプレイヤーが増えてるみたいね。だけど、それも対人戦となると、もろいわ。攻撃にバリエーションが無いし、結局スキルに頼った戦闘になるから技術も上達しない」
そう締め括ったリンスは、紅茶の入ったカップに口をつけた。それは何とも優雅な動作で、町を行く人の目を集める。ゆっくりとお茶を飲みたかったのに、まったく落ち着けなかった。
そんな時、人ごみをすいと抜けて、こちらにやってくる金髪に白いローブの少女が一人――ギルドでよく見る子だった。
「あら、レベッカ」
リンスは飲みかけのカップをテーブルに置いて、手をひらひらと振った。すると、レベッカと呼ばれた少女がやってくる。
「リンスさん、椿さん、こんにちは……ギルドの宿舎、見ました?」
「うん、見た」
リンスはさらりと答えるけど、半分は私たちにも責任がなかろうか? どうしても、顔が引きつり、ぎこちなく頷くことしかできなかった。
「一体何があったんでしょうね……何だか、モノクロさんがひたすら謝ってましたけど」
事情を知らないのか、レベッカは困ったように首を傾げていた。それに対し、リンスは「何でだろうねー」と紅茶を口に含んだ。こいつ、確信犯か。
とは言え、その件について、これ以上話す気にはなれなかった。はっきり言って疲れていた。しかし、リンスは悪戯っぽく微笑みながら言う。
「何だか、お別れ会とかしてくれないからって八つ当たりで宿舎を全壊させちゃったんだって」
「は?」
カップを優雅に受け皿に戻すリンスに対し、レベッカは首を傾げていた。そして一寸後、レベッカは顔を伏せ、うずくまってしまった。
「っぷぷ、くっ……そんな、理由でっ……」
必死に笑いを堪えているのか、レベッカの両肩はぶるぶると震えていた。しかし、堪えきれなかったのか、やがて両膝をついて地面をばんばんと叩き始めた。
「そ、そこまで面白いか?」
私が問いかけても答える余裕が無いのか、レベッカは僅かに頷くだけで、奇妙な声を漏らしている。大声で笑いたいけれど、必死に堪えているような声だった。
「っひ……っひ……本当に……あの人はっ……」
何だか、この子のツボがよく分からん、と私は苦笑を漏らすことしかできない。しかし、リンスはそんなレベッカを得意げな笑みで見下ろしていた。恐らく、こうなることが分かっていたのだろう。何て恐ろしい子なのかしら。
「ふひっ……っく……っはぁ……ふぅ……それで、っぷ!」
「ちょっと落ち着きなさい」
私は飲みかけだけど、レベッカに紅茶を差し出してやった。レベッカは震えながらも、それを受け取るが、なかなか口をつけられない。いつ吹き出すか分からないからだろう。
それから五分ほど、レベッカは笑いに苛まれ続け、まともに話すことができなかった。戻ってきた紅茶を口にすると、既に冷めていて美味しくなかった。
「すみません。で、あの理由は話したんですか?」
ようやく落ち着いたレベッカが、静かに尋ねた。この状態に戻れば、清楚で落ち着いた女の子なのに……何だか、さっきのを見てしまったせいか、イメージが完全に壊れていた。
「ううん、話してない」
「どうしてですか?」
リンスの返答に、レベッカは少しだけ眉をひそめた。
「だって、忘れていたのも事実だし。まぁお別れ会や送別会なんて、最初からする気はなかったけど」
さらりと酷いことを言うリンスだけど、理由を聞けば納得すると思う。
最初に送別会を提案したのは私だけど、それを一瞬で斬って捨てたのはリンスだった。私も最初は薄情なやつだと思ったけど、理由を聞いて思わず頷いてしまったのだ。
「別に私たちは別れるつもりなんてないでしょうに? いくら忙しくたって、ほんの少しでも会えるんだから。それぐらい気軽にやってこれる場所なんだから、ここは。だから送別会やらお別れ会やら『別れる』会なんて必要?」
黙り込んだのは私だけではなかった。その場で送別会のプランを一緒に組んでいた全員が、リンスの言葉に圧倒され、最終的には頷いた。
そして結果的に、最後まで普通に――そう決まったのだ。
……そのせいで普通にしすぎて、すっかり忘れていたわけだけど。
「うーん……誰かこっそりでいいから、あの人に教えてあげないと、いじけて帰ってこなくなりそうな気がするんだけど」
レベッカはやや表情を曇らせた。それを聞いて、リンスもやや顔を引きつらせた。
「ありえなくもないわね……はぁ、面倒くさい」
「あんた、本当にさらりと酷いこと言ってるわよ」
「ん、自覚してるー」
リンスはのんびりと頷く。自覚済みって何だか怖い。まぁ無自覚よりは性質悪くないけど。
「まぁその前に、今回の宿舎建て直しで破産しちゃって、戻ってこなくなるかもよ?」
「不吉なことを言うな」
私は、リンスの脳天に手刀を振り下ろした。しかし、リンスはそれをさらりと躱して、カップを傾ける。
「まぁ大丈夫よ、あの人なら……って、あ」
私でもなく、レベッカでもなく、リンスは一点を見つめたまま固まった。どことなく顔が引きつっているように見え、私はリンスの視線を追った。
そこには目から鼻から液体をだばだばと流しているモノクロさんの姿があった。
「……いつから、そこに?」
「お別れ会の話あたりから」
私が尋ねると、モノクロさんは鼻をすすりながら答えた。そんなモノクロさんを見て、リンスは更に顔を引きつらせた。
「ぜ、全部、聞いてたんですか……?」
全力で頷くモノクロさん。それを見て、リンスの顔が一瞬にして茹蛸のような綺麗な赤色に染まった。
「わかった……俺は絶対に戻ってくる……ありがとうな、お前ら……!」
その瞬間、視界が赤く染まった。物凄い力で頭が締め付けられている。すぐ近くから、レベッカのうめき声が聞こえてきた。モノクロさんに捕まったのだと理解するころには、腕が首に食い込み、脱出不可能になっていた。筋肉で重いはずの体は、思った以上の速さで私たちに迫ってきたのだ。
両腕でがっちりと首を捉えられ、顔は大胸筋に押し付けられて、うめき声すら上げることができない。筋肉が……筋肉がーっ! 上腕二等筋で力強く締め付けられて、私の頭蓋骨が嫌な音を立てている。意識はブラックアウト寸前。ああ、私はこのまま死ぬのだろうか。一瞬にして、この世界で過ごしてきた時間が脳内再生される。きっと……これが走馬灯なのだろう。
そんな考えが頭を過ぎったとき、ようやく私とレベッカは解放された。隣では白目のレベッカが倒れており、私もひんやりと冷たい石の床に倒れているようだった。
そして、大きな破砕音とリンスの悲鳴だけが、どこか遠くから聞こえてきた。一体どうなっているのかは、想像したくない……決して、したくなかった。