朝雨、昼晴れ、夜曇り
朝、雨が降っていた。
窓の向こうで、灰色の空を背景に、細い雨が糸のように垂れている。ぽたぽたと、屋根の端から落ちる水音が、寝起きの体にゆっくりと染み込んでくるようだった。
ユイは、毛布のなかでうずくまりながら、その音を聞いていた。
(今日も、行かなきゃならないんだろうか)
時計は七時を少し回っている。目覚ましはとうに鳴っていたが、止めただけで、起きる気にはなれなかった。
学校では、なにかと面倒ごとが多い。
クラスの女子同士の空気の読み合い、話しかけられてもいないのに求められる愛想笑い、帰り道での一人になったときの気まずさ――。どれも「大したことじゃない」と言われればそれまでだが、ユイにとっては、その小さな疲れの積み重ねが、毎日じわじわと体を削っていくのを感じていた。
ただ、休んでも何も変わらない。それどころか、「なんで?」と聞かれるのが目に見えている。
だから、行くしかない。
わかってはいるけれど、布団のぬくもりが、今日だけは優しく思えた。
だが――。
「ユイ、朝ごはんできたよ」
階下から、母の声が届いた。普段どおりの、何の変哲もない、でも少しだけ優しい声だった。
ユイはゆっくりと、布団の中から手を伸ばした。
カーテンを引く。
灰色の光のなか、雨はまだ降り続けていた。
◇
家を出る頃には、雨はほとんど止んでいた。
濡れたアスファルトの上を、傘を閉じたまま歩く。空はまだ雲に覆われていたが、厚みはだいぶ薄れ、遠くの方にはうっすらと青空が覗いていた。
(降っていたのが、嘘みたい)
そんなふうに思いながら、ユイは駅へ向かっていた。
通学電車のなかで、向かいに座った子が、スマホで動画を見ていた。音は聞こえないが、猫が跳ね回っている映像に、思わず目を奪われる。
猫はいい。自由で、好きなときに寝て、気まぐれで甘えて、気まぐれで離れていく。誰に遠慮も、気遣いも、しない。
(猫に生まれてたら、もっと楽だったかな)
ふと、そんなことを思う。
でも、すぐに首を振って、それを追い払った。
そんなことを考えても、何も変わらない。変わらないなら、少しでもましな方を選んだほうがいい。
今日の朝食は、トーストとスクランブルエッグだった。ちょっと塩が強かったけれど、バターの香りは心地よかった。
(……それだけでも、まあ、いいか)
そう思いながら、ユイは電車を降りた。
◇
昼。
空はすっかり晴れていた。
校舎の中庭では、日なたぼっこをしている猫がいる。誰かが持ってきたパンをもらったのか、白い口元をなめて、尻尾をふわりと振った。
「いい天気だねー」
隣にいた美咲が言う。
「うん、さっきまで雨だったのにね」
「急に変わったよね。なんか、こういう日って、外で遊びたくならない?」
「遊ぶって、どこで?」
「屋上とか、芝生のとことかさ。昼休みだけでも走ったら気持ちよさそう」
美咲は明るい子だった。誰とでも話せて、笑って、先生にも気に入られている。ユイにとっては、まぶしすぎる存在だった。
「……たしかに」
口をついて出たのは、少し遅れた同意の言葉。だが、美咲はそれを受け取って、にっこりと笑った。
「じゃあ、今度一緒に遊ぼっか。私、ユイとなら楽しそうな気がする」
そう言われて、ユイは思わず言葉を失った。
(わたしと……?)
美咲は軽い調子で言っているのだろう。深い意味などない。でも、その何気ない一言が、ユイの心に小さな波紋を広げていた。
こんなふうに笑ってくれる人がいるのなら、少しずつでも、歩いていけるかもしれない。
(……それだけでも、十分だよね)
ユイは、ふと、空を見上げた。
まぶしいほどの青空が、どこまでも広がっていた。
◇
夕方、放課後。
空には、灰色の雲が戻ってきていた。
それでも、昼の光が残っているうちにと、ユイは少しだけ遠回りをして帰ることにした。
商店街の脇にある、小さな公園。
ベンチに腰をかけて、自販機で買ったホットココアを開ける。
少しずつ飲みながら、街を行き交う人々を眺めていた。
スーツ姿のサラリーマン。
買い物袋を下げたおばあさん。
友達と笑いながら歩く小学生。
それぞれが、それぞれの一日を過ごして、そして帰っていく。
今日という日は、もう二度と戻ってこない。それでも、人は毎日を積み重ねて、生きていく。
ユイは、ココアの缶を両手で包み込んだ。
(明日も、行こう。少しずつでいいから)
そう思えた。
そして、立ち上がったとき――。
空から、ぽつりと、ひとしずく。
額に落ちたそれは、昼間の光の記憶を静かに濡らしていた。
◇
夜。
空は曇っていた。
けれど、雨はもう降っていない。遠くの雲の切れ間には、月の輪郭がぼんやりと浮かんでいる。
ユイは、自室のベッドで横になりながら、窓の外を見ていた。
一日を思い返す。
雨で始まり、晴れて、また曇って――。
何が変わったわけでもないけれど、ほんの少しだけ、自分のなかで何かが揺れた気がした。
それが何かは、まだよくわからない。
でも、こうして今日を終えられることが、ちょっとだけ嬉しかった。
明日は、明日の空がある。
どんな天気でも、それを受け入れながら、生きていけたら。
(……おやすみ)
そっと目を閉じると、かすかに、猫の鳴き声が風に混じって聞こえた気がした。