青いバラが咲かない夜は
地下室の通い慣れた階段を下りる足取りは、いつだって正確なリズムを刻んでいる。香苗は白衣のようなエプロンのポケットから、使い古されたピンセットを取り出した。
彼女が経営するフラワーショップ・ブルーラグーンの地上階には、ありふれた赤いバラや、どこにでもあるカスミソウが並んでいる。しかし、香苗の本体は、この地下にある高度なバイオ実験室にこそあった。
「計算上は、アントシアニンの結合をここで阻害し、デルフィニジンを優位に立たせる。そこに発光バクテリアの遺伝子を組み込めば、月明かりの下で真実の青を放つはずなんです。はずなんです、理論上は」
香苗は独り言を呟きながら、培養液の入ったフラスコを覗き込んだ。彼女の瞳は、理知的な光を宿しながらも、どこか遠くの、この世には存在しない色を見つめているようだった。
数日前、深夜まで及んだ交配作業の最中、香苗は空腹のあまりコンビニのスティック野菜をかじっていた。その時、ふとした拍子に大根の欠片を培養槽に落としてしまったのだ。本来ならすぐに取り除くべき不純物。しかし、極度の疲労に襲われていた彼女は、そのまま眠りに落ちてしまった。
今、目の前にあるのは、期待していた気高い青いバラではなかった。
プランターの土から、不気味なほど逞しい葉が突き出している。そして、土の隙間から漏れ出しているのは、防犯灯もかくやというほどに強烈な、青白い蛍光色の光だった。
「……大根ですね。どう見ても、品種改良された発光大根です」
香苗は膝をつき、土を掘り起こした。現れたのは、内側からLEDライトを仕込んだかのように輝く、立派な大根だった。あまりの光量に、実験室の隅にある古い顕微鏡の影がくっきりと壁に映し出されている。
かつて、彼女に別れを告げた男は言った。「君は花のような華やかさがない。土の匂いがする、地味な根菜みたいだ」と。その言葉は、鋭いトゲのように香苗の心に刺さったまま抜けない。だからこそ、彼女は誰よりも美しい「青いバラ」を作り出し、自分の価値を証明しようと躍起になっていた。
それなのに、出来上がったのは究極の根菜だった。
地上から、店のドアが開く鈴の音が聞こえた。香苗は溜息をつき、その光る物体を新聞紙でくるむと、地上階へと上がった。
店に立っていたのは、近所に住む盲目の少年だった。彼はいつも、花の香りを嗅ぎにやってくる。
「香苗さん、なんだか今日は、お店の中が不思議な感じがするよ。お日様が閉じ込められているみたいな、温かい匂いがする」
香苗は戸惑いながら、新聞紙に包まれた大根をカウンターに置いた。新聞紙の隙間から漏れる青い光が、少年の頬を微かに照らしている。
「ごめんなさい、今日は綺麗な花が用意できなかったの。これは、私の失敗作。ただ光るだけの、無愛想な大根なんです」
少年は、おそるおそる手を伸ばし、新聞紙越しにその光る塊に触れた。そして、驚いたように目を見開いた。
「ううん、これ、すごく綺麗だよ。僕には色は見えないけれど、この光には重さがある。それに、土の奥深くで一生懸命に自分を磨いてきたみたいな、力強い温かさがあるよ。ねえ、これを僕に売ってくれないかな。お母さんが夜、暗い階段を降りる時に、これがあれば転ばないと思うんだ」
香苗は言葉を失った。
自分が求めていた「青いバラ」は、誰かに見せびらかすための、冷たくて鋭い美しさだったのかもしれない。しかし、この失敗作の大根は、暗闇の中で誰かの足元を照らすために生まれてきたのだ。土の汚れも、不格好な形も、内側から溢れ出す光の前では何の意味も持たなかった。
「……お代はいいわ。その代わり、感想を聞かせて。それが次の研究のデータになるから」
香苗は少年の小さな手に、眩しく光る大根を預けた。少年が店を出ていくと、夜の街角に青白い光の道筋が伸びていった。
一人になった店内で、香苗は自分の手を見つめた。爪の間には、まだ土が少し残っている。
「バラにはなれなくても、光ることはできる。……次は、カブで試してみましょうか。それとも、ジャガイモをシャンデリアのように光らせるべきか」
彼女は手帳を取り出し、新しい数式を書き込み始めた。その横顔には、かつてのコンプレックスはもう影を落としていない。
「まあ、サラダにすれば、夜食を食べながら本が読めるかもしれませんしね」
理不尽なまでの情熱と、少しの狂気、そして溢れるほどの光を抱えて。香苗は再び、愛すべき泥だらけの地下室へと足を踏み入れた。




