【第五話】白馬から、まっすぐじゃ帰れない
白馬の林間サイトで迎えた朝は、鳥の鳴き声で目が覚めた。
テントのフライシートを開けると、朝霧の向こうに白馬三山がうっすらと見える。空気はひんやりしていたが、深呼吸したくなるような清浄さがあった。
Z900のタンクバッグに手をかけて荷物を整えながら、俺は今日のルートをぼんやりと考えていた。
長野市から嬬恋、そこから渋川……。最短ルートで帰ろうと思えばそれもありだった。
だが――それでは、旅が終わってしまう気がした。
温泉でも入ってのんびりしてから帰ろうか。
そう考えて、ハンドルを南西へと切った。
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国道148号を少し北へ走り、大町温泉郷へ。
まだ午前9時過ぎ。湯に浸かるには早すぎるかと思ったが、「朝風呂営業中」の立て札を見つけ、素直に吸い込まれた。
湯船にはすでに、地元の爺さまがひとり。
どこから来たのかと聞かれ、群馬からと答えると、「遠くからごくろうさん」とひとこと。
「バイクかね?」「ええ、Z900ってやつで」
「ほほぉ、うちの孫も、こないだ何とかって外国のバイク買ってきたわ。ぴかぴかしてるやつでな」
「ドゥカティとか、BMWとか……?」
「なんかビーエムなんとか言ってたな。バイクっちゅうのはよ、ぴかぴかもいいけど、汚れてても走れるのが一番よ」
さも名言のように言うと、爺さまは湯から立ち上がり、脱衣所に消えていった。
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温泉から出ると、快晴の空にツーリング日和の風が吹いていた。
そのまま松本方面へ下っていく。渓流沿いの木漏れ日が心地よい。
途中、道の駅「池田」に寄ると、駐輪場の片隅でライダーがしゃがみこんでいた。
「大丈夫ですか?」と声をかけると、彼はヘルメットを脱いで苦笑した。
「チェーンが外れました。慣れてないバイクなんですよ」
見ると、ホンダのGB350。ナンバーは練馬。慣れない山道にでも入ったのだろう、チェーンが外れてスプロケットに噛んでいた。
グローブを脱ぎ、俺は手を貸す。
ドライバーとラチェットを取り出して、チェーンを戻し、テンションを調整してやると、彼は深々と頭を下げた。
「助かりました……! 何かお礼を」
「いいよ。俺も誰かに助けられてばっかりだから。そういうもんだよ、バイク旅ってのは」
彼は少し戸惑ったような顔で笑ったあと、バッグから缶コーヒーを取り出して俺に差し出した。
「せめてこれくらい、受け取ってください」
缶を受け取って、軽く缶同士をコツンとぶつけた。
旅の中で生まれる、短くも温かい縁。名前も聞かず、互いのバイクだけが記憶に残る。
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松本からは国道254号へ入り、下仁田を通って帰路へ。
道沿いにある小さな蕎麦屋の看板が目に入り、ふらっと立ち寄る。
ざる蕎麦と舞茸天。
冷たいつゆに潜らせてすする蕎麦の香りと、舞茸の香ばしさに、今日も当たりだったと頷く。
「旅の締めくくりに蕎麦って、なんかいいですよね」
と、隣の席の中年男性が話しかけてきた。
「同感です」とだけ返して笑う。
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帰宅したのは、夕方近く。
いつもより少しだけ日焼けした腕と、靴下の跡がついた足首が、旅の余韻を残していた。
「おかえりー」と妻の声。
娘が駆け寄ってきて、俺の腰にぎゅっと抱きついた。
――ああ、これがあるからまた行きたくなるんだ。
ビールを一本冷やして、荷解きは後回しに。
次の旅をぼんやりと考えながら、今日もまた缶をプシュッと開けた。
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