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第6章:2024.8.5の計算マジック――流動性の罠【結】


叔父の書斎に、再び静寂が戻った。窓の外を走る車のヘッドライトが、雨上がりのアスファルトに反射して、顕微鏡で見たアーティファクト(偽像)のように不規則な光の環を描いている。


ボクは、先ほどまでホワイトボードに書かれていた「65.73」という数字の残像を、脳裏から消し去ることができなかった。


「……つまり、おじさん。あの日の恐怖は、半分はボクたちが作り出した『幻』だったってこと?」


 ボクの呟きに、叔父はデスクの上の小さな砂時計をひっくり返しながら頷いた。


「そうだ。でもね、ボク。医学の世界には**『ノーシーボ効果』**という言葉があるだろう? プラセボ(偽薬)の反対で、本来無害な物質であっても、それが毒だと信じ込んで摂取すれば、実際に身体に有害な反応が出てしまう現象だ。


経済も同じなんだよ。


たとえVIXという計器がバグを起こして異常値を叩き出したのだとしても、それを見た人々が『世界の終わりだ』と信じて一斉に逃げ出せば、市場は本当に死に至る。


偽のデータが、本物の絶望を生んでしまうんだ」


ボクは自分のノートの隅に、「ノーシーボの恐怖」と書き込んだ。


生物学の実験でも、細胞を観察するために光を当てたり、染色試薬を入れたりする行為そのものが、細胞の状態を少なからず変えてしまうことがある。


「計測という行為そのものが、計測対象である市場を乱してしまう……。これって、ミクロの物理学でいう『不確定性原理』みたいだね」


「その通りだ。だからこそ、プロには計器を疑う『冷徹な知性』が求められる」


 叔父はそう言って、2024年の記録バインダーを閉じ、棚のさらに奥にある、真新しいが、どこか禍々しい気配を放つ一冊を手に取った。


「2024年の暴落は、計器の不備が生んだパニックだったと言えるかもしれない。


しかし、翌年……つまり去年の春に起きた出来事は違った。


それは算出上のマジックなんかじゃない。生態系の根幹をなす『代謝経路』そのものを物理的に叩き切る、文字通りの破壊だったんだ」


叔父が指し示したその背表紙には、**『2025.4.4:Liberation Day(解放の日)』**と記されていた 。


「物理的な世界の分断。それが企業の生存戦略を、そして市場のボラティリティをどう変えたのか。次は、外来種としての『政治』が生態系を壊しに来た時の話をしよう」


ボクはゴクリと唾を呑んだ。

計器のバグを知った安堵感は、次なる「物理的な危機」の予感にかき消された。

夜の帳が降りた書斎で、叔父の横顔は、これから語られる過酷な真実を前に、かつてないほど厳しく引き締まっていた。


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