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プロローグ


挿絵(By みてみん)





 たぶん、死ぬときってもっとこう、劇的なものだと思っていた。


 映画みたいに視界が白く染まるとか走馬灯がフルカラーで再生されるとか、天使か閻魔かよくわからない中間管理職っぽい誰かが現れて「お疲れさまでした、山田勘太郎さん。こちらが死後のご案内になります」みたいなことを言うとか、そういう人生の締めくくりにふさわしいイベントがひとつくらいはあるものじゃないのかと社会人二十九年目にしてそこそこ本気で思っていたのだけれど、実際のところはびっくりするほど雑で、締切の赤字がべったりついた資料を抱えたまま会社のデスクに突っ伏し、「あ、これ、ちょっとまずいかも」と考えたところで記憶が途切れているので、もしあれが本当に最期だったのなら俺の人生は終電よりもそっけなく運行終了したことになる。


 なんというか、もっと段取りというものがあってもいいだろう。


 こっちはこっちで忙しかったのだ。木曜の夜に差し戻された企画書を金曜朝までに直して、取引先の無茶ぶりに「前向きに検討します」と言いながら実質土下座の角度で頭を下げ、部長が雑に増やした仕様変更を「現場と連携して調整します」と笑顔で飲み込み、気づけば三日くらいまともな睡眠を取っていなかった。そこへ最後のひと押しみたいにエナジードリンクを流し込み、パソコンの画面に並ぶセルを見つめながら魂の薄まりを実感していたのだから、死ぬにしてもせめて「退勤打刻」のあとにしてほしかったし、労災の判定が通りやすいよう証拠も残したかった。


 そのへんを丁寧に詰める余地もないまま、俺の意識は暗転し、気がつけば――。


「……冷たっ」


 最初に出た言葉がそれで、続いて肺に飛び込んできた空気のうまさに、今度は「えっ」と情けない声が漏れた。


 いや、うまい。


 むちゃくちゃうまい。


 空気ってこんなに味があったっけと真顔で考えてしまうくらい、鼻に入ってくる風が澄んでいて、喉の奥を抜ける感覚まで妙にくっきりしている。エアコンの乾いた風でもなければ、駅前の排気ガス混じりの湿った空気でもなく、もっとこう、葉っぱと土と朝露をミキサーにかけて冷蔵庫で冷やしたみたいな、意味はわからないのに体が「それそれ、それだよ」と全力で歓迎してくるタイプのうまさだった。


 背中にはごつごつした感触があり、肩のあたりがひんやり濡れていて、頭の横では小さな水音がしている。うっすら目を開けると、視界の端で緑色のものがゆらゆら揺れていて、どう見ても蛍光灯の反射じゃない。俺は半分寝たままの頭で「誰だよ会議室に観葉植物こんなに持ち込んだの」と考え、それから一拍遅れて、会議室に土の匂いがこんなに充満しているはずがないことに気づいた。


 まぶたを全開にした。


 青空があった。


 ビルの天井ではなく、オフィスの白いパネルでもなく、手を伸ばしたって届く気配のない、広くて高くてやたらと青い空が、木々の枝葉の隙間からのぞいていた。雲までちゃんと浮かんでいる。合成でも壁紙でもなく、目が覚めたら自然豊かな高原リゾートにいましたという旅行パンフレットの表紙みたいな、文句のつけようがない本物の空だった。


「……あの、これは……なんでしょうか」


 誰にともなく尋ねてみたところで、返事をくれる相手はいない。聞こえるのはさわさわと葉がこすれる音と、水が石を撫でるさらさらした音と、どこか遠くから響いてくる鳥らしき鳴き声だけで、あまりにも文明の気配がないものだから、俺は寝起き一発目にしてすでに小さな不安を抱き始めていた。


 いやいや、落ち着け。落ち着こう、山田勘太郎。現代人たるもの、未知の状況に放り込まれた際はまず深呼吸し、周囲を観察し、感情に流されず客観的に事実を積み上げるべきである。研修資料にもそう書いてあった気がする。たぶん災害対応マニュアルのどこかに。たしか「身の安全を確保しろ」「デマに注意しろ」「落ち着いて行動しろ」みたいな、どこの誰にでも刺さる優等生の三点セットがあったはずだ。


 よし、身の安全。


 俺はゆっくり上半身を起こし、自分の体を見下ろした。


 着ているのは、見慣れた安物のワイシャツにくたびれたスラックス、その上に会社支給の薄いジャケット。ネクタイは首にゆるく引っかかっていて、社員証のストラップまでぶら下がっていた。胸ポケットには赤ペンが一本、内ポケットには折りたたみのメモ帳、腰にはベルト、足元は革靴。完全に通勤途中のサラリーマンスタイルである。山に来る格好じゃない。ピクニックに誘われても断る格好だし、キャンプ番組に映り込んだらスタッフに「危ないので一度下がってください」と止められる格好だ。


「なんでだよ」


 事情説明なしで服装だけ現実を保たれても困る。せめて異世界に行くなら、動きやすい服とか旅人っぽいマントとか、初心者支援パックみたいなものがあるだろう。チュートリアル担当の妖精はどうした。剣一本、パンひとつ、謎の初期アイテムひとつ、それくらいの気遣いはあってしかるべきじゃないのか。社会人を異常環境へ放り込むなら、最低限のオンボーディングを用意してくれ。


 文句を言いながら周囲を見回す。


 俺がいたのは、小さな川のほとりだった。川幅は二メートルあるかないかで、水は驚くほど透き通っている。底の丸石まで見えるし、小魚みたいな影もちらちら動いている。川沿いには背の低い草が密に生えていて、少し離れたところから先は木、木、木、たまに岩、また木、という潔すぎる緑の暴力が続いていた。道路はない。電柱もない。ガードレールなんて夢のまた夢。人の手が入った痕跡を探そうとしてみても、切り株ひとつ見当たらない。


 山だ。


 かなり本気の山だ。


 休日にハイキング客がスニーカーでふらっと来るような生ぬるい丘ではなく、地図アプリで見たら「この付近の情報はありません」と半ギレされそうな、野生側に主導権があるタイプの山である。


 俺は立ち上がろうとして、足元の石に革靴を滑らせかけ、ひとりで妙に優雅な動きになった。危ない。山と革靴の相性が最悪なのは小学生でも知ってる。山をなめるなという標語は、たぶんこういう瞬間のためにある。


「とりあえず……ここ、どこ?」


 言葉にしたところで位置情報が脳内にポップアップするわけもなく、空しく森へ吸い込まれていく。


 俺はポケットを探った。スマホだ。文明の最後の砦。これがあればとりあえず地図が見られるし、圏外でも現在地くらいは……いや山奥じゃ厳しいかもしれないけれど、せめて時計にはなる。あとはライト。メモ。カメラ。スマホ一台あれば、現代人はたいがいの場面で「なんとかなる気がする」という根拠薄弱な自信を得られるのだ。


 右ポケット。ない。


 左ポケット。ない。


 ジャケットの内ポケット。名刺入れ。


 胸ポケット。赤ペン。


 尻ポケット。財布。


「スマホがないんだけど」


 声が震えた。現代社会から切り離された感覚が一気に現実味を帯びる。財布があるのにスマホがないというのは平和な日本なら「置き忘れたかな」で済む話でも、この状況だと人間から左腕一本もがれたくらいの喪失感がある。俺の検索履歴も写真フォルダも、メモアプリに書き散らしたスーパーの買い物リストも会社のチャットに積み上がった未読も、ぜんぶ俺の知らないところへ置いてこられたわけで…。いや未読はそのまま朽ちてくれて問題ないのだけれど、それにしたって心細いな…


 財布を開いてみる。千円札が数枚、小銭、ポイントカード、社員証のコピー、よくわからないレシート。うん、山の中で活躍する気配が一ミリもない。コンビニのホットコーヒー無料券なんて、ここでは落ち葉より価値が低い。


 そんな絶望の中、社員証が目に入った。


 写真の中の俺はいまよりちょっとだけ生気があり、口元に「この会社で頑張ります」と言わされた新卒の頃の名残みたいな不器用な愛想笑いを貼りつけている。名前は山田勘太郎。部署名は営業第二課。発行元の会社名を見た瞬間、胸の奥に妙な感情が湧いた。


「……あー、もしかして、もう出社しなくていい?」


 俺は思わず川辺に立ったまま空を見上げた。


 風が木の葉を揺らし、どこかで鳥が鳴いている。誰も俺に電話してこない。チャットの通知も鳴らない。上司から「山田くん、これ急ぎで」の一言が飛んでくる気配もない。納期の概念が存在しないかのような静けさが、山じゅうに広がっている。


「……最高では?」


 最悪の遭難状況を前にして、最初にそこへ着地するのはどうなんだという自覚はある。あるのだけれど、仕方ない。睡眠不足で人格の一部が摩耗しきった社畜にとって、「会社と連絡がつかない」は恐怖より先に解放感へ変換されることがある。よくないことだとは思う。社会として。個人の精神衛生としても。まともな労働環境で育っていたら、たぶんもう少し純粋にパニックになれていたはずだ。


 俺は大きく息を吸い込み、鼻からゆっくり吐いた。


 うまい。やっぱり空気がうまい。これだけで二日は機嫌よく生きられそうなくらい、身体の芯まで洗われる感じがする。都会の空気がまずいというより、この空気がうますぎるのだ。体内のすべての細胞が「こんな高品質の酸素、聞いてない」とざわついている。肺がブラック企業からホワイト企業へ転職したみたいな反応を見せていた。


 ……いや、だから落ち着け。


 解放感に酔っている場合ではない。現在地不明、通信手段なし、装備はサラリーマン一式。食料も水もない。季節はたぶん春から初夏あたり。昼はいいとして、夜になれば気温が下がる。山なら動物もいる。方向感覚に自信はないし、そもそもここがどこの山か見当もつかない。


 そこまで考えてから、俺は首をひねった。


 どこの山か見当もつかない、というより、日本のどこかにしては様子がおかしくないか。


 木の種類がわからないのは、俺が植物に詳しくないせいで説明がつくとして、鳴いている鳥の声がまるで知らない。姿は見えないのに、キュルルルル、グォン、みたいな、鳥にしてはちょっと喉が強そうな音が混じっている。カラスやスズメが一羽もいないのも変だ。川の水は透明すぎるし、空気はうますぎるし、なにより景色全体が妙に鮮やかだった。


 絵の具の発色がひと段階上がったみたいに、葉の緑が濃い。空の青も深い。川面で跳ねる光までくっきり輪郭を持っていて、目が慣れていないだけなのか、それとも俺の脳が死後サービスで高性能化されたのか判断に迷う。


 俺は川へしゃがみ込み、水面をのぞいた。


 映っているのは見慣れた顔だった。ちょっと頬がこけ、目の下に隈があり、髪は寝ぐせで跳ね、全体的に「お疲れさまです」と言いたくなる顔をしている。俺だ。異世界転生なら十代に若返るとか、せめてクマくらい消えるとか、そういう福利厚生があっていいと思うのに、現実は容赦ない。サービス精神が欠片もない。


「見た目そのままかあ……」


 いや、ちょっと待て。


 水面の俺はたしかに俺なのだけれど、妙に元気そうでもあった。肌の色が悪くないし、目の焦点もちゃんと合っている。体のだるさもない。肩こりが消えている。腰の重さもない。頭痛もない。徹夜明け特有の、脳みそに薄い綿が詰まってる感じもない。これはかなり異常である。数日前まで階段を上がるだけで膝が抗議していた男のコンディションではない。


 試しにその場で軽くジャンプしてみる。


 ぴょん、と予想以上に高く跳ねた。


「おっ」


 もう一回跳ぶ。


 ぴょん。


「おお?」


 体が軽い。二十九歳男性会社員の跳躍力じゃない。体育の授業なら先生が「山田、今日なんかあったのか」と二度見する程度には軽い。走ったら速いかもしれない。腕立て伏せもできるかもしれない。なんだこの、健康診断で見せたことのない本来のスペックみたいな身体は。


 俺はしばらくその場で無駄にはしゃいだ。川沿いでぴょんぴょん跳ねるスーツ姿の男は、冷静に考えるとかなり不審だし、もし第三者に見られていたら「遭難のストレスでおかしくなった人」の第一段階として扱われても文句は言えないのだけれど、社畜の疲労が抜けた肉体というのはそれだけで感動的なのだ。肩が回る。首も痛くない。息を吸っても胸が苦しくない。朝から晩までパソコンの前で削れていった俺の人間らしさが、山の空気ひとつで回復している。


「これ、ワンチャン……田舎暮らし向いてる可能性あるな」


 現実逃避の角度がすごい。


 そんな自覚を持ちつつも、俺は少しだけ前向きになっていた。どこかわからない山にひとり放り出されている現状は全然笑えないはずなのに、心の中にじわじわと広がっていくのは恐怖よりも、「もしかして、人生やり直せるんじゃないか」という、かなり雑で危うい期待だった。働かなくていいとは言わない。俺は別に働くこと自体が嫌だったわけじゃない。嫌だったのは寝る時間まで削って誰かの尻拭いをし、成果を横取りされ、達成感より先に追加タスクが降ってくるあの永遠機関みたいな日々で、いま目の前にあるのは少なくともそれとは正反対の景色だった。


 川がある。木がある。空がある。俺がいる。


 会議はない。


 控えめに言っても、かなり好ましい。


 この時点で「遭難をポジティブに解釈し始めた男」として危険域に入りつつあった俺は、とりあえず川の水を手ですくって口に含んだ。冷たい。びっくりするほど冷たい。コンビニで売ってる天然水に「澄みきった源流の一滴」とか書いてあっても、ここまで清廉な味はしないだろうというくらい冷たくて、やわらかくて、うまい。うますぎて怖い。もし後から腹を壊したら、俺の感動はそのまま反省文に変わるのだけれど、少なくとも喉を潤した瞬間の幸福は本物だった。


「生き返る……っていうか、もう一回生きてるのかこれ……?」


 自分で言っていてよくわからなくなる。


 死んだ記憶があるのに、生きている感覚もある。夢にしては五感が鮮明すぎるし、病院のベッドに寝かされているなら看護師さんの声くらい聞こえてきてほしい。俺は頬をつねってみた。痛い。かなり痛い。こういうときの確認方法は昭和から一歩も進化していない気がする。


 川辺を少し歩いてみる。足場は悪い。石がごろごろしていて、革靴の裏ではろくに踏ん張れない。数歩進んだだけで、山用の靴の偉大さと、会社の革靴がいかに「平らな床の上だけを想定して生きているか」を実感した。お前、オフィス街では頼りになるのに、自然相手だと本当に何もできないんだな。俺も似たようなものかもしれないが。


 少し上流へ進むと、川幅が広がり、小さな淵になっている場所が見えた。水面が青く深く、周囲の木々を鏡みたいに映している。綺麗だなと思って立ち止まった、そのときだった。


 水の中に、何かいた。


 最初は魚だと思った。影が大きい。いや、魚にしては大きすぎる。子ども一人分くらいある。いやそんな川魚がいてたまるか。影は淵の底でゆっくり向きを変え、ぬるりと浮上してくる。長いものが見えた。尾ひれじゃない。首だ。首がある。しかもやたら長い。


「え」


 顔が水面を割って現れた。


 爬虫類っぽい頭部だった。口先が細く、目が横についていて、首から下はつるりとした鱗に覆われている。全体は大きなトカゲに近いのに、足より先に首がにゅっと伸びていて、そのアンバランスさが妙に気持ち悪い。体長は二メートルくらいだろうか。いや、首を入れたらもっとあるかもしれない。そいつは水から半身を出し、濡れた鱗に日光を反射させながら、ぴたりとこちらを見た。


 俺も見た。


 そいつも見た。


 しばらく見つめ合った。


「…………ワニ?」


 日本の山奥の小川にワニがいるわけがない。


 声に出した瞬間、俺の理性が全力でツッコミを入れてきた。ワニですらない気がする。首が長い。そもそも顔つきが少し違う。図鑑で見たどの生き物にも似ていない。近いものを必死に探そうとしても、「ドラゴンを水辺用にしたらこうなるかも」くらいの雑な感想しか出てこない。


 その生き物は、口を開いた。


 ギチギチ、と金属をこすり合わせたみたいな、耳障りで低い音がした。威嚇なのかあくびなのか判別がつかないまま、俺は一歩、二歩と後ずさる。革靴の底が石を滑り、背中に冷や汗が流れた。空気がうまいとか田舎暮らし最高とか、数分前までの浮かれた感想がきれいに吹き飛ぶ。


「いや、すみません、お取り込み中でしたかね、俺ただの通りすがりなんで、別に食べるとかそういう――」


 交渉の相手としてどう見ても不適切だった。


 そいつは前足で水を蹴り、一気に岸へ乗り上げてきた。速い。ぬるりとした見た目のくせに恐ろしく速い。口が大きく開く。歯が見えた。思ったよりぎっしり生えている。全然優しくない。


「うわああああ!」


 俺は反射で逃げた。


 森の中へ向かって全力疾走するサラリーマン。人生でこんな走り方をする日が来るとは思わなかった。枝が顔に当たる。足元の根に引っかかりそうになる。後ろからガサガサと何かが追ってくる音がする。振り返る余裕なんてあるはずもないのに、人間の本能はそういうときに限って「ほら、怖いもの見たさだよ」と背中を押してくるから困る。ちらっと後ろを見る。来てる。めちゃくちゃ来てる。長首トカゲみたいなやつが、川辺のぬめっとした印象をかなぐり捨て、陸上短距離選手みたいな勢いで木立の間を突っ込んできていた。


「速いって! 見た目と性能が一致してない!」


 叫びながら走る。肺は苦しくない。足は動く。体が軽いことに、こんなかたちで感謝する日が来るなんて予想していなかった。もし会社員時代の俺のままだったら、開始三十メートルで膝に手をつき、「すみません、ちょっと休憩で」と言いながら捕食されている。人の進化というのは、たぶんこういう危機で測るべきなんじゃないか。


 茂みを突っ切ったところで、目の前に倒木が現れた。太い。跨ぐには高い。回り込む余裕は……あるか? ないか? 後ろの音が近い。考える暇を省略し、俺はその倒木に手をついて飛び越えた。自分でもびっくりするくらい綺麗に越えた。中学の体育祭で見せたかったぞ、その身体能力。


 着地した瞬間、地面が少し下っていてバランスを崩す。前につんのめりながら数歩走り、そのまま斜面を転がるように滑り降りた。背中に枯れ葉が入り、腕に小枝が刺さり、口の中へ土の味が広がる。


 斜面の下でようやく止まり、半ば泣きそうな顔で上を見る。


 追ってきた生き物は倒木の向こうで動きを止めていた。こちらを見下ろし、低く喉を鳴らしている。斜面を下りたくないのか、それとも縄張りの境界でもあるのか、数秒ほど迷うようなそぶりを見せたあと、くるりと首を返して森の奥へ消えていった。


 静寂が戻る。


「……はぁ……はぁ……え、こわ……」


 心臓がうるさい。耳の中で脈が鳴っている。腕は擦りむけ、スラックスの膝も泥だらけになっていた。見た目だけなら休日に山で派手に転んだサラリーマンだが、問題の本質はそこじゃない。


 日本の山に、いまの生き物は、絶対いない。


 動物園にもいない。テレビ番組の珍獣特集でも見たことがない。いや、世界のどこかの奥地にはいるかもしれないけれど、少なくとも俺の常識の枠の中には存在しない。首が長くて、水から出てきて、トカゲっぽくて、歯がぎっしりで、陸上でも速い。そんな都合よく気持ち悪い生物、現代日本の河川環境で育成されていたらニュースが大騒ぎだ。


 俺は斜面の下で仰向けになり、木漏れ日の差し込む空を見上げた。


 頭の中で、ここまでの情報を並べる。


 死んだ記憶がある。


 山の中で目覚めた。


 空気が異常にうまい。


 体の調子が異様にいい。


 スマホはない。


 見たことのない生き物がいる。


 どう考えても、普通ではない。


「……いや、待って」


 そこでようやく、いちばん避けて通っていた可能性が、頭のど真ん中へ座り込んだ。


 俺、これ、もしかして。


「まじで異世界、とか……?」


 口にした瞬間、語感の軽さに対して内容の重さが噛み合っておらず、自分で自分に引いた。もっと他に言いようがあるだろう。だって異世界だ。漫画か。ラノベか。ゲームか。休日にだらだら動画サイトを見ながら「こういうのんびりスローライフもの、いいよなあ」と流し読みしていた、あの異世界か。まさか自分が行く側になるとは思わないだろう、普通。


 普通じゃないのかもしれないけれど。


 俺は肘をついて起き上がり、周囲を見た。さっきまでただの山にしか見えなかった景色が、いまは急に別物の顔をし始めている。木の幹が少し太すぎる気がする。葉の形もどこか馴染みがない。空気に混じる甘い匂いは、花だろうか、それとも知らない何かの胞子だろうか。遠くで鳴いた鳥らしき声も、日本の山で聞くにはあまりに異質だ。


 斜面のすぐ横には、紫色の花をつけた背の高い草が群生していた。綺麗だなと思って近づきかけ、ふと花弁の付け根が小さく開閉しているのに気づき、俺は全力で視線をそらした。いやいやいや。花って呼吸するっけ。するのかもしれないけど見えるほどパクパクはしないだろう。あれは近づいて観察する側じゃない。たぶん餌か何かを待ってる側だ。


 認識が一段階変わると、世界じゅうが急に「よく見ると変だぞ」という顔をし始める。


 つまり、ここはそういう場所なのだ。


 俺の知っているルールが通じない場所。


 仕事も、電車も、コンビニも、ネット回線も、たぶん保険証もマイナンバーも届かない場所。


 代わりに、見たことのない生き物と、見たことのない植物と、意味がわからないくらい生命力の強い自然が、当然のように存在している場所。


 異世界。


 言ってしまえばそれで済むし、言いたくない気持ちもある。そんな単語ひとつで片づけられてたまるかという反発がないわけじゃない。けれど、説明のつかなさを最短距離でまとめるなら、もうそれしかない気がした。


 俺はしばらく黙ったまま座り込み、それからゆっくり顔を覆った。


「……マジかあ」


 出てきた感想があまりにも庶民的で、自分でもちょっと笑ってしまう。


 神託もなければ勇者認定もない。剣も魔法もステータス画面も見えていない。現時点で判明しているのは、「会社には行かなくていい」と「たぶんここ日本じゃない」と「さっきのトカゲには食われかけた」の三点だけで、情報としてはひどく心もとない。それでも、胸の奥で小さく何かが動き始めていた。


 怖い。かなり怖い。


 先の見えない山の中にひとりで、常識の通じない世界に放り込まれて、怖くないはずがない。


 それでもほんの少しだけ、妙に胸がすっとしていた。


 あの会社で目を覚ます朝よりは、たぶんずっとましだ、と考えてしまう自分がいる。


 どれだけ終わってたんだ俺の労働環境。


 笑うしかない。


 木漏れ日の下で、泥だらけのスーツ姿のまま、俺は長く息を吐いた。空気がうまい。現実感のない景色の中で、その一点だけは何度確認しても本物だった。


「……よし」


 何がよしなのか、自分でもまだわからない。


 わからないまま、俺は立ち上がった。


 ここが異世界なら、まずは生き延びるしかない。


 目の前の世界がどんな場所なのか、それを知らないことには話にならない。


 会社員時代に身につけた最大の能力が「無茶ぶりへの適応」だとしたら、異世界初日からそれを試されるのも、ある意味では筋が通っているのかもしれなかった。


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