ソロキャンプ・戸隠往還記 〜地獄と天国の狭間で〜
朝四時半。
眠い目をこすりながら、伊勢崎のアパートの駐輪場でバイク(カワサキ・Z900)に荷物をくくりつける。
「早朝出発がキャンプの基本だって誰かが言ってたな」
独り言の声は小さく、吐く息はまだ白い。
エンジン始動──しない。
おいおい…いやいや…やめろよ、今日に限ってそれはないだろ、とセルを回す。
三度目でようやく目覚める相棒。その重たい咆哮に、早朝の住宅街がぴくりと震えた気がした。
走り出せば風が冷たい。関越道に乗って、上信越道を目指す。
だが、甘くなかった。藤岡JCTあたりで予想外の渋滞。事故らしい。
「バイクでよかった…」とすり抜けるも、神経を使いすぎて早くも疲労。
コンビニでエナドリとチョコパンを胃に放り込み、再スタート。
峠道に入るころ、雲行きが怪しくなってきた。
ぽつ、ぽつ、ざあっ──
「マジかよ!?」
合羽は持っているが着ていなかった。バイクを止める場所もない。
仕方なく雨に打たれながら数キロを走る羽目に。
やっとのことで小さな道の駅に避難。そこで偶然出会ったおばあさんに、タオルを貸してもらう。
「若い人は元気でええねえ、でも戸隠? この時期は神隠しがあるって聞くよ」
神隠し?
一笑に付して出発。だが、心に小さな棘が刺さる。
午前十一時過ぎ、びしょ濡れのまま戸隠の蕎麦屋に滑り込む。
「ひとりです」
店主が苦笑しながら案内してくれる。冷えた身体に蕎麦が沁みる。
つゆの塩気が妙に優しい。ついでに天ざるも追加する。食べ過ぎだが、今日くらいはいいだろう。
戸隠神社は、深い緑に包まれていた。参拝中、ふと背後に気配を感じたが、振り返っても誰もいない。
神の気まぐれだと思い、頭を下げて拝む。
そして──ようやく戸隠キャンプ場へ。
受付を済ませ、空いているサイトを探して歩いていたそのとき、
「ブウゥゥン」
低く唸る羽音。巨大なスズメバチが目の前に浮かんでいた。
「うわあっ!?」
バックパックを振り回して撃退。息が上がる。誰も見ていなくてよかった。
テント設営。酒。
ああ、これだ。これがやりたくて、俺は朝から地獄を走ってきたんだ。
缶ビール、ワイン、ウイスキー。気づけば、机の上は飲み屋状態。
ひとり焼肉開始。
肉の焼ける音、夜の虫の声、焚き火の揺らめき──完璧な夜。
しかし、夜も深まったころ、足元に違和感。
「ぬる…?」
懐中電灯を照らすと、何かの毛むくじゃらの死骸。
狸…か? 腐臭はないが、目だけが妙に潤んでいた。
酔っていたせいか、「すまん」と呟いてビニールをかけ、焚き火のそばへ避けた。
その後の記憶は曖昧だ。
星がきれいだった気がする。誰かと話していたような気もする。
けれど──気がつけば、テントの中だった。
朝。頭が割れる。
昨日の狸のことが気になるが、テントの外にそれはもうなかった。
コーヒーを淹れ、昨日のパンをかじる。
ふと、サイトの地面に、見覚えのない小さな紙片が落ちていた。
《気をつけなさい 次は帰れないかもしれない》
体が凍る。
笑い飛ばしたいが、笑えなかった。
テントを急いで撤収し、荷物をまとめる。
キャンプ場を出るとき、管理人の男性がぽつりと言った。
「去年も似たようなことがあってね…戻ってこれてよかったよ」
そのまま長野市街に降りて、土産を買った。蕎麦と、味噌と──お守りをひとつ。
帰り道、バイクのミラー越しに、どこかで見た気がする影がちらついた。
エンジン音を上げて振り払う。
伊勢崎の町並みが見えたとき、ようやく息をついた。
帰宅。バイクを停め、玄関に足を踏み入れ、鍵を閉める。
冷蔵庫のビールを開けるその瞬間、スマホに一通のメッセージ。
《また、来てね》
番号は登録されていなかった。
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