第1話 とりあえず、詰む前に動こう
異世界かもしれない。
口に出してしまったことで現実味が増したのか、あるいは現実味が増したせいで口に出さざるを得なかったのか、そのへんの順番はもうどうでもよくて、とにかく俺の目の前には会社帰りに寄れるコンビニもなければ、自販機もなければ、駅前で配られているポケットティッシュすら存在しない、野生百パーセントの山と森と川と、ついさっき俺を食べる気満々で追い回してきた長首トカゲみたいな何かがあった。
状況を一言でまとめるなら、かなりまずい。
空気がうまいとか、体が軽いとか、会社に行かなくていいとか、そういう社畜を一瞬で骨抜きにする魅力的な要素がないわけじゃない。むしろある。かなりある。あるのだけれど、寝床もなければ食い物もなく、ついでにこの辺りの生き物がどう見ても「日本の動物図鑑に掲載されていませんでした」みたいな顔をしている以上、「やったー田舎暮らしだー」などと両手を上げて喜んでいる場合ではないことくらい、目を閉じていてもわかる。
俺は斜面の下に立ったまま、自分の両頬をぱちんと軽く叩いた。
「はい、山田勘太郎さん、夢のスローライフごっこは一旦終了です。これからはですね、ちゃんと現実を見てください。空気がうまいだけで生きられるなら観葉植物で足りますからね」
冷静になれ。
まず確認すべきことは、いま俺がどれくらい危険な場所にいるのかで、その次に水と食料と寝床、それから簡単な道具の確保だ。これはキャンプ初心者向けの解説動画でもよく言っていた気がする。もちろん俺は初心者ではない。と言っても、本格的な山岳縦走をこなすほどの猛者でもないし、サバイバル番組の司会に呼ばれるタイプでもない。けれど学生の頃から妙に野外活動だけは好きだった。
焚き火の火を見ながらぼんやりするのが好きで、ナイフ一本で木の枝を削っている時間が好きで、ホームセンターのキャンプ用品売り場を意味もなく一周してしまう癖があり、連休が取れれば安いソロキャンプ場へ行って一人で肉を焼いて「今日は何もしないという最高の予定がある」と悦に入る、そんな、世間で言うところのわりと面倒くさいアウトドア好きである。
会社員をやっているあいだも、頭のどこかには常に「あのロープワーク、実際かなり便利だよな」とか「雨のときはタープ角度が大事なんだよな」とか、現実逃避としてはずいぶん実用的な知識が住み着いていて、いつ使うんだよそれと思いながら動画や本で覚えたあれこれが、ここへ来てまさかの本領発揮を求められている。
趣味って、大事なんだな。
異世界初日で噛みしめる教訓としてはかなり妙だけれど、本当にそう思う。ソシャゲに課金した記録は現在の俺を助けてくれないし、会社の売上目標を達成した経験も長首トカゲを追い払ってはくれない。週末にナイフを研ぎながら「こういうの、いざというとき役立つから」と誰にも披露しない雑学をため込んでいた自分だけが、いまのところ唯一の味方である。
問題は、その唯一の味方が荷物を持っていないことだった。
ナイフがない。火打ち石もない。ライターもない。ロープもない。タープも寝袋もない。あるのはスーツ一式と財布と社員証と赤ペン。サバイバル道具として考えた場合、どれも戦力評価がひどい。社員証なんて焚きつけにもなりそうにないし、赤ペンは遭難メッセージを書くくらいしか使い道がない。財布は革製だから細く裂けば火口に……いや現実逃避がすごいな。そこまで追い詰められたくはない。
俺はまず、周囲の地形を把握することにした。
さっき長首トカゲから逃げて滑り落ちてきたこの斜面は、見上げるとそこそこ急で、上へ戻るにしても一苦労しそうだった。左右を見ると、木々の隙間に少し明るい場所がある。谷の底に近い地形らしく、湿り気があるせいか草もよく育っていて、地面には分厚い落ち葉が積もっている。耳を澄ますと、水音はまだ近い。さっきの川と同じ流れなのか、それとも別の支流なのかはわからない。
「高いところを探す、がセオリーなんだけど……」
地形把握の基本は、見通しの利く場所へ行くことだ。地図がないなら余計にそうするしかない。問題は、見通しの利く場所というのが大抵「登る必要のある場所」とイコールでつながっているところで、革靴に泥まみれスラックスのサラリーマンが気軽に挑むには少々ハードルが高い。
それでもやるしかない。
俺は斜面の端を選び、木の根や岩を足場にして、慎重に上へ戻り始めた。足元は滑るし、葉っぱの下に石が隠れているし、手をつけばどこかしら湿っているしで、登山というより雑に組まれたアスレチックに挑戦している感じである。気を抜くとすぐに「安全帯もなしで何やってんだ俺」という正気が顔を出し、そのたびにいやもう異世界なんだから労基署は来ないだろと、妙に達観したツッコミで押し戻す羽目になる。
斜面を登り切ったところで、一度立ち止まって息を整える。
体は軽い。これは本当に助かる。息が上がらないわけじゃないが、会社の非常階段を五階分上がったときみたいに「人生のすべてを恨みたい」というほどにはならない。山の中を歩くなら、身体能力の回復はかなり大きい。もしかするとこの世界に来る際、最低限の健康状態だけは保証されたのかもしれない。いや、保証内容がしょぼすぎるだろ。転移保険の補償範囲が「肩こり改善」だけって聞いたことないぞ。
元いた淵のあたりへそろそろ近づくかと思い、足音を殺しながら様子をうかがう。長首トカゲの姿はない。水面も静かだ。少なくとも、さっきの一件で俺が「あの辺りにいると危険な存在」と認識したのと同じくらい、向こうも「見慣れない二足歩行が変な速度で逃げていった」と記憶してくれているとありがたい。
俺は川から少し距離を取りつつ、下流方向へ歩き始めた。
理由は単純で、水は大抵低いほうへ流れ、人の営みも水辺に集まりやすいからだ。現代日本でも昔の集落でも異世界ファンタジーでも、水がある場所は強いだろう。飲む。洗う。運ぶ。育てる。水辺は生きる拠点になる。人がいるなら、川か湖か泉か、そのへんに近い可能性が高い。
もちろん、その常識がこの世界で通じる保証はない。異世界側が「いやうちは空気中の魔力を凝縮して飲みますね」とか言い出したら話は終わる。けれど、知らない場所で完全にノーヒントなまま歩き回るよりは、川沿いという基準軸があるだけでもだいぶ違う。
森の中は思った以上に変化に富んでいた。さっき見たような湿った谷もあれば、少し開けた明るい場所もあるし、大きな岩がごろごろ転がる一帯もある。木々はどれも背が高く、幹の色や葉の形が微妙に違うのに、名前を知っているものが一つもない。日本の山にあるスギとかヒノキとかクヌギとか、そういう「聞いたことはある」種類に引っかからないのが逆に怖い。葉が五枚ずつ輪になって生えている木とか、樹皮が青みがかっている木とか、幹にうっすら発光する苔みたいなものがへばりついている木とか、植物園の特設展示でも見せられてるのかというラインナップで、景色としては綺麗なのに安心感が一ミリもない。
「映えるなあ……いや映えてる場合か」
思わずスマホで写真を撮りたくなるような光景がいちいち現れ、そのたびに「あ、スマホないんだった」と現実へ戻される。文明のない異世界でインスタ映えを気にするなという話なのだけれど、綺麗なものを見たときに誰かへ共有したくなる感覚は、社会性の名残なのか、それとも単に俺が観光客気質なのか、たぶん後者だろう。
しばらく歩くうちに、川の流れが少し広がり、渓谷めいた地形へ変わっていった。両側の岩壁が高くなり、水が削ったらしい丸い岩があちこちに転がり、透明な流れが白い泡を立てながら段差を落ちていく。景色としてはかなり壮観だ。観光地なら遊歩道と案内板がついていて、「この先、絶景ポイントまで徒歩十分」くらい書かれていそうな立派さがある。
問題は、いまの俺にとってそれが絶景より先に「進路が塞がれそう」という不安へつながることだった。
川沿いに歩ける場所は限られていて、ときどき岩場へよじ登ったり、木の根にしがみつきながら細い斜面を横切ったりしなければ先へ進めない。ハイキングコースじゃない。本物の自然だ。誰も歩きやすいよう整備してくれていない。景観が美しいほど、同時に「ここで足滑らせたら終わるな」という現実が脳裏に張りつく。
それでも、視界が開ける瞬間は純粋に見とれてしまう。
岩の合間に深い青を湛えた淵があり、その上へ木漏れ日が帯のように差し込み、水面の底で銀色の魚影がきらりと光って消える。少し先には、小さな滝になって落ちる水が霧の粒を散らし、その周囲だけ空気が冷たく澄んでいる。岩肌に張りついた緑の苔は濃淡が美しく、見たことのない白い花が細い茎を揺らしている。
「いや、ほんとに綺麗なんだよなあ……」
綺麗すぎて腹が立つ。
この状況でなければ、椅子でも出してコーヒーを淹れたい。いや、コーヒーはないんだけど。バーナーもないんだけど。頭の中では完全に「ここ、ソロキャン向きでは?」という評価が始まっているのに、現実の俺は泥だらけのサラリーマンで、昼までに住処と食料と安全を確保しないと本当に詰む立場にいる。景色の良さと状況の悪さが見事なほど噛み合っていない。
渓谷を抜けた先で、川は急に大きな湖へ流れ込んでいた。
「おお……」
思わず声が漏れる。
湖、と言っていいと思う。池ではない。ダム湖でもない。もっと自然な、山の懐に抱かれるようにして広がる水面で、風が吹くたび細かい波がきらきら光り、岸辺には丸石と草地が混ざっている。向こう岸はかなり遠い。湖面の奥にはさらに森と岩山が連なっていて、空の青がそのまま水へ溶け込んだみたいに鮮やかだった。
「ここで釣りしたら最高なんだろうな……」
釣り道具もないのに何を言ってるんだ俺は。
湖畔へ出たことで周囲を見渡しやすくなり、俺はようやく大きな事実をひとつ突きつけられた。
人の気配が、ない。
いや、本当にない。
煙が上がっている場所もない。畑もない。家もない。舟もない。道らしい道もない。薪を割った跡すら見つからない。湖ほどの水場があるなら、普通はどこかに人の手が入った痕跡があってもおかしくないのに、それが何もないのだ。視界いっぱいに自然だけがある。整いすぎるほど整っていて、人間の介入が一ミリも感じられない。
「……あれ、これ冷静に考えて、だいぶ詰んでない?」
いままで何となく、「川沿いに下れば誰かいるかも」と期待していた部分があった。異世界でもなんでもいいから、とりあえず村でもあれば話は早いのだ。言葉が通じる保証はないにしても、人間がいるだけで情報が増える。火の起こし方、食べられる植物、水場の安全、危険な獣、近くの街、こういう世界の常識、その全部を自力で手探りするより、誰か一人に聞けるだけで生存率は爆上がりする。
その希望が、いま湖の広さと一緒にすこんと抜けた。
いやいやいや、待て。まだ決めつけるな。人がいないと決まったわけじゃない。ただ見えないだけだ。湖の向こう側にあるかもしれないし、森の奥にあるかもしれない。けれど、少なくとも「数時間歩けば村が見つかります」みたいな優しいスタート地点ではないことは確かだ。
俺は湖畔の大きな石へ腰を下ろし、頭を抱えた。
異世界転移ものって、もう少しこう、町の広場とか、神殿とか、せめて人里の近くから始まるもんじゃないのか。なんで俺はサラリーマンの格好のまま、人類未踏みたいな山奥へ投げ込まれてるんだ。運営、雑すぎるだろ。初期配置の難易度設定が狂ってる。
湖面を見つめながら、現状を整理する。
水はある。たぶん飲める。少なくともいまのところ体調は悪くなっていない。
食料はない。魚は見えた。何かしら生物もいる。けれど捕る手段がない。
火がない。火種もない。
寝床がない。夜をどこでどう過ごすかが未定。
人里も未確認。
危険生物あり。
装備は会社員セット。
「うーん、綺麗に終わってるなあ……」
自虐もしたくなる。
それでも、嘆いていても状況は改善しない。こういうとき必要なのは、派手な逆転劇ではなく、細かく確実な手当てだ。生き残るってたぶんそういう作業の積み重ねで、奇跡のアイテムがポンと湧いてくるわけではない。少なくとも俺の周囲にはいま、浮かぶステータス画面も、アイテムボックスも、親切な妖精もいない。
なら、自分の知識を使うしかない。
「よし。方針変更」
俺は立ち上がり、湖を背にして周囲を見回した。
今日の優先順位を決める。
第一に、安全な拠点候補を探す。雨風をしのげる場所。できれば視界が利いて、背後が開きすぎていないところ。水場には近いほうがいいが、危険生物も来やすいからべったり近いのは避けたい。
第二に、道具を確保する。ナイフの代わりになる石、棒、蔓、容器になりそうなもの。文明がないなら、その辺に落ちている物の見方を変えるしかない。
第三に、食い物の目処を立てる。植物は危険すぎる。見慣れない世界でキノコや実に手を出すのは、だいぶ終わりの近い選択だ。優先は魚か小動物、あるいは貝や虫。いや、最後の候補にはいきたくないな。いきたくないが、選り好みして死ぬよりはましである。
第四に、火。火があればできることが増える。食えるものが増えるし、水の安全性も上がるし、夜の安心感も段違いだ。
この順番で動こう。
社会人を長くやっていると、無茶な案件ほど作業を切り分けて対処する癖がつく。全部まとめて考えると脳が逃げるからだ。異世界遭難までその癖が役に立つとは思わなかったけれど、役に立つなら何でもいい。
まずは拠点候補だ。
湖畔そのものは開けていて見通しが良い半面、身を隠すものが少ない。大型の獣が水を飲みに来る可能性も高い。川辺であの長首トカゲに遭遇したばかりなのだから、水辺が安全地帯だと思い込むのは危険すぎる。
少し離れた高台か、岩陰か、木の根元か。
俺は湖畔沿いを歩きながら、使えそうな地形を探した。日差しは高くなってきている。朝なのか昼前なのかよくわからないが、少なくとも太陽の位置から見て、夜まではまだ多少の余裕がありそうだった。余裕があるうちに、夜の不安を先に潰しておきたい。
しばらく歩いていると、湖から少し離れた斜面の中腹に、大きな岩の張り出しが見えた。洞窟というほど奥行きはないものの、半分屋根のようになっていて、下は比較的乾いている。周囲には背の高い草と木があり、完全に丸見えではない。湖までも歩いて数分。地面も泥ではなく、小石混じりで比較的しっかりしている。
「お、これは……けっこう良さそう」
俺は近づいて、周囲を慎重に観察した。
まず、獣の臭いがしないか。これは完全に勘だし、俺の鼻がそんな高性能なわけでもないけれど、野生動物の巣穴や寝床を横取りしたらしゃれにならない。鼻を利かせる。土と草と石の匂いしかしない。糞らしいものも見当たらない。地面に大きな足跡もない。小さな足跡っぽいものはいくつかあるが、鳥か何かだろうか。
岩陰にしゃがみ込んで中を確認する。奥は浅い。人間一人が身を丸めれば寝られるくらいのスペースがあり、風向きによっては多少吹き込むだろうが、むき出しよりはずっといい。雨が降ったときの排水も、地面の傾斜を見る限り悪くなさそうだ。
「ホテル異世界山荘・仮設一泊素泊まりプランって感じだな」
宿泊サイトに載せたらレビューは厳しいだろうけど、今日の俺には五つ星でもいい。
とりあえず、ここを暫定拠点に決めた。
決めた瞬間、気持ちが少し楽になる。拠点があるというだけで、戻る場所ができる。探索範囲を広げても迷いにくいし、集めた物を置いておける。会社でも、席があるだけでまだ自分の居場所がある気がしていた。異世界でも似たようなものらしい。いや会社と同列に扱うなよこの岩陰を。こっちのほうがよっぽど静かで居心地いいぞ。
拠点が決まったので、今度は道具探しだ。
ナイフの代用になる石。これは重要である。切る、削る、掘る、叩く、何をするにも先の尖った硬いものがあると作業効率が一気に変わる。石器時代が長かったのには理由があるわけで、文明以前の生活が石へ頼っていたのは単純で加工しやすく、それでいて用途の幅が広かったからだろう。
湖畔と川辺の石を見て回る。
丸く磨かれた石が多い中、ときどき割れた断面が鋭いものがある。黒っぽくて硬そうな石、白っぽくて脆そうな石、層の入った石。適当に拾っては別の石へ軽く打ちつけてみて、割れ方を見る。脆すぎるものは粉々になるし、粘るものは割れずに鈍い音だけ返してくる。
何個目かで、いい感じの石が見つかった。手のひらより少し大きく、打ち欠けた面が三角形に尖っている。完全な刃物ではないにしても、草を切ったり、枝の皮を削ったりするくらいには使えそうだ。もう一つ、平たい石も拾う。こちらはハンマー代わりになる。ふたつを持ち上げて比べてみると、自然物にしてはかなり頼もしい。
「よし、君たちは今日から文明です」
異世界初日、文明レベルが石二個で再建される。
少し笑ってしまいながら、今度は長めの棒を探した。槍のように使える棒が一本あると安心感が違う。武器としての威力より、距離を取れることが大事だ。藪を探る、足場を確認する、小動物を追い払う、魚を突く。用途は多い。
落ちている枝の中から、まっすぐで太さのあるものを選ぶ。長さは自分の身長より少し長いくらい。乾きすぎていないほうが折れにくい。拾った枝の余計な小枝を、石刃で削り落としていく。時間はかかる。効率は悪い。けれど、無から何かが形になる作業というのは妙に落ち着く。木の繊維に刃を入れ、削りかすがくるくる落ちていくのを見ていると、頭の中の焦りが少しずつ整理されていく。
「会社の企画書も、こうやって目に見えて削れたら気持ちいいのにな……」
いらない文章を削ってもなぜか次の修正依頼が増えるあの現象は、もう自然法則に近い。枝のほうがよっぽど素直だ。
先端を少し尖らせた棒が一本完成し、さらにもう一本、短めの棒も作っておく。こちらは掘る用。地面を掘ったり、焚き火のスペースを作ったりするのに使える。スコップもないのだから、棒一本でも道具としては大きい。
道具集めを進めながら、俺は食料候補にも目を配った。
湖には魚影がある。川にもいた。問題は捕れるかどうかだ。釣り針も糸も網もない状態で魚を捕るとなると、浅瀬へ追い込む、突く、罠を作るあたりが現実的だけれど、どれもすぐ成功するとは限らない。今日は一日目だ。いきなり高難度ミッションへ全ベットするのは危ない。
植物は相変わらず信用できない。
草の実、木の実、キノコ、山菜っぽい葉。見た目が食えそうなものほど怖い。日本でも毒草はわりと普通にあるし、異世界ならなおさらだ。ここで「たぶんいけるだろ」と口へ放り込んで腹を壊したら、その時点でゲームオーバーへの一本道が開通してしまう。
岸辺の石をどかしてみる。何か小さい生き物がいないか。現代日本の川でも、石の下にはエビや沢ガニやら何やらが隠れていることがある。食べられるかどうかはともかく、生物相の確認になる。
石の下から出てきたのは、半透明の殻を持つ小さな生き物だった。エビに近い。いやエビなのかもしれない。足の数を数える余裕はないが、ぴちぴち跳ねて水へ逃げていく動きはわりとそれっぽい。少し大きめの石の裏には、巻貝のような殻がいくつかついていた。これも見たことのない形ではあるけれど、貝の一種なら食える可能性は高い。
「おお、ちょっと希望が出てきたな……」
虫食いスタートを回避できるかもしれない。これは精神衛生上かなり大きい。もちろん油断は禁物だ。見た目が貝でも中身が猛毒スライムかもしれない。異世界を信用しすぎるな。だが、完全に手掛かりゼロだった数十分前よりは、だいぶましである。
拠点へ戻る途中、乾いた草と枯れ枝も集めた。火のためだ。火種がないのに集めても仕方ないと言えばそうなのだけれど、いざ火をつけられる段になって燃やす物がなければ話にならない。焚き付け用の細い枝、少し太い枝、長持ちしそうな薪候補。サイズごとに分けて岩陰へ運ぶ。地味な作業だ。地味だが、こういう積み重ねがあとで生死に響く。
岩陰のそばで、乾いた葉をどかして地面を少し掘り、浅いくぼみを作る。ここを焚き火の場所にする。周囲を石で囲い、延焼しにくいよう整理する。火がつくかどうかもわからないのに準備だけは一丁前で、自分でもちょっと笑える。新規事業の企画会議みたいだ。予算も許可もないのに資料だけ立派なやつ。
ひと息ついて、湖のほうを眺める。
風が渡り、水面が揺れ、遠くで何か鳥とも獣ともつかない声がする。人の気配はやはりない。静かで、広くて、美しい。ここへ座ってただ景色を見ているだけなら、人生のご褒美みたいな時間だと思えるだろう。実際には、岩陰へ石と棒を集めた泥だらけサラリーマンが、今夜生き延びる計画を必死に立てているわけで、情緒と現実の差がすごい。
「……とりあえず、水、拠点、石、棒。ここまでは良し」
声に出して確認する。自分の現在地を言葉で整理すると、少し安心する。
残る大問題は、火と食料だ。
火については、摩擦で起こす方法が真っ先に思い浮かぶ。棒を板へこすりつけるアレだ。キャンプ特集や無人島企画でよく見るやつ。見ているぶんにはロマンがある。やってみると地獄みたいに大変で、条件が悪いと全然つかない。木材の種類、乾燥具合、形状、体力、全部が絡む。練習なしでいきなり異世界本番へ投入されるのは、さすがに難度が高い。
火打ち石方式も、使える石と火口が揃えば望みはある。拾った石の中に火花が出そうなものがあるか試してみたいが、鉄分を含む鉱石でもなければ難しいだろう。会社の鍵でもあれば金属を使えたのに、そういう日に限って会社の入館証はカード式なんだよな。いや、入館証があっても火打ちにはならないんだけど。
食料については、魚と貝とエビもどきが有望。まずは浅瀬の観察だ。魚の動き方、集まる場所、水深。突けそうなら棒槍でいく。難しそうなら石で簡単な囲いを作って追い込む。貝は数が取れれば強い。火が起きなくても、生食が比較的安全な可能性があるのは二枚貝や巻貝の類だが、寄生虫や毒の問題もある。やはり火が欲しい。
「結論。火が欲しい。ものすごく欲しい」
就職活動の自己分析みたいになってきた。
俺は湖畔へ戻り、日当たりの良い乾いた場所を選んで、火起こしに使えそうな木を探した。柔らかめの板材になる木、硬めの回転棒になる木。全部名前はわからない。わからないけれど、爪で押して少しへこむか、重さはどうか、割った断面はどうか、そういう感覚で当たりをつけていく。幸い、折れた枝や朽ちかけた倒木はあちこちにある。
石刃で削りながら、板と棒のような形へ整える。ひどく時間がかかる。会社の効率化研修でこれを見せたら講師が卒倒するだろう。けれど、ここでは俺しかいない。タイムカードもない。成果物が燃えれば勝ちだ。
手作りの火起こしセットもどきが完成したところで、一度空を見た。太陽はかなり高い。まだ日はある。それでも、試行錯誤に使える時間が無限ではないことは頭の片隅で鳴り続けている。夜を迎える前に、一つでも多く不安を減らしたい。
岩陰へ戻り、乾いた草をほぐして小さな火口を作る。板へ溝を切り、棒を立て、両手で挟んで回す。こする。回す。こする。回す。
「っ、ふ、う……っ」
地味だ。地味なくせにきつい。
手のひらがすぐ熱くなる。棒が安定しない。削り粉は出るが、煙は出ない。体勢も悪い。膝が痛い。スーツのズボンでやる作業じゃない。アウトドア雑誌の巻頭特集で笑顔のお兄さんが「原始の火おこしに挑戦!」なんてやっていたけれど、あれは写真の外でスタッフが二十回くらい失敗してるだろ。知ってるぞこっちは。
何度か試しては手を止め、水を飲み、また回す。
削り粉が増える。少し焦げた匂いがする。おっ、と思ったところで棒が外れ、俺のやる気も一緒に飛んでいく。
「ああーっ、惜しい、今ちょっとよかった気がしたのに!」
誰もいないのに文句だけは一人前だ。
それでも諦めず続けていると、ふわ、と本当に細い煙が上がった。
「おっ……おおっ!?」
急に声が小さくなる。こういう瞬間、無駄に大声を出すと成功が逃げる気がする。削り粉の一点が黒くまとまり始めた。火種だ。まだ弱い。息の加減を間違えれば消える。俺は慌ててほぐした乾草へそれを移し、両手で包むようにして、慎重に息を吹きかけた。
ふう、ふう、と。
煙が増える。
頼む。ついてくれ。いまの俺は本当にお前が必要なんだ。社内政治より火種のほうがよっぽど純粋な願いを向けられる。
乾草の奥が赤くなり、ぱっと小さな炎が咲いた。
「うわっ、ついた! ついたついたついた!」
思わず立ち上がりそうになるのを必死でこらえ、そっと細い枝を足していく。火は生き物みたいだ。急に餌を盛りすぎるとすぐ拗ねる。細いものから、中くらいへ、少しずつ。炎が枝を舐め、ぱち、と音を立てた瞬間、胸の奥で何かが一気に軽くなった。
火だ。
本物の火だ。
ライターでもバーナーでもなく、自分で起こした火が、異世界の岩陰で小さく燃えている。
「すご……いや俺すご……」
自画自賛くらいさせてほしい。これはかなりすごい。もちろん動画や本で知識はあった。日本で一度、キャンプ場の体験イベントで似たような火起こしをやったこともある。けれど、装備なし、サバイバル初日、本気の必要性込みで成功したのは重みが違う。自分が文明側にまだ立てている感じがする。
火の安心感は圧倒的だった。
暖かい。明るい。煙が虫除けになるかもしれない。水を沸かせるかもしれない。食えるものの範囲が広がる。夜に怯える心まで少し和らぐ。文明というのは電気とガスだけでできているわけじゃなくて、こういう、燃えるものを燃やせる状態が維持されていることそのものなのだと、岩陰の前でしゃがみながらしみじみ思う。
「よし……よし、これで一歩前進」
火があるうちに食料だ。
俺は火を小さく保てるよう周囲へ石を寄せ、太めの枝を近くへ置き、すぐ戻れるようにしてから湖畔へ向かった。棒槍と石刃を持ち、浅瀬を観察する。魚はいる。小さめの群れが岸沿いを回り、ときどき岩陰へ入る。問題は、こっちの動きを見ているんじゃないかと思うほど素早いことだ。
靴を脱いで水へ入るか少し迷い、やめた。革靴を濡らすと乾かすのが面倒だし、裸足で異世界の湖へ入るのは勇気がいる。毒持ちの貝とか、噛む小魚とか、透明で見えにくい何かがいたら嫌すぎる。よって岸から勝負する。
浅い入り江のような場所へ魚を追い込めないか考え、石を少しずつ並べて狭い通路を作る。原始的な魚罠だ。完成度は低い。小学生の自由研究より雑かもしれない。けれど、流れのない湖畔なら多少は機能する可能性がある。さらに、石を投げて魚を驚かせ、狭い場所へ寄せる。逃げた。うん、知ってた。
「簡単に捕れたらみんな苦労しないよな……」
そんなことを言いながら試行錯誤しているうち、岸辺の岩に付着していた貝が数個採れた。石刃でこじると、意外とあっさり外れる。巻貝型で、大きさは親指の先から第一関節くらいまで。小さいが、ないよりいい。さらに石の下を探ると、エビもどきも二匹ほど捕まえられた。透明感のある殻と細長い体。見た目はかなり食えそうだ。食えそう、という言い方の雑さが嫌になるが、いまはその判断基準でいくしかない。
魚は結局一匹も捕れなかった。
悔しい。ものすごく悔しい。けれど、初日から万能感を持つとたぶん死ぬ。現実を見ろ。お前はいま棒を持った素人だ。魚のほうが水中では百倍プロである。悔しさを噛みしめつつ、貝とエビもどきを持って拠点へ戻る。
火は生きていた。
小さくなってはいたが、ちゃんと赤い芯が残っている。うれしい。帰る場所に火が残っているだけで、世界の厳しさが少しだけ後退する。
細枝を足し、火を整え、平たい石を火のそばへ置いて温める。簡易的な焼き台のつもりだ。エビもどきは串が欲しいなと思い、細い枝を削って作る。貝はそのまま火の近くへ。殻がはじけたり変な液を飛ばしたりしないことを祈る。
「異世界一食目がこれかあ……」
豪華さは皆無である。
けれど、火の前で生き物が焼けていく匂いを嗅いでいると、不思議と心は少し落ち着く。食べるという行為は、生きる実感に直結している。会社でコンビニおにぎりを噛みながら資料を修正していた昼休みとは、重みがまるで違う。いま俺が口にしようとしているのは、山と湖と石と火と、数時間の労力のかたまりみたいなものだ。
エビもどきが赤っぽくなった。これはかなりそれっぽい。匂いも悪くない。貝のほうは口が少し開いている。完全な安全はわからない。わからないが、腹は減っている。いつまでもゼロカロリーで動き回るわけにもいかないからな。
俺はまずエビもどきの一匹を手に取り、息を吹きかけて冷まし、慎重にかじった。
ぷり、とした。
「……お」
味がある。
塩はない。調味料もない。けれど、ちゃんと甲殻類っぽい旨みがある。淡白だけれどまずくない。むしろうまい。空腹補正を差し引いても十分いける。少なくとも、口へ入れた瞬間に舌が痺れるとか、喉が焼けるとか、そういう恐怖展開ではないことは確かだった。
俺は二口目を噛みしめながら、じんわり安堵した。
「……よかったあ……」
初めて異世界の食べ物を飲み込んだ。
それは小さなエビもどき一匹で、見た目も大したことはなく、料理と呼ぶにはだいぶ寂しい代物だったけれど、俺にとっては大きな一歩だった。少なくともこの湖には、俺が火を通せば食えそうな生き物がいる。食の可能性がゼロではない。ゼロじゃないだけで、かなり違う。
貝も一つ試す。こちらは少し癖がある。泥っぽさというか、川貝に近い香りというか、好んで大盛りにしたい感じではない。それでも食べられる。腹に入る。いまはそれが何よりありがたい。
火の前で、俺は小さく息をついた。
朝、というか目覚めた直後は、本当に何もなかった。異世界かもしれないという情報だけがあって、他は全部ゼロだった。それがいま水があり、岩陰があり、石の刃があり、棒があり、火があり、少しだけ食べられるものまで見つかった。
村はない。人もいない。安全とはほど遠い。景色がどれだけ綺麗でも、その現実は変わらない。
それでも、何もないところから一日でここまで持ってきたのだと思えば、ちょっとくらい自分を褒めてもいい気がした。
「うん、まあ……初日にしては上出来じゃないか、俺」
もちろん、問題は山ほどある。
今夜、無事に眠れるのか。
明日以降も食料を確保できるのか。
この湖周辺だけで生きていけるのか。
人里は本当にないのか。
異世界のルールは何なのか。
さっきの長首トカゲみたいなのが夜に来たらどうするのか。
ひとつ解決すれば、ひとつどころか五つくらい不安が増える。それでも、社会人時代から思っていた。たいていの地獄は、締切の三時間前に突然発生する全部入り案件よりは、ひとつずつ順番に殴れる問題のほうがまだましだ。
火を見つめながら、俺は湖の向こうに沈み始めた光の色を眺めた。
日が傾きかけている。空の青が少しずつ柔らかくなり、湖面には金色の筋が伸びていた。綺麗だ。腹が立つくらい綺麗だ。異世界一日目の終わりにしては、景色だけ妙にドラマチックで困る。
「さて……」
俺は立ち上がり、拾ってきた太めの枝を火へ足した。
今夜を越える。
まずはそれだ。
そこを越えたら、明日はもっと広く探す。村がないなら別の地形を探す。山の稜線へ出る。湖の反対側を回る。使える素材を増やす。魚を捕る精度を上げる。寝床も強化する。
異世界スローライフなんて、たぶん最初から成立するものじゃない。
寝床を作って、水を確保して、火を守って、やっとその入口が見えるくらいのもので、いまの俺はようやくスタートラインの前にしゃがみ込んだあたりだろう。
火はぱちぱちと鳴り、岩陰に暖かな色を広げていた。
その光を見ながら、俺は棒槍を手の届く場所へ置き、石刃の位置を確認し、水を入れられそうな大きめの貝殻がないか頭を悩ませ、夜へ向けて一つずつ準備を進めていった。
生き延びる術を考える。全力で考える。
会社で覚えた根性論じゃなく、休日に積み上げたアウトドア知識と、いまこの場で拾った現実をつなぎ合わせながら、異世界での初日をどうにかこうにか人間らしいかたちへ持ち込もうとしていた。




