第3章:マクロの血流――GDPとマネーの力学【結】
書斎の窓から見下ろす街には、無数の街路灯が灯り始めていた。
網膜に焼き付いた顕微鏡下の赤血球の残像と、叔父がホワイトボードに記した M V = P Y という数式が、ボクの脳内で一つの巨大な「循環器系」として重なり合う 。
「……つまり、おじさん。経済の健康っていうのは、血液がどれだけあるかじゃなくて、それがちゃんと末梢の組織(実体経済)まで届いて、エネルギーとして使われているかどうかなんだね」
ボクの言葉に、叔父は今日一番の深い頷きを返した。
「その通りだ。どれだけ心臓が立派でも、血液の柔軟性が失われ、毛細血管の先にある中小企業や家計まで酸素が届かなければ、社会という個体は『通貨性貧血』から抜け出せない。
マクロ経済学が目指すのは、ただ血圧を上げることじゃなく、全身の代謝活動(GDP)を最適化することなんだよ」
ボクは自分のノートに、赤血球が細い血管を折り曲がりながら進む姿をスケッチし、その横に「信用創造の柔軟性」と書き添えた。
血液が流れるだけでは意味がない。
運ばれた酸素を使って、細胞(企業)が何を作り出すか――。
「マクロの血流の話を聞いて、逆に『細胞』そのものの活動が気になってきたよ。酸素を受け取った細胞が、どうやってエネルギーを作って、成長していくのか」
「ははは、やっぱり理系だね」叔父は笑いながら、棚から一冊の新しいファイルを取り出した。
「血液の話の次は、当然『代謝』の話になる。
経済で言えば、それはアナリストたちが顕微鏡で覗き込んでいる『個別企業の活動』だ。
細胞が栄養を取り込んで成長するように、企業はマネーを投じて新しい価値を生み出す。
そのプロセスが記録されているのが、決算書という名のカルテなんだよ 」
ボクは、書斎の空気そのものが、まるで巨大な生命体の呼吸の一部であるかのように感じ始めていた。
「次は、その細胞の『カルテ』の見方を教えてよ。
どうすれば、その細胞が健康で、将来大きく成長する遺伝子を持っているか、見抜けるようになるのか 」
「いいだろう。次は、アナリストたちの聖域――ミクロ経済の深淵へ案内しよう」
夜の帳が降りた街は、まるで巨大な培養液の中に浮かぶ一つの臓器のように、静かに、しかし力強く明滅していた。
ボクの心臓もまた、その巨大な循環の一部として、微かな期待とともに鼓動を刻んでいた。




