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第一話 当て馬とはなんぞや



 私、ヴィガノ子爵家の長女リズウェルが十歳の時、初めて婚約者ができた。

 

 相手は侯爵家の二男──ヘンドリック・カラビ。

 三歳年上の彼との縁談は、相手方から望まれてのものだった。


 穏やかな日差しが降り注ぎ、気持ちよく晴れた日の午後。

 そわそわと落ち着かない心地で侯爵家を訪ねた私を出迎えてくれたのは、婚約者となったヘンドリックだった。彼の風貌は絵本に出てくる王子様そのもので思わず見惚れてしまった一方、自身の茶色い髪に茶色い瞳は彼の前に立つにはすごく地味に思えた。

 一層増した緊張感から喉はカラカラに渇き、お気に入りのドレスのスカート部を無意識に握りしめる。


 しかしそんな私を前にしても、ヘンドリックは嫌な顔一つせず、にこやかな笑顔を向けてくれた。


「初めまして、リズウェル。僕はヘンドリック。よろしくね」

「初めまして、ヘンドリック様。リズウェル・ヴィガノです。本日はお招きいただき、ありがとうございます。ヘンドリック様の婚約者として立派な淑女となれるよう努めてまいりますので、これからどうぞよろしくお願いします」

 

 お手本のようなヘンドリックの所作を見習い、一生懸命に練習してきた挨拶文とカーテシーを披露する。私の言葉にさらに笑みを深めたヘンドリックが、よろしくね、と返してきたことに安堵したのも束の間、彼は私の片手を取ると手の甲に軽くキスをした。


「……っ!」

「顔も耳も赤くなっていて可愛いね」


 煌めく金髪と碧眼の瞳をした王子様(ヘンドリック)に理想そのもののようなキスをされ、十歳の私は舞い上がった。この時、これからの日々はヘンドリックの婚約者として、恥ずかしくない行動を取るのだと心に誓った。



 それから毎月一度はカラビ侯爵家を訪れ、婚約者同士のお茶会を楽しんだ。ヘンドリックはいつも優しくて、ふとした時に手を握ったり肩を抱き寄せられたりするとドキドキが止まらなかった。元々、一目惚れに近い憧れを抱いた分、それが恋心へと変わるのにそう時間はかからなかった。


 ……しかし婚約して一年が過ぎ、彼の幼馴染だという伯爵令嬢のジャクリーヌを紹介されてから、少しずつ居心地の悪さを感じるようになった。


 その原因は、婚約者のお茶会であるはずの場になぜかジャクリーヌが同席するようになったからだ。彼女は当日に何かと理由をつけてやって来ては、応接間に一人でいるのも暇だから、とヘンドリックのそばにいるのである。

 初めは幼馴染だから特別に仲が良く、こんなものなのかも、と思っていた。

 けれど彼らが十五歳となり、貴族学園に通い始めてからはお茶会の回数自体が減り、開かれたとしても必ずジャクリーヌがヘンドリックの隣に座った。そして繰り広げられる会話も学園内の話ばかりで、完全に置いてけぼりとなっていた。


 現状に危機感を覚えた私は、とにかく話題についていくため必死になって勉強した。両親にはどうしてこんなに? と心配されたが、せっかく婚約を繋いでくれた二人を悲しませたくなくて、自分のためだと言って笑った。



 それからさらに二年……ひたすらに自己研鑽を重ね、ヘンドリックたちの会話にも十分ついていけるようになったある日のこと。

 久しぶりに二人きりでのお茶会となったこの日。もしかしてこれからはまた二人きりで……? とわずかな希望を胸に抱きながらヘンドリックの前に座れば、彼はあっさりとした態度で私を地獄に突き落とした。


「リズウェル、これまで当て馬として活躍してくれてありがとう。ようやくジャクリーヌとの再婚約が整いそうだ」

「……え?」

「種明かしをするとね、君との婚約はジャクリーヌとの再婚約が決まったら解消するつもりだったんだよ」


 絶句する私を前に、ヘンドリックは晴れやかな笑みを浮かべ、満足気に私の頬を撫でた。


「僕とジャクリーヌは、元々婚約を結んでいたんだ。それが些細なことで喧嘩をしてしまってね。僕から何度謝っても『あなたなんてもう知らない! 大嫌い!』と言って話し合いにもならないから、思いきって一度婚約を解消したんだよ。もちろん、彼女が僕しかいないと気づいたら再婚約するつもりでね」

「それがどうして……私と婚約を?」

「せっかく婚約解消までしたのだから、彼女を焦らせるために当て馬を用意しようと思いついたんだ。それで適任者を探してもらったら、君を見つけた。君の家は資金繰りに困っていたみたいだから、うちから援助することを条件に君との婚約話を持ちかけたんだよ」


 その事実を知って、やけに納得する自分がいた。

 ずっと……おかしなことだとは思っていた。幼馴染が毎回同席し、彼女の機嫌によってお茶会が終わるなど、変だと思わないはずがない。しかし誰にも言わず受け入れていたのは、この歪を指摘してしまったら、あまりにも自分が惨めになると思ったからだ。

 私は私を守るために、黙っていた。

 けれど真相が分かってしまえば、結局胸に残るのは虚無感だけだった。


「四年間ありがとう、リズウェル。僕に恋する君は、当て馬として最高だった」


 触れられている頬から全身に鳥肌が立った。私は彼の手を叩き落とし、何も言わずに侯爵家を出た。



 家に返り、自室のベッドの中に包まると、ぎりぎりと音が鳴るほどに歯を噛み締めて布団を握り込んでいた。

 我が家がお金に困っているのは、持病のある母の薬代のためだから仕方のないことだ。

 しかしそんな中でも、両親がヘンドリックの思惑を知って私を差し出したとは思えない。両親の善人さと私への深い愛情は、私自身が誰よりも理解している。


 だから意地でも泣かなかった。

 泣くほどの価値など、あの男にも、あの男に向けた恋心にもない。そうやって自分に言い聞かせ、私は自身を奮い立たせていた。



 それからさらに一ヶ月後が、ヘンドリックの家を訪れる最後の日となった。いつものお茶会と同じ時間にカラビ家を訪れた私を出迎えたのは、これまでにないほど幸せそうなヘンドリックとジャクリーヌ。

 彼らはこの後、正式に婚約を結び直すらしい。

 私は二人に案内され、侯爵夫妻へと挨拶をした。夫妻からは詫びの品と定型文のような挨拶だけがあったが、私も最低限のマナーだけを守って話を終わらせた。


 そうしてさっさと退散すべく、カラビ家を出てヘンドリックとジャクリーヌに見送られる形で馬車に乗り込もうとした時……


「リズウェル、ちょっと待ってくれないか」


 呼び止めたのは、ヘンドリックだった。

 まだ何かあるのかと振り向くと、彼は私の前までやって来て握手を求めてきた。その手に従って彼の手を握ると、やけに強い力で握り返され、思わず顔を上げた。


「……痛いのですが」

「そんなに恐い顔をしないで。リズウェル、君はまだ僕が好きだろう? 僕も君を手放すのは惜しいんだ。ジャクリーヌにはバレないよう、これからも関係を続けよう」


 その笑顔と握った手の温度は、この場所で彼と初めて言葉を交わした瞬間を思い出させた。


 あの時と同じように暖かな日差しが振り注ぎ、春風が髪を揺らす。四年前のこの季節、私は確かに希望に満ちた世界にいた。

 初めての婚約者。初めての恋心。初めて尽くしの一日から始まった四年間は、私にたくさんのものをもたらした。


「手紙を書くよ。ジャクリーヌには知られないように手筈を整えてから、また会おう」


 片方の口角だけを上げたヘンドリックは、その言葉を最後に私からそっと離れていく。そうしてジャクリーヌの隣に再び戻ると、彼は私に触れていた手で何の迷いもなく本当に好きな相手の肩を抱いた。

 彼に引き寄せられたジャクリーヌは、勝ち誇った笑みを浮かべる。


 私は黙って恭しく淑女らしい礼をしてから、馬車へと乗り込んだ。

 あとは扉を閉めるだけ、といったタイミングで振り返くと、やはり二人は幸せそうに笑っている。


「……私、お二人はとってもお似合いだと思います」


 私の言葉に、照れくさそうにお互いを見やる二人。今彼らは、ここにいるすべてが自分たちを祝福しているような心地になっていることだろう。



 ……だから言ってやった。

 地獄に落ちろと心の中で毒づきながら。



「かたや立場の弱い者を利用しなければ想いを伝えられない臆病者と、かたや婚約者がいながら堂々とお茶を飲みに来る図々しい人なんて、これ以上ないほどお似合いですわ!」

「……は?」

「ヘンドリック様、私はあなたのことなんてもう微塵も好きではありません。ですので、ジャクリーヌ様にバレないよう、私との繋がりを残そうと画策する必要などございませんから。どうぞジャクリーヌ様一筋の男になってくださいませ。私は、私の力で幸せになりますから。それでは、ごきげんよう!」


 二人が呆けているうちに馬車は出発し、その後にジャクリーヌの金切り声が聞こえた気がしたが、気のせいだと目を瞑った。


 帰宅してすぐに、両親が私を強く抱きしめてくれた。この四年間の全容を知った彼らからはたくさん謝られたけれど、私は両親を恨んでなどいないし、絶対に見返してみせると約束した。


 この経験によって、私は一つの教訓を得た。

 身分の異なる貴族子息の甘い言葉には裏がある。だから彼らと接する時は、特に用心深くなること。


 私は決して、卑屈にはならなかった。だって私は悪くない。できることは全力でやった。

 人間万事塞翁が馬。きっとこれから、私は幸せになれる。幸せになる。


 それらの教訓と希望を胸に、これからも強く生きていくことを誓った。



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