【第三話】焚き火の灯りと、距離の取り方
オレンジ村オートキャンプ場の夜は、思いのほか静かだった。風は止み、森を抜けてきた涼しい空気が、火の粉とともにゆらりと流れる。
焚き火を囲む二人の間に、過剰でもなく、無言でもない――そんな妙な居心地の良さがあった。
「……これ、おにぃ……兄にもらったやつなんです」
佐倉葵が差し出したのは、小さな琺瑯のマグに入った赤ワイン。少しだけスモーキーな香りがした。
「燻製ワイン?ってやつらしいです。キャンプ用にいいよーって。一本持ってけって」
「いいの? これ結構高いんじゃない?」
「兄にもらったんで、わかりません」
少しだけグラスに注いでもらい、一口。なるほど、確かに煙のような香りが鼻から抜ける。
「うん、うまい。でも……」
「“でも”?」
「これ、未成年が飲んでたらアウトだよな。君、ほんとに23?」
「免許証、見ます?」
彼女が笑いながらポケットを探る仕草をして、結局それを出すことはなかった。
「……まぁ、信じるよ」と、また一口。
それからしばらく、旅先の話を交わした。北海道を目指して何度も挫折したこと。キャンプ場で狸にパンを盗られたこと。葵が「兄とだけならもっと気楽だったのに」とこぼした瞬間、主人公はふと正面の火を見つめた。
(――これが“他人とのキャンプ”ってやつか)
ソロキャンプは、自由の象徴だった。好きに出発して、好きに帰る。誰ともしゃべらず、焚き火の音に浸って、日が昇ればさっさと撤収。
だが今は違う。隣のサイトから聞こえてくる彼女の寝袋を広げる音、アルコールランプの青い火、コッヘルが風にカタカタ揺れる音。
それらが、妙にうるさく、でも寂しくなかった。
***
日付が変わる頃、ふたりともそれぞれのテントに入り、静けさが戻った――かに思えた。
午前1時すぎ。ふいに近づく、足音。ふたつ、みっつ、砂利を踏む柔らかい音。
「……なぁ、さっきの子、若かったよな?」
「声かけりゃよかったんだよ、もっとグイっとさ」
キャンプ場で葵に話しかけた中年ライダーふたりだろう。飲みすぎたのか、焚き火を囲みながらくだを巻いていた連中だった。どうやら酔いが回って、こちらのサイトに近づいてきたようだった。
テントの中で様子をうかがっていた葵の声が、かすかに震えていた。
「やば……来た……かも……」
(この時間に絡まれたら面倒だ)
テントから静かに這い出て、懐中電灯をわざと大きく点けた。
「どうしました?」
低い声で、落ち着いたトーンを心がけながら話しかける。明るく照らされたその顔に、ふたりは一瞬たじろぐ。
「お、おう。なんだ、さっき隣で話してた子の……彼氏?」
「いいえ、ただのキャンパーです。でも……今、もう深夜1時です。マナーは守ってもらえませんか?」
わざと「彼氏ではない」と明言し、かつ牽制にもなるような立ち位置を取る。ふたりは苦笑いをしながら退いていった。
「わ、わりぃわりぃ。ちょっと酔っててさ、悪気はないんだけどな」
(悪気がないのが一番タチが悪い)
そう心の中で呟く。
テントの中から、葵の震えた声が小さく聞こえた。
「……ありがとう、ございます」
「気にしないで。けど、何かあったらすぐ声出しな。夜はほんとに油断できないから」
「はい……」
***
翌朝。
葵のSR400に、タンクバッグが括りつけられている。どうやら出発するようだ。
「兄が休み取れたらしいんで、合流しにいきます。今日はここまでです」
そう言って笑った彼女に、「よかったじゃん」とだけ返す。
「それじゃ、またどこかで」
「気をつけて」
エンジン音が小さくなり、やがて聞こえなくなったあと、自分のテントをのんびりと畳み始めた。
次の目的地は、まだ決まっていなかった。ただ、ふと、あのオヤジライダーたちが今朝がた「富津岬で朝焼け見るのもアリだな」などと話していたのを思い出す。
「……あー、それは避けよう」
そう呟いて、北へ向かうか、南を回って外房へ出るか、地図アプリを開いた。
風は今日も優しく、エンジンはまだまだ走れると語っていた。
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