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エピローグ

黒い瘴気が大地を覆い尽くしていた。

折れた剣や斬り落とされた鎧の一部が、荒涼とした瓦礫の中に乱雑に散らばり、どこからか低い嗚咽のような音が響いては、すぐに闇に呑まれていく。

城の尖塔はもはや原形を失い、そこを吹き抜ける風はねじれた音を生みながら吹き荒んでいた。


かろうじて意識を保っていたライオネルが崩れた石壁に背を預け、荒い息を吐き出す。

血まみれのマントは裂け、鋼鉄の鎧の隙間からは黒ずんだ血がじわりと滲み続けている。

「……まだ、くたばるわけには」

震える声でそれだけ呟いたが、周囲に味方の姿はほとんどない。

息絶えた兵の亡骸ばかりが目に入り、彼はかすかに目を伏せる。


崩れた床の向こう、仰向けに倒れたセレスティアは白衣が泥と血で汚れ、か細い息を繰り返していた。

指先はわずかに動いているようだが、触れた結界の残骸は砕け散っており、もはやまともな浄化の術を組み立てる力は残されていない。

かつて清廉な意志を宿していた瞳も闇に曇り、紫色の瘴気が彼女の唇に触れるたびに絶望が深く沈み込むようだった。


不吉な響きが森の奥からこだまする最中、あの宰相グレイヴァスの姿もちらりと見えた。

豪奢な衣服は大半を失い、傷だらけの顔に絶望を滲ませながらも、闇に呑まれまいと必死に逃げ回っている。

その背後へ黒い霧がうねりを立てて押し寄せると、彼は護衛を捨て置くように走り去ろうとした。

だが、瘴気が足を絡め取ると、彼の細い悲鳴が小さく響き、光を失った瞳が揺らいだまま床へ崩れ落ちる。

そして、その身体は痙攣を繰り返すようにのけぞった後、緩やかに立ち上がる。

意識の残滓など感じられない、半ば朽ちた屍のような姿で。


砕かれた床の亀裂のそばに、イシュランが膝をついている。

ローブの裾は破れ、黒髪の三つ編みは乱れ、血と泥にまみれていた。

杖を握った手は震え続け、何度も回復の術を試みるが、闇の瘴気がそれを阻んでいる。

「師匠……」

それだけを繰り返すように呟く彼女の声も、やがて空気に溶けるようにかすれていく。

傷口から滴る血が紫色の霧に混ざり、彼女の肌は次第に死人のような色へ変わり始めた。

足元から黒い網目が走り、骨と肉がきしむ音がかすかに聞こえる。

かつて優しかった表情は悲しみを宿したまま、静かに崩れ――闇の支配に屈するかのようにイシュランは細いうめき声を上げる。

しばらくもがいた後、彼女はゆっくりと起き上がった。

だが、その瞳は先ほどまでの慈愛ではなく、濁ったアンデッドの光を宿している。


ライオネルは血の混じった咳を繰り返しながら、アンデッドへと堕ちゆく光景を遠巻きに見ていた。

自らもまた、この腐った空気を吸い込むたびに意識が薄れ、身体の感覚が死へ染まっていくのを感じる。

「ここで……終わるのか……」

震える腕に力がこもらず、剣を取り落とした。

鎧の継ぎ目から紫黒い瘴気が染み込むように広がり、金髪碧眼の瞳がゆっくりと色を失っていく。

やがて、かすかな咆哮とも呻き声ともいえぬ音が彼の喉を振るわせ、すっと立ち上がる姿はかつての誇りを感じさせない無機質なものだった。

王国騎士団長は今や、生きながらえた死者のひとりとして、闇の命令に従う屍となる。


白衣のセレスティアが宙をつかむように弱々しく手を伸ばした。

だが、その手は自らの意志で動いているというよりは痙攣のようにぴくぴくと曲がり、白目を剥いた瞳は焦点を失っている。

聖職者としての信仰は砕け、代わりに侵食する黒い紋様が肌を蝕んでいく。

最後の一呼吸とともに喉から血混じりの声が漏れ、セレスティアは地を這うように身体を起こした。

死の瘴気を取り込み、不浄な存在へと堕ちた高位聖職者は、もはや救いを説くこともなく人々を襲う亡者となって徘徊を始める。


アールヴェルトは杖を握りしめながら、この大陸そのものを覆う死の領域を見下ろしている。

無数の兵や市民の屍が立ち上がり、グレイヴァスをはじめとする権力者すら黒い網目に囚われ、国を守ろうとした騎士も聖職者も弟子さえも皆、死者の行列に加わっていた。

「皆、死で結ばれれば、もう失うものはない……」

その言葉には、どこか解放されたような憐憫と、取り返しのつかない悲しみが混在している。


ライオネルは血に濡れた剣を握りしめたまま、よろめきながらもアールヴェルトの背へ近づく。

しかし、その足取りには既に生の意志がなく、半分崩れかけた甲冑の隙間から覗く皮膚は青黒く変色している。

イシュランもまた、か細い足取りでその場に現れるが、複雑な面影を残したまま、アンデッドの瞳で師を見上げる。

かつての敬愛の情があるのか、ないのか、彼女の口は動かない。


セレスティアも腐りかけた白衣を引きずり、グレイヴァスは奇声を発しながら体を引きずるようにして城の跡へ集結する。

すでに人間だった面影は薄れ、複数の魂が死の共鳴を喉の奥から吐き出しているかのようだ。


静寂を打ち破るのは、アンデッドたちの無数の呻き声と、この荒野を満たす黒き霧だけ。

かつて王国を象徴した人々――ライオネル、セレスティア、イシュラン、グレイヴァス――その全員が生きながらに死に染められ、今や永遠の中を彷徨う屍と化した。


荒廃した王国の地平には、絶望の叫びが薄れながら轟き続けている。

黒い霧が巻き上がり、かつて栄華を極めた街や村、そして人々の営みを覆い尽くしていく。

誰一人としてこれを止める術を持たず、あらゆる希望が噛み砕かれていくかのようだった。


すべてが闇に呑まれた風景の中央に、アールヴェルトの姿がある。

紫色の宝珠は脈打ちを止めず、死と永遠をもたらす力をこの大陸に行き渡らせる。

かつては慈悲深く、人望を集めた偉大な大魔導士。

いまは彼が創り出した死の世界に、誰もが屍として付き従っている。


大陸のどこを見渡しても、闇の帳に覆われ、腐った空気が漂うばかり。

ライオネル、イシュラン、セレスティア、グレイヴァス――それぞれが黒い瘴気に染められたアンデッドとして大地を徘徊し、永遠に近い時を過ごすしかない。

かつて王国と呼ばれた土地は、今や死者の行進が続く荒野となり、風だけがそこを通り過ぎていく。


そして、沈黙。

暗黒が覆いつくした世界の中、わずかな時間だけが流れる。

やがて人間の言葉を発する者は完全に途絶え、黒い霧の中には亡者たちの低いうめき声だけが果てしなく行進を続ける音を響かせる。


朽ち果てた王国の中心で、アンデッドリッチのアールヴェルトは杖を握りしめながらただ立ち尽くしている。

紫色の宝珠が脈を打ち続けるたびに、彼の足下にはかつての弟子も騎士団長も聖職者も宰相も、皆が屍となった姿でひれ伏すかのように揺れ動いていた。

その干からびた口元がわずかに歪んでいるのか、あるいは微動だにしないのか――もはや誰も確かめる術はない。

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