水底の葵
夏の夕暮れには、懐かしい匂いと、少しの怖さが混ざっている。
子どもの頃に見た影の正体は、大人になると薄れていくけれど、あの時の感覚だけは、なぜか消えない。
この物語は、ひと夏の思い出と、誰にも言えない小さな秘密。
そして、そこに確かに存在していた“何か”を描いたお話です。
涼しさのなかに、少しだけ、あなたの背中をひやりと撫でていけますように。
蝉の声が、頭の奥に突き刺さるように響いていた。
小学六年生の夏。希美は、毎年恒例となった祖母の田舎での暮らしを、今年も楽しみにしていた。
祖母の家の裏手に流れる川、その河原でだけ会える男の子――葵くんと、今年も会えると信じていたから。
葵は、少し古風な顔立ちの少年だった。少し色の白い肌と、すぐに赤くなる耳。笑うと、目が三日月みたいに細くなる。
「のんちゃん、また来たんだ」
そう言って、毎年出迎えてくれた。
けれど、その年は違っていた。
どれだけ河原を探しても、葵の姿はない。
毎日朝早く起きて行ってみたが、葵がいたはずの堤防にも、あの大きな岩のそばにも、誰もいなかった。
祖母に尋ねてみても、「あおい? そんな子、いたっけ」と首をかしげる。
変だと思いながらも、希美は諦めきれずに、毎日河原へ通った。
たまに水面に、誰かの影が映った気がして、思わず走り寄ったこともあった。
だが振り返ると、誰もいない。ただ、ざわりと風が吹くだけ。
日が落ちる頃、空が赤く染まった夕方だった。
やっと――葵に会えた。
「のんちゃん……なんで来たの」
堤防の上にぽつんと立っていた葵は、いつもの優しい笑顔ではなかった。
肌の色が異様に白く、目の奥が暗く沈んでいる。
「……会いに来たに決まってる。ずっと探してたんだよ」
「ここに来ちゃだめだ。もう、だめなんだ」
その言葉に、希美は思わず語気を荒げた。
「どうして? そんなこと言うなんてひどいよ!」
「もう来ないって言ったら、満足?」
そう叫んで、希美は走り去った。夕焼けが滲んで、足元がよく見えなかった。
*
お盆の夜。
灯籠流しが行われると聞いて、希美は祖母に内緒でこっそり河原へ向かった。
来年からは塾が始まり、もうここには来られない。だからこそ、最後にもう一度だけ、葵に会いたかった。
けれど、河原は人の気配がなく、不自然に静かだった。
灯籠も流れていない。代わりに、古びた地蔵の祠がぽつんと佇んでいた。
希美は祠の前で、手を合わせた。
「……葵くんに、会いたいです」
その瞬間、背後から風が吹いた。木々がざわめき、水面が不自然に波立ち、足元の水がぬるりと動いた。
「のんちゃん……なんで来たの」
聞き覚えのある声。
振り返ると、そこには――濡れそぼった服を着た、葵が立っていた。
顔色は青白く、目は涙で濡れていた。
「好きだった。のんちゃんのこと、ずっと……。でも、ここは来ちゃダメなんだ。
今年は……お地蔵さんが、もう……」
「……?」
次の瞬間、轟音が響いた。
山の上から濁流が襲いかかってきた。
祖母の家の人たちが昔から「鉄砲水に気をつけろ」と言っていたのを思い出す。
逃げる間もなく、水が希美の体をさらっていく。
「――ひっ……!」
ぐい、と足首に何かが絡んだ。
水の中には、子どもたちの白い手が、何本も何本も伸びていた。
「いっしょに、おいでよ」
「にんげん、にんげん、またきた……」
「うらやましいな、たのしそうで……」
声が、耳の中に直接響く。
水中で息ができず、もがく希美を、誰かの腕が後ろから包んだ。
「のんちゃん……こっち、見ないで」
葵の声だ。
必死で引き戻そうとしてくれている。でも、希美は、見てしまった。
葵の背中――水の中に、ぽっかりと大きな穴が空いていた。
その向こうに、夕焼けの空が見えた。
体が震える。冷たい。意識が遠のく。
*
――目が覚めたのは、病院のベッドの上だった。
祖母がそばに座っていた。
「あんた、よく生きてたねぇ……」
「……葵くんが、助けてくれたの」
「……あおい?」
祖母は目を伏せて、ゆっくり語った。
「……昔ね、ここらの子が、何人か一緒に河原で遊んでて、水の事故で流されたことがあったんよ。
一番年上の子が……葵くん、いう子だったらしい」
――何十年も前の話だという。
「そのあと、なんでか、毎年同じくらいの時期に、葵くんを見たって子が何人かいてね……。でも、みんな何かの拍子で怪我したり、流されたり……」
祖母は、希美の頭をなでながら続けた。
「……あんたが無事だったのは、たぶん、あの子がほんまに守ってくれたんやろうね。
それと……あんた、いつも『ののさんあん』て言うて手ぇ合わせとったやろ?
あれが、地蔵さんに通じとったんかもしれんね」
病院の窓の外、どこからか、遠くで蝉が鳴いていた。
*
退院して、祖母の家に戻ったとき。
玄関に、泥のついた小さな草履が、揃えて置かれていた。
そして、その横には、あの河原の地蔵と同じ形をした、小さな木像が……
微笑んでいた。
「来るな」と言いながら、
本当は「ずっとそばにいてほしい」と願っていたのかもしれません。
水は、記憶を運びます。
河原の石に刻まれた足跡も、地蔵の足元に咲いた花も、
いずれは流され、誰にも気づかれずに消えていきます。
けれど、祈る心と、誰かを想う気持ちだけは、
どんな深い水底でも、きっと届くと信じています。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
葵くんが、あなたの夢に出てきませんように。