第7章:解放の日の衝撃――2025年関税ショック【承】
叔父はホワイトボードの半分を使い、2025年4月のカレンダーを丁寧に書き出した。
4月1日から8日までの、わずか一週間強。
しかし、その短い期間は、ボクたちが今生きる2026年の市場環境を決定づけた、最も過酷な「生態系崩壊」と、それに対する「博打的適応」の記録だ。
「ボク、君は生物の代謝において、外部から取り入れる『栄養素』がいかに重要か知っているよね。もし、細胞がエネルギーを作るための必須アミノ酸やブドウ糖の供給が物理的に遮断されたらどうなる?」
「……代謝経路が止まる。最悪の場合、細胞は壊死を起こすよ」
「その通りだ。経済という生命体にとって、その供給経路こそがサプライチェーンだ。そして、去年の4月に起きた『Liberation Day(解放の日)』関税ショックは、まさにその代謝経路を政治という力で強引に引きちぎる暴挙だったんだよ」
叔父は、カレンダーの『4月4日』に赤い丸をつけた。
1. 感染の始まり:4月4日(VIX終値 45.31)――毒か、それとも「脅し」か
「始まりはこの日だった。トランプ政権二期目による、一律関税導入の電撃発表だ。
市場という生態系に、突如として強力な『外来の毒素』が注入された瞬間だね 。
エコノミストたちの第一報は悲鳴に近かった。
『これはインフレを再燃させ、GDPを直接的に押し下げる毒だ』と。
VIX指数は一気に45.31まで跳ね上がり、市場は激しい炎症反応を起こし始めたんだ 」
しかし、と叔父はボクのノートを指差した。
「この混乱の真っ只中で、一部のストラテジストたちが、ある『賭け』に出ようとしていた。それが、後に世界中で有名になる**『TACOトレード』**の原型となる動きだったんだよ」
2. 炎症の拡大と「逆張り」の芽生え:4月7日(VIX終値 46.98)
「4月7日、通商代表部が強硬な実施姿勢を崩さないことを確認すると、恐怖は確信に変わった 。
アナリストたちは各企業のサプライチェーンを顕微鏡で覗き込み、関税という『浸透圧ストレス』で利益が奪われる製造業の壊死を予測した 。
だが一方で、一部の狡猾なストラテジストたちは、この劇薬の正体を疑い始めていたんだ」
叔父はホワイトボードに、少し先の月である「5月」と書き加えた。
「当時はまだ誰もそんな言葉を使っていなかったけれど、彼らがやろうとしていたのは、まさに翌月にフィナンシャル・タイムズの記者が命名することになる戦略そのものだった。
『TACO(Trump Always Chickens Out)トレード』――トランプは最後には必ず日和る、という皮肉を込めた戦略だね。
強硬な政策の脅威で株価が下落した直後に、それが『結局は交渉材料であり、撤回される』と見込んで安値を買い叩く逆張り戦略だ」
「おじさん、それって……。毒を飲まされた瞬間に、『これは本物の毒じゃない、ただの苦い薬だ』と信じて、むしろ血流を速めるようなもの?」
「ははは、面白い例えだ! まさに、免疫系が外敵を『無害な刺激』だと誤認、あるいはあえて無視して活動を続けるような、極めてハイリスクな細胞応答だね」
3. 臨界点:4月8日(VIX終値 52.33)――逆張りの悲劇
「そして4月8日、VIXはついに52.33を記録した。
2020年のパンデミック以来の50超えだ 。
この日、市場では『本物の毒』だと確信して逃げ出す者と、『いや、大統領のいつものブラフだ。絶好の買い場だ』と主張する者が激突した。
結果としてどうなったか。政策が撤回されるという期待は一向に満たされず、強気で買い向かった投資家たちは、さらなる暴落によって強制的な損切り(細胞死)に追い込まれたんだ 」
叔父は、当時ストラテジストが作成した戦略レポートをボクに見せた。
「見てごらん。このレポートは『一時的な過剰反応に過ぎない』と結論づけている。
でも、現実は甘くなかった。政治という『外来種』の振る舞いは、数理モデルや過去のディールの経験則では予測しきれなかったんだ。物理的なサプライチェーンの断絶(実体)と、政策撤回への期待(心理)がねじれ、ボラティリティは制御不能なスパイクを描いたんだよ 」
物理的な断絶と「情報の建築学」の敗北
叔父はホワイトボードの前に立ち、深い溜息をついた。
「ボク、この8日間の記録を見て、何を感じるかな?」
「……情報の三層構造……エコノミストもアナリストも、みんな必死に状況を分析していた。
でも、『これは撤回されるはずだ』という心理的な博打が、かえって混乱を深めたように見えるよ」
「その感覚は正しい。物理的な断絶は、数理モデルだけでなく、人間の『期待』というレンズさえも歪めてしまう。2025年の関税ショックは、ボクたち専門家に、純粋な『物理的な生存能力』の重要性と、後にTACOトレードと呼ばれることになる安易な逆張りの危うさを突きつけたんだ」




