第9章:生態系の一員として――2026年、ボクたちの生存戦略【結】
叔父の書斎を出る頃には、初夏の夜の帳が完全に降りていた。
ボクのリュックの中には、書き溜めた一冊のノートが重く、しかし確かな手応えを伴って収まっている。
ボクは駅へ向かう歩道橋の上で立ち止まり、眼下に広がる東京の夜景を眺めた。無数に明滅するビルの窓明かり、絶え間なく流れる車のヘッドライト、そして空を貫く電波塔の光。それは、情報の神経細胞がミリ秒単位で発火し、社会という巨大な生命体が休むことなく「意思決定」を繰り返している、生命活動の軌跡そのものに見えた。
「……投資とは、世界の生命力を信じること」
ボクはノートの最後のページに書き添えたあの一文を、口の中でそっと反芻した 。
四月のあの日、テレビから流れる「恐怖指数」という言葉に怯えていた理系学生のボクは、もうここにはいない。ボクたちは、不完全な計器(VIX)に一喜一憂し、新種のウイルス(0DTE)の痙攣に右往左往するだけの存在ではない。マクロの血流を読み、ミクロの代謝を解剖し、市場の心理を一つの「物語」として統合できる人間の知性を持っているのだ 。
たとえ、これから先の未来に二〇一八年のボルマゲドンや二〇二五年の関税ショックを上回る未知の「変異株」が現れたとしても、ボクはこの生態系の一部として、それを受け入れる覚悟ができていた。
SAAという強固な骨格を持ち、TAAという柔軟な筋肉を鍛え続けること。
それが、この不確実な世界で自分という「個体」を維持するための、ボクなりの生存戦略だ。
スマホの画面では、VIX指数の「19.07」という数字が静かに拍動を刻んでいた。
明日になれば、また新しい「環境変化」がこのシステムを揺さぶりに来るだろう。でも、それでいい。変化があるからこそ進化があり、揺らぎがあるからこそ生命は輝く。
ボクは歩道橋を下り、情報の海へと続く改札口へと歩き出した。
初夏の風が、昨日よりも少しだけ力強く、ボクの背中を押してくれているような気がした。




