【第四話】白馬を越えて、稲核の峠にて
高ボッチの高原から下りきったのは午後3時すぎ。
空の色がにじむように変わり始め、長野盆地の空気が少しずつ湿り気を帯びていた。
Z900のエンジン音を響かせながら北へ向かう。
目指すは白馬。すぐに帰るには早い。だから少しだけ遠回りして、自然の奥へとバイクを滑り込ませることにした。
塩の道を辿るようにして大町を越え、徐々に山が険しさを増してくる。
空が暗くなり始めた頃、ポツポツとフロントスクリーンに水滴が叩きつけられた。
「……来たな」
天気予報は見ていた。夕方から局地的な雨。でも、ここまで山深いと“局地的”のスケールが違う。
あっという間に雨脚は強くなり、ワインディングは川のようになっていた。仕方なく、途中の小さなトンネル――「稲核隧道」へとバイクを避難させる。
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トンネルの中には、先客がいた。
一台のスーパーカブ。
その隣に、古びたライディングジャケットを着た白髪の男が、壁に背中を預けて煙草をくゆらせていた。
「おう、兄ちゃん、派手なバイクだな」
「どうも。雨宿り、させてもらいます」
「好きにしな」
男の顔は、山に削られた岩肌のようだった。
ごつごつしているが、どこか静かで優しげな雰囲気を纏っている。年は六十を超えているだろうか。スモール焚きのカブはおそらく郵政払い下げ。荷台にくくりつけたタッパーの中に山菜と果物が見えた。
「釣りでも?」
「いや、山菜取りさ。明日、仲間と山の上で呑む約束しててな」
「雨、大丈夫ですかね」
「こんくらいは平気だよ。どうせ山ん中はいつだって濡れてる」
一瞬、何も言えなくなる。
「兄ちゃん、旅の途中か?」
「ええ、陣馬形山から回って、今日は白馬の方に抜けようかと」
「贅沢なルートだな。時間を金より大事にするやつしか、通らねぇ道だ」
その言葉が妙に響いた。
たしかに、遠回りばかりのこの旅に、効率なんて無縁だった。
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雨は20分ほどで上がった。雲の切れ間から西日が差し込み、道が蒸気を上げ始めた。バイクに跨ろうとすると、男が小さな袋を差し出す。
「山ウドだ。さっき採ったばかり。持っていけ」
「いいんですか?」
「一人分くらい、余っても困るしな。アヒージョにでも入れろよ」
「昨日のキャンプ、アヒージョで飲んでました……バレてました?」
「そんなの知るわけねぇだろ。だが、Z900乗って山なんて走るやつ、酒が好きに決まってるだろ。そんでアヒージョは良いツマミになる」
笑って別れる。
カブが、俺より一足先に峠を下っていった。
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その夜は、白馬にキャンプ場へ。
テントを張る頃には完全に日が暮れていて、ヘッドライトの灯りで設営を終えた。
夕食は、昨日の残りのオリーブオイルにニンニクと鷹の爪、そして、あの山ウド。
細くスライスして、マッシュルームと一緒に煮込む。
「……これは、うまい」
山の香りが鼻を抜ける。缶ビールを開けたとき、さっきの老ライダーの笑顔が思い出された。
旅先の一期一会って、ほんとにあるんだなと。
キャンプ椅子にもたれて、誰もいない森の音を聞く。もう会うことはないだろうけど、あの人の言葉は残るだろう。
「時間を金より大事にするやつしか、通らねぇ道だ」
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