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第6章:2024.8.5の計算マジック――流動性の罠【承】


叔父はホワイトボードの中央に、これまでボクが見てきたどの経済指標の定義よりも厳格で、物理学の教科書を彷彿とさせる重厚な数式を書き殴った。


「これがVIX指数の心臓部だ、ボク。今のVIXは、ブラック・ショールズ・モデルのような特定の価格モデルに依存しない『モデルフリー』という算出手法を採用しているんだよ」


ボクはその数式を、未知のタンパク質の構造式を見るような目で見つめた。積分記号の代わりに並ぶ総和記号(Σ)、そして複雑な分母。


「……おじさん、この数式のどこに『アーティファクト(偽像)』が隠れているの?」


「嘘、というよりは『計器の死角』だね」叔父は赤いペンで、数式の中の Q(K_i) という記号を強く丸で囲んだ。

「この変数の定義こそが、2024年8月5日の狂乱を生んだマジックの正体だ。Q(K_i) とは、各行使価格におけるオプションの**『ミッド・クオート』**……つまり、市場に出されている『売りアスク』と『買いビッド』のちょうど中間値を指すんだよ」


「中間値……。でも、それが普通じゃないの? 実験データだって、最大値と最小値の平均を取ることはよくあるよ」


「平時なら、それで正しい。でも、極限状態では話が変わるんだ」


 叔父はホワイトボードの横に、二つの棒グラフを描いた。


一つは「平時」、もう一つは「パニック時」だ。


「平時、市場に十分な『流動性』という名の血流が流れているとき、売り値と買い値のスプレッドはごくわずかだ。例えば売りが 10.1ドルで買いが 9.9ドルなら、ミッド・クオートは 10.0ドル。実際の取引も、その付近で成立している。計器は正確な体温を指し示す」


叔父はパニック時のグラフに手を移した。そこでは、売り値と買い値の棒が、互いに遠く引き裂かれるように描かれていた。


「ところが、あの日のような暴落局面では、市場から『買い手』が一瞬で姿を消す。生物学的に言えば、環境の激変に驚いた個体たちが一斉に殻に閉じこもり、代謝(取引)を拒否した状態だ [1]。するとどうなるか。売り手はパニックになって 20ドルの値を提示し続け、買い手は恐怖で 2ドルの値しか出さなくなる」


「……あ、わかった」ボクは思わず声を上げた。 「ミッド・クオートを計算すると、$ (20 + 2) \div 2 $ で 11ドル になっちゃうんだ」


「その通り! 実際には誰も 11ドルでなんて取引していないし、そもそも取引自体が一件も成立していないかもしれない。


それなのに、VIXの算出式は機械的にその『虚像の中間値』を拾い上げ、数式に放り込んでしまう。あの日、ビッド・アスク・スプレッドが非対称に、かつ暴力的に拡大したことで、数式は実態を伴わない『計算上の恐怖』を算出してしまったんだよ」


叔父はデスクから、国際決済銀行(BIS)による最新の分析レポートをボクに手渡した。


「BISの分析でも、あの日のVIX指数 65.73 という数値の相当部分は、この構造的な脆弱性が生んだマジックだったと指摘されている。


特に、暴落に備える保険であるアウト・オブ・ザ・マネー(OTM)のプットオプションが、流動性の枯渇で異常な値を吐き出したことが、指数を実態以上に押し上げたんだ」


ボクは、大学の実習で見たあの顕微鏡の偽像を思い出した。


レンズの汚れが光を回折させ、細胞の中に本来存在しないはずの「核」を描き出してしまう。


あの日の投資家たちは、自分たちの作った計器が映し出す「偽の怪物」を見て、さらに深いパニックへと陥っていったのだ。


「計器の限界を知っているプロたちは、この 65という数字をどう見たの?」


「彼らはこの数字の裏にある『血流』……約定データの欠落や、VIX先物の期間構造タームストラクチャーを冷静に分析していた 。


これから話すのは、そんな『壊れた温度計』を突きつけられた現場で、ボクたちがどう立ち振る舞ったかという……あの八月五日の、本物の修羅場の記録だ」


叔父の視線が、ホワイトボードの数式から、デスクで静かに明滅する2024年8月5日のリアルタイム・チャートの再現画面へと移った。いよいよ、あの日の「衝撃」の正体が明かされようとしていた。


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