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第2話 転生してから一週間、生き延びた俺を褒めてほしい



 異世界に来てから、たぶん一週間が経った。


 たぶん、というのは、スマホも腕時計もなく、カレンダー機能つきの文明的な何かも持っていないので、正確な日付管理など最初からできるはずがなく、俺がやっているのは朝が来るたびに岩陰の壁へ小さな傷を一本ずつ刻むという、どこの原始生活だよと自分でも言いたくなる方法だからで、それでも壁に並んだ線を数えれば七本あるし、朝日を七回浴びた記憶もちゃんとあるので、まあ一週間と言って差し支えないだろう、いや、もしこの世界の一日が地球基準で二十六時間とかだったら話は変わってくるのだけれど、そのあたりを考え始めると急に哲学寄りになってしまうから、いまは素直に「七回朝を迎えたら一週間」という雑で力強い認識で押し切ることにしている。


 それにしても、我ながらちょっとすごくないか。


 自分で言うのもなんだが、ほぼ手持ちゼロの状態から異世界の山奥で一週間生き延びているのだ。ゼロと言ってもスーツと財布と赤ペンがあったじゃないかと言われれば、たしかに形式上はゼロではない。けれどサバイバル性能という観点から見た場合、社員証とポイントカードを何枚持っていようが、長首トカゲみたいな魔物相手には「こちら現代社会での信用情報になります」と差し出すしかなく、それが防具にも武器にも保存食にもならない以上、実質ゼロという表現で間違っていないと思う。


 風呂には入れていない。衛生状態はだいぶよろしくない。ワイシャツはもう白ではなく、うっすら「過去に白だった何か」へ変化しつつあるし、スラックスも泥やら灰やら草汁やらで、会社に着て行ったら総務から「山田さん、なにがありました」と静かに別室へ呼ばれる仕上がりだ。髭も伸びた。爪も少し汚れている。寝癖なんて概念はもう自然と一体化した。鏡がないから正確にはわからないが、いまの俺はおそらく、都会で働いていた元サラリーマンというより、「山で誰にも会わず三ヶ月暮らしてます」と言われてもそこそこ納得される顔つきになっているだろう。


 それでも、飲むものや食べるものには困っていないし、体調もそこまで悪くない。最初の数日は妙に神経が立っていたせいで、夜に何度も目が覚めては棒槍を握りしめ、「えっ、いまの音なに、草が揺れた? 敵? 風?」と一人でびくついていたのに、最近では簡易的な寝床も完成し、自分なりのセーフハウスまでできあがっている。


 セーフハウス、という言い方をすると裏社会の潜伏先みたいでちょっと響きがかっこいい。実態は、湖から少し離れた斜面の岩陰に、枝と草と石でどうにかこうにか人間ひとり分の居住性を確保しただけの簡易拠点なのだが、それでも最初の日に比べれば雲泥の差だ。


 初日の岩陰は、ただの「雨がしのげそうな場所」だった。いまの岩陰は違う。入口の風上側には枝を組んで草を重ねた目隠し兼風よけがあり、寝床部分には乾いた草と柔らかい葉を厚めに敷き、その上へさらに幅広の葉と編んだ枝を載せて、直接地面へ体温を吸われないよう工夫してある。焚き火の位置も微調整した。最初はただ石で囲っただけだったけれど、煙の流れと風向き、火の粉が飛びそうな方向、水場との距離、その全部を何度も確認しながら場所をずらし、いまは入口の少し外れた位置に、浅く掘った火床と薪置き場をまとめている。


 火の維持もだいぶ上達した。


 初日は原始人みたいに棒をこすりながら「頼むからついてくれ」と泣きそうになっていたのに、二日目、三日目と試行錯誤を重ねるうち、使う木の相性や乾燥具合の違い、火口に向く草の種類までなんとなく見えてきた。あくまでなんとなくであって、専門家みたいに分類して語れるほどではない。それでも、「この白っぽい枯れ草は細かくほぐすとよく燃える」とか、「樹皮が薄く剥けるこの木は火付きがいい」とか、「夕方まで外へ出して乾かしておいた枝は朝露を吸ってないぶん扱いやすい」といった、生きるうえで役に立つ知識が少しずつ体に馴染んできた。


 現代日本で生活していた頃、火というものはスイッチひとつ、あるいはカチッとライターを鳴らせば出てくる当たり前の存在でしかなかった。いまは違う。朝起きて最初に確認するのは、昨夜の熾火がまだ生きているかどうかで、灰の下に赤い熱が残っていればその時点で一日の幸福度がかなり上がる。逆に完全に冷えていたら、その日は朝から「よし、労働だ」と腹をくくる必要がある。仕事の内容が原始的すぎるだけで気分としてはかなり似ている。


 朝、灰をそっと崩して熱を探し、小枝を乗せ、息を吹き、火が立ち上がるのを見守る。湯気の立たない朝でも、焚き火の匂いが漂い始めると「今日も生活が始まったな」と思えるから不思議だ。会社員時代は、朝のコーヒーの匂いがその役割を担っていた。違いがあるとすれば、こちらのほうがずっと生存に直結していることと、上司の機嫌に左右されないことくらいだろうか。いや、その差はかなり大きいな。


 生活圏についても、この一週間でかなり絞り込んだ。


 異世界だし、人里を探さなければならないし、広く動いたほうが情報も増えるだろうと最初は考えていた。考えていたのだが、初日からいきなり川辺で長首トカゲ――いまは俺の中で「ヌメワニ」と呼んでいる――に追い回された経験がわりと鮮烈で、「よし、遠くまで散歩してみようか」という気分をいい感じにへし折ってくれたので、結論としては、まず足元を固めるほうが先だという、社会人としてはまことに常識的な判断へ落ち着いた。


 生活圏は現在、大きく三つに分かれている。


 ひとつ目が、セーフハウスを中心とした拠点周辺。


 ここには焚き火場、薪置き、寝床、石器と棒類をまとめた作業スペースがある。あとは、集めた貝殻や乾燥中の草束を置く場所、雨が降ったときのために大きな葉を重ねて作った簡易の水受けも設置した。水受けと言ってもきれいな樽や桶があるわけではないので、石で囲った浅い窪みに葉を何重にも敷いているだけなのだけれど、雨が降ればそこそこ水が溜まるし、朝露も少しは集められる。見た目はだいぶ原始的だ。サバイバル動画なら再生数が伸びそうだが、当事者としては「この設備で本当に大丈夫かな」という不安が常にある。


 ふたつ目が、湖畔の採取エリア。


 ここは水の確保、貝やエビもどきの採取、魚の観察が主な目的地だ。湖の西側には浅い入り江がいくつかあり、石の隙間に巻貝らしきものがつく場所、細長い透明エビが潜む場所、小魚が群れる場所がある。水際の岩場は滑りやすく危険だが、観察を重ねたおかげでどこまで踏み込めば安全か、どの時間帯に魚が近づきやすいかが少しずつ見えてきた。


 三つ目が、湖から北へ続く低い尾根と、その向こう側にある小川沿いの範囲。


 ここは薪になる枝が拾いやすく、食べられるかもしれない植物の候補も比較的多い。ただし、動物の気配もある。小型の草食獣らしき足跡、鳥にしては大きい羽根、夜になると遠くで聞こえる吠え声みたいなもの。そういう要素が増えるエリアでもあるので、探索は慎重にならざるを得ない。


 移動範囲を狭めたのは臆病だからでもあるし、合理的だからでもある。慣れない土地で闇雲に歩き回ると、どうしても迷う。迷ったうえで日が暮れたら終わる。火も寝床もない状態で野外の夜を迎える怖さは、最初の数日で嫌というほど味わった。岩陰へ戻れる場所に限って行動し、周辺の地形を頭へ叩き込み、安全なルートと危険そうなルートを分ける。その作業を繰り返すうち、「この辺りならまだ大丈夫」という感覚がようやく育ってきたのだ。


 見晴らしの良さも重要だった。


 セーフハウスそのものは身を隠すために少し斜面へ入った位置にあるものの、そこから十歩ほど上がれば湖の一部が見渡せる場所があり、さらに尾根へ出れば周囲の森の広がりもある程度把握できる。これが地味にありがたい。視界がひらけるだけで安心感が違うし、水辺に何か大きなものが来ていないか、煙のような人為的なものがどこかで上がっていないか、といった情報も拾いやすい。


 残念ながら、これまでのところ煙は見ていない。人里の気配もない。相変わらず「いやこれ本当に文明圏あるの?」という疑問が胸のどこかでくすぶっているのだが、そこは一旦脇へ置くしかない。ないものを嘆いても薪は割れないし、火起こしの棒も削れない。


 この一週間で身についた知識の中で、我ながらちょっと役立っていると思うのは、この世界の植物と生き物に対する、俺なりの雑だけど実用的な分類だ。


 学術的な名前などもちろん知らない。全部俺が勝手に呼んでいるだけだ。異世界植物図鑑があったら怒られそうな命名も多い。けれど、「このへんの青い木、燃えにくい」「この葉っぱは寝床に向く」「この実は絶対に信用するな」といった判断がぱっと出るようになったのは大きい。


 まず植物からいくと、セーフハウス周辺でいちばん役立っているのは、俺が「パリパリ草」と呼んでいる背の低い草だ。見た目はススキを短くしたような感じで、乾くと葉が薄く裂け、手で揉むとぱりぱり崩れる。この草は火口にかなり向いている。細かくほぐすと火種をよく受けるし、燃え方も素直だ。燃え尽きるのは早いのでこれだけでは役不足だが、火を育てる最初の段階ではとても助かる。


 似た草でも、俺が「しっとり草」と呼んでいる丸い葉のやつは、見た目のわりに水分が多く、乾かしても燃えが悪い。寝床に敷くには悪くない。葉が柔らかく、積み重ねるとクッション性が出るからだ。最初は見た目で「これも草だし燃えるだろ」と雑にまとめていたのに、実際には役割がまるで違う。異世界へ来てから、草にも適材適所があることを身をもって知った。会社の人事異動にもぜひ応用していただきたい。


 木については、「白皮の木」がかなり使える。幹の表面がうっすら白く粉を吹いたように見える中木で、薄い樹皮が帯状に剥ける。これが火付きのいい焚きつけになるし、乾いたものを細く裂けばちょっとした紐みたいにも使える。強度は大したことがないが、束ねる程度なら十分だ。いま俺が薪をまとめている仮の結束も、だいたいこれに頼っている。


 逆に、「青皮の木」は見た目が綺麗なくせに燃えにくい。樹皮が青緑がかっていて、最初に見たときは幻想的だなあと感心したのだけれど、枝を拾って燃やしてみると煙ばかり出て、火力が安定しない。焚き火へ入れるとやたらと湿ったような匂いまで出すので、今では「観賞用」として心の中で処理している。もちろん、この世界の住人が見たら「あれは薬になる木ですけど」みたいな情報が出てくる可能性もある。そうなったら土下座して教えを請いたい。


 葉っぱ系では、「でか葉」が頼もしい。名前の雑さに目をつむってほしい。ヤシの葉に少し似た、幅広で厚みのある葉で、雨を受ける、物を包む、地面へ敷く、簡易的な皿にする、といった用途に使える。耐久性も意外とある。セーフハウスの風よけの一部にも使っている。文明がないなら葉っぱが万能資材になる、というのは知識として知っていたけれど、実際に使うと本当にそうだ。葉っぱすごい。文句を言わないし、請求書も来ないし、納期もない。最高かもしれない。


 食べ物候補については、慎重に慎重を重ねた結果、いまのところ「貝・エビもどき・たまに魚」という水辺中心の構成で生きている。最初の三日は植物へほぼ手を出さなかった。異世界植物ガチャで外れを引いたら洒落にならないからだ。その後、どうしても気になる候補がいくつか出てきたので、ものすごく少量ずつ試すことはした。


 そのひとつが、「甘茎」と呼んでいる細長い草の根元である。見た目は葦に似ているが、茎を折ると少し汁がにじみ、舐めるとほんのり甘い。最初に試したときは舌先へつけて待ち、痺れないか、喉が熱くならないか、しばらく様子を見た。その結果問題がないことは確認した。翌日、少しかじってみたのだ。青臭さはあるが食べられなくはない。量を食うものではないけれど、口寂しいときや水分補給の足しにはなる。何より「ただの草がちょっと甘い」というのが妙にうれしかった。異世界にもささやかな優しさはあるらしい。


 逆に絶対に信用してはいけないのが、「ぷる実」だ。赤紫色の透明感ある実が木陰に房になっていて、見た目だけなら高級フルーツゼリーみたいに美味しそうなのに、鳥が一羽もつついていない時点で察するべきだった。もちろん俺は賢いので食べていない。触っただけだ。触った指先が数分ぴりぴりした。食べていたらたぶん終わっていた。異世界はたまにこういう「綺麗ですね、どうぞ死んでください」みたいな設計の植物を平然と置いてくるから信用ならない。


 キノコ類もあるにはあったが、完全に無視している。白くて丸いやつ、傘の裏が青いやつ、夜にうっすら光るやつ。最後のやつに関しては、もはや食べる以前に視覚情報として不穏である。夜の森で地面がぼんやり光っていたとき、最初は妖精か何かかと思った。近づいたらキノコだった。夢がないし、怖いし、触りたくもない。異世界グルメの第一歩が発光キノコ鍋にならなくてよかったと本気で思う。


 生き物の分類も、かなり俺目線だ。


 まず、湖と川にいる小型の透明エビは「ガラスエビ」と呼んでいる。火を通すとほんのり赤くなり、味はちゃんとエビっぽい。殻が薄くて食べやすいのがありがたい。これが安定して採れるだけで、タンパク源の安心感が段違いだ。量を確保するには石をひっくり返したり、浅瀬へ罠もどきを仕掛けたりと手間がかかるけれど、やった分だけ返ってきやすい。


 巻貝系は「石つぶ」と呼んでいる。見た目が石に張りついたつぶつぶみたいだからだ。味は地味。かなり地味。けれど火を通せば食べられるし、腹の足しにはなる。塩が欲しくて泣きそうになる瞬間もあるが、ないものねだりをしても仕方ない。最近では石つぶを火の近くへ並べ、殻が少し開いたところを石で軽く叩いて中身を出す作業にも慣れてきた。慣れたくて慣れたわけではないが、生活とはそういうものである。


 魚は何種類かいる。小魚の群れは細長く銀色で、俺は「きらきら」と呼んでいる。雑すぎるが、説明しやすい。群れで動き、夕方になると浅瀬へ寄ることが多い。問題はすばしっこさだ。棒槍で突こうとしてもこちらの影や振動に敏感で、ちょっとした気配で散る。初日は完全敗北だった。三日目に偶然一匹仕留め、五日目には石で追い込みを作って二匹捕れた。成功率はまだ低いが、コツは少し掴めてきた。


 もう少し大きい腹の丸い魚もいる。こっちは「ずんぐり」。見たままである。動きは鈍そうに見えるのに、いざ近づくと急に速い。現代の魚類に詳しくないので比較できないが、川魚と海水魚の中間みたいな顔をしている。味はきらきらより濃い。骨が多い。食べたあとに「うん、魚だった」としみじみ思う、そんな魚だ。


 鳥もいる。


 姿をよく見るのは、「三声鳥」と呼んでいるやつだ。こいつは鳴き声が三段階あって、朝はピュルル、昼はクォッ、夕方はキキキ、みたいに全然違う声を出す。最初は別の鳥だと思っていた。ある日、同じ枝で同じ見た目の鳥が全部やっていて、「お前だったのか」とひどく気の抜ける発見をした。羽根は灰色に青が混じった感じで、尾が長い。警戒心は強いが、湖畔で貝を叩いていると近くへ降りてきて様子をうかがう。食べられるかどうか考えないわけではない。考えるが、捕まえる技術がないので今のところ平和共存である。


 草地の奥で見かける小型の四足獣もいる。耳が長く、鹿と山羊を足して二で割ったような、不思議な姿だ。俺は「ぴょこ角」と呼んでいる。額から小さな角が二本出ていて、走るとき耳がぴょこぴょこ揺れるからだ。名付け親のセンスについては反論を受けつける。ぴょこ角は臆病で、こちらの気配を察するとすぐ逃げる。肉を考えるなら有望だが、追える気がしない。いまの俺が仕留められる未来もあまり見えない。罠を本格的に作れるようになれば別だろうが、現状では「かわいい草食獣」で止まっている。


 それはそれとして、問題は“かわいくない連中”のほうだった。


 異世界でいちばん気をつけなければいけないものは何かと問われたら、いまの俺はかなり迷いなく「魔物」と答える。魔物という言い方が正しいのかは知らない。けれど少なくとも、現代日本の自然界にそのまま持ち込んだら環境省も学者もテレビ局も腰を抜かすタイプの危険生物が、この辺りには普通に存在する。


 その筆頭が、初日に俺を追い回したヌメワニだ。


 長い首、ぬめっとした鱗、川や湖の際に潜み、陸上でも予想以上に速い。見かけたのはこれまで三回。最初が川の淵、二回目が湖畔の葦の陰、三回目が夕方の浅瀬だ。単独行動なのか群れなのかは不明。どちらにせよ、水辺での不用意な接近は危険という教訓を、こいつはいやというほど刻みつけてくれた。


 最初の頃は、水辺へ行くたびに「どこかにいないか」と神経を尖らせていた。いまも尖らせているが、少し見分けがつくようになった。ヌメワニが潜んでいそうな場所は、静かな水面に不自然な揺れが出ることがあるし、岸辺の泥へ細長い這い跡が残ることもある。あと、こいつのいる周辺は鳥が妙に静かになる気がする。気のせいかもしれないが、森全体が少し息をひそめるようなあの感じ。会社で言えば、部長が機嫌悪そうな顔でフロアに入ってきた瞬間の空気に近い。自然界でもそういう圧はあるらしい。


 もう一種類、まだ直接会ってはいないが、絶対に近くにいると確信しているものがいる。俺が「夜吠え」と呼んでいる存在だ。


 これは姿を見ていない。夜、尾根の向こうや森の奥から聞こえてくるのだ。狼の遠吠えに少し似ている気もするし、犬よりもっと低く濁った声にも聞こえる。音の長さが一定ではなく、二回続けて短く鳴いたあと、長く引くようなうなり声が混じる日もある。最初に聞いた夜は、心臓が肋骨を蹴り割るんじゃないかと思うほどびくついた。火のそばで棒槍を握りしめ、「こっち来るなよ、絶対来るなよ」と念じながら朝を待った。


 幸い、いまのところセーフハウス周辺まで近づいてきた様子はない。火と煙を嫌っているのか、単に縄張りが違うのか、その理由はわからない。わからないからこそ怖い。姿が見えない相手は想像で大きくなる。しかも異世界仕様だ。狼サイズだと思っていたら牛くらいある、なんてことも十分ありえる。できれば一生会いたくない。


 空にも油断ならないものがいる。


 五日目の昼、湖の上空を大きな影が横切った。見上げると、翼を広げた鳥、にしては大きすぎる何かがゆっくり旋回していた。鷲というより羽毛の生えたトカゲみたいなシルエットで、尾がやたら長い。距離があったから細部まではわからないが、少なくとも「わあ、大きい鳥だなあ」と素朴に感想を述べて終われる存在ではなかった。あれが降りてきたら棒槍一本でどうにかなる気がしない。以来、開けた湖畔でも空を確認する癖がついた。


 そんな具合に、この一週間でわかったことは多い。


 水は豊かで、拠点に向く場所もある。


 火は起こせるし、維持のコツも掴みつつある。


 食料も少量なら安定して採れる。


 この辺りには、少なくとも俺ひとりが生きる程度の資源はある。


 一方で、人里はまだ見つかっていない。


 危険な生き物が普通にいる。


 植物の大半は信用できない。


 遠出にはまだリスクが高い。


 整理すると、かなり真っ当なサバイバル状況である。異世界チートとかどこ行った。いや、体が健康になっているのは十分ありがたいのだけれど、それだけで魔物に勝てるなら世の中苦労しない。


 七日目の朝、俺は焚き火の前で魚を焼きながら、そんなことを考えていた。


 魚といっても小さめのきらきらが二匹だ。昨夕、石で作った簡易の追い込みへうまく入ってくれたやつで、内臓だけ石刃で雑に処理し、枝へ刺して炙っている。匂いはいい。塩がないことへの恨みつらみは相変わらず尽きないが、空腹時の焼き魚の匂いはかなり暴力的だ。仕事帰りの居酒屋前を通ったときみたいな説得力がある。


「いやあ……一週間かあ……」


 火を見ながらしみじみ呟く。


 最初の二日は、生き延びることだけで手一杯だった。三日目あたりから、寝床の改善や魚捕りの工夫といった「少し先の生活」へ頭が向き始め、五日目くらいになると、時間帯ごとの生き物の動きや、日差しの向き、風の癖まで気にする余裕が出てきた。慣れというのは怖い。異世界の山奥ですら、七回朝を迎えれば「なんかまあ、暮らしてるな」という感覚が出てくるのだから。


 その感覚に油断してはいけない、とも思う。


 慣れは判断を鈍らせる。水辺が危険だと知っていても、毎日通えば気が緩む。火の管理も、ちょっとした不注意で終わる。食べられたものがあるからといって、似た見た目の別種へ安易に手を出せば、おなかを壊して詰む。安全圏が広がったように感じるときほど、危険のほうは変わらずその辺にいる。


 会社でもそうだった。仕事に慣れた頃が一番危ない、というやつだ。いや、会社の危険は主に精神面だったけど。異世界はもっと直接的に命へ来るから笑えない。


 魚をひっくり返しながら、俺は今後のことを考える。


 一週間この辺りで暮らして、生活基盤はだいぶ安定した。完全ではないにしても、今日明日に飢えて死ぬ感じではない。なら、そろそろ次の段階へ進むべきだ。


 人里を探したい。


 これは本音としてかなり強い。正直なところ、いくら自然が綺麗で、湖の水が澄んでいて、朝日が気持ちよく、会社のチャット通知が存在しない世界だとしても、ずっと一人はしんどい。誰とも話さず、誰の声も聞かず、全部の判断を自分一人でやる生活は、静かで自由な反面、ふとした拍子に自分の輪郭が曖昧になる。俺はいま何を目指していて、この判断は正しいのか、そもそも正解なんてあるのか、そういう考えが夜の焚き火の前では妙に増幅する。


 人がいれば、それだけで状況は大きく変わる。


 言葉が通じるか、敵か味方か、文明の水準はどうか、そんな不安はもちろんある。けれど、少なくとも「この世界の常識」を知る手掛かりが手に入る可能性がある。食べられる植物、危険な魔物、地名、季節、気候、近くの町、貨幣、種族、魔法の有無。知りたいことはいくらでもある。その入り口へ立つには、やはり人里を見つけるしかない。


 ただ、いま一番気をつけなければいけないのは、その人里探索の途中で魔物へ食われることだった。


 これに尽きる。


 セーフハウス周辺は、まだ「見えている危険」が多い。ヌメワニが出そうな場所、足を取られやすい斜面、夜吠えの声が遠くから聞こえる方向。そういうものが多少なりとも地図のように頭へ入っている。生活圏の外へ出た瞬間、その地図は一度白紙になる。知らない水場、知らない獣道、知らない気配。そこへ踏み込むのは、初日に森へ放り出されたときとは別種の怖さがある。


 いまの俺に必要なのは、勢い任せの探検ではなく、日帰りできる範囲での慎重な拡張だろう。


 尾根の向こうまで行って戻る。


 湖を半周して戻る。


 高い場所から煙や道を探す。


 危険を感じたらすぐ引き返す。


 拠点を守りながら、少しずつ円を広げる。


 それが現実的だ。


「うん、まあ、いきなり文明圏まで全力ダッシュは無理だよな……」


 魚へ火が通ったのを確かめ、串を持ち上げる。皮がぱりっとしている。いい感じだ。俺はふうふう冷ましながらかじり、ほろっと崩れる身を味わった。うまい。塩がなくてもうまい。一週間の成果が味になっている気がして、ちょっと感動する。


 食べながら、セーフハウスの前に並べてある道具へ目を向けた。


 石刃は三本。割れたものと状態のいいものを選別してある。棒槍は長短あわせて四本。枝を曲げて作った簡易の籠もどきがひとつ。白皮の木を裂いて編んだ紐もどきが少し。魚を干そうとして失敗した名残の枝組み。初日に比べれば、だいぶ「暮らしてる感」がある。


 俺は串から最後の身を外し、骨を火へくべた。


「……よし、今日はもうちょい北側を見てみるか」


 独り言が多くなったのは、一人暮らしと野外生活の合わせ技だと思う。誰も返事はしないが、声に出すと気持ちが整理される。会社員時代も深夜残業で誰もいなくなったフロアで「はい無理でーす」とか「なんでだよこれ」とか小声で言いながら作業していたし、根本的な性質はあまり変わっていないのかもしれない。


 火を小さく整え、水を飲み、装備を確認する。


 長い棒槍。腰へ差した石刃。細い紐。貝殻を加工した小さな器。でか葉で包んだ昨日の焼き貝。準備としては心もとない。でもゼロではない。この一週間で、ゼロではない状態まで持ってこられたのは本当に大きい。


 俺は尾根のほうを見上げた。


 朝の光が木々の間を抜けて、斜面へまだらに落ちている。風は穏やかだ。鳥の声もある。こういう日は、つい「今日は平和そうだな」と思ってしまう。そこで油断すると大抵ろくなことにならないのも、ここ数日で学んだ。平和そうに見える風景の中へ、ヌメワニみたいなやつがしれっと混ざってくるのが異世界の怖いところだ。


 それでも、進むしかない。


 一週間生き延びたなら、次はもう少し先へ行く番だ。


 セーフハウスを振り返る。枝と葉と石で作った小さな拠点が、朝日に照らされて意外としっかり見えた。自分で言うのもなんだが、悪くない。ホテルにしたらレビュー欄で「秘境感は満点、設備は最低限、夜の鳴き声が怖い」と書かれそうだが、いまの俺には十分な帰る場所だ。


「留守番よろしくな」


 返事はない。当たり前だ。岩陰だし。


 それでも、戻る場所があると思えるだけで足取りは少し軽くなる。俺は棒槍を握り直し、尾根へ続く細い獣道めいた斜面へ足を向けた。


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