世界の破局
凄まじい雷鳴が夜空を揺るがした。
紫色の瘴気に満ちた空気が地平線まで覆い尽くし、討伐軍の兵たちはその圧迫感に息を呑む。
先ほどまで勇敢に隊列を維持していたはずの者たちが、アンデッドの猛攻を受けて次々と崩れ落ち、地面を転がりながら血の沼へ沈んでいった。
白銀の髪を後ろにまとめたセレスティアは、祈りを捧げるように杖を握り締めるが、その清らかな光は暗黒の結界に阻まれてじわじわと砕けつつある。
「浄化の光が、あれほどまでに……」
彼女は声を落とし、周囲に散る重傷の兵に向かって回復の術式を施す。
しかし結界の干渉は強大で、まるで岩を貫こうとするような手応えのなさがセレスティアの意思をへし折ろうとする。
「ここを乗り切らなければ、みんなが……」
イシュランは半ば泣き叫ぶように呪文を組み立て、崩れ落ちた兵士を必死に支援する。
彼女の細身の身体は震え、黒髪の三つ編みが血と泥で汚れていた。
けれど、師を止めるという自分の決意だけがかろうじて心を支えているようにも見える。
戦場の中央付近では、王国騎士団長ライオネルの傷だらけのマントが風に煽られていた。
金髪碧眼の瞳に宿る炎はいまだ消えていないが、剣を持つ腕は血を流し、甲冑の継ぎ目からは痛ましいほどの裂傷がうかがえる。
「アールヴェルト、出てこい……!」
呪詛にも似た声を上げ、亡者の群れをかき分けようとするが、その歩みは何度も闇の魔術に押し返される。
腐り落ちた屍兵が咆哮を上げ、ライオネルの足元にまとわりつくように群がってくる。
幾度目かの衝撃が戦場をゆさぶり、地面が大きく裂けた。
土煙の奥から見え隠れするのは、既に原型を失った城の砦壁だ。
かつて堂々としていた王国の防衛線が見る影もなく崩れ、そこからアンデッドや邪悪な魔物たちが際限なく溢れ出す。
宰相グレイヴァスは後方で護衛を従えながら地図を握り、顔を顰めている。
「どうやら予想以上の事態、か。
だが、まだ私が動く時ではない」
彼の視線の先では、兵たちが血まみれで必死に生存を図る姿が見えた。
それを誰が救うのかは、まるで他人事のように口元を歪める。
やがて、城の尖塔から凄まじい魔力の奔流が噴き上がり、空一面がくすんだ紫色に染まった。
恐ろしいほど鋭い音が耳を裂き、討伐軍の兵たちは悲鳴と恐怖に打ちひしがれる。
その視線の先に浮かび上がったのは、骨と干からびた肉体が衣装の合間から見え隠れする、不気味な影。
杖の先端に抱く紫の宝珠が脈動し、まるで心臓の鼓動のように世界を揺るがせていた。
「アールヴェルト……」
イシュランがその姿を見つけ、苦しげに低い声をもらす。
今ではアンデッドリッチと化した彼が、瘴気の渦を纏って城砦の上に立っている。
周囲に蠢くアンデッドの群れは、その意志に呼応するかのように一斉に吠え声を上げた。
ライオネルは剣を握り直し、玉砕覚悟の足取りで前へ進む。
「ここで終わらせるわけにはいかん。
皆が報われん……!」
金髪の束から流れ落ちる血は、彼が限界を超えていることを物語っていたが、騎士団長としての義務感はわずかな力を奮い起こさせる。
セレスティアは呼吸を整え、白衣の裾をたくし上げて大規模な結界の詠唱を開始する。
幾重にも重なる聖なる文字が宙を舞い、光の輪が彼女の周囲に幾層も広がる。
「これで……一気に浄化を……!」
だが、アールヴェルトの杖が一瞬だけ光を放つと、その聖なる陣は激しい軋みを立てて砕け散る。
結界の破片が空を舞い散り、セレスティアが短い悲鳴を上げて膝をつく。
「なんという力……教会の聖術すらここまで封じるのか」
彼女は震える声で呟き、唇を噛み締める。
突如として、アールヴェルトがゆっくりと杖を掲げた。
そこから放たれたのは見たことのない深い闇の奔流で、討伐軍の頭上を覆うように広がっていく。
空気そのものが黒く染まり、地表を揺さぶる振動が襲いかかる。
まるで世界が崩落してしまうかのような不穏な鼓動が大地に響き渡った。
イシュランは必死に目を見開き、師の姿を探る。
「師匠、聞いてください。
もう……こんなこと、やめて」
彼女が震える声で呼びかけても、アールヴェルトは振り向かない。
その姿はすでに“生前の大魔導士”とは全くの別人だ。
同時に、アールヴェルトの口から低い呟きが聞こえてきた。
「すべては、失われた愛する者を取り戻すため……」
イシュランはその言葉に思わず息を呑む。
アンデッドリッチとなった師の内面に残っていた執念が、今、世界を巻き込む破局の原動力となっているのだと痛感する。
アールヴェルトは紫宝珠を握り締め、深い闇のうねりをさらに増幅させる。
「私には…どうしても叶えたい願いがあった。
あの人を、あの子を、二度と失わないために――どれほど魔術を極めても、死という壁は越えられない。
ならば、生の側から届かないならば、自ら死の側へ踏み込むしかないだろう……」
途切れ途切れの声に混じるのは、かつて癒しと救いを与えた慈悲深い魔導士の苦悩だ。
しかし、アールヴェルトは視線を伏せたまま杖を胸に抱き、唇を歪ませるように微動させる。
「愛する者を蘇らせ、永遠に隣にいてもらう。
そのためには、私自身が死を支配しなければならないと知った。
生のままではいつかまた誰かが、この手からこぼれ落ちていくから……」
闇の力を宿したその独白は、かつてのアールヴェルトが払った代償の大きさを物語っていた。
王国の民を幾度も助けた名誉ある魔導士が、不死の領域へ自らを変質させるなど、普通ならばあり得ない選択。
だが、失ったものを取り戻すために深淵を覗き続けた結果、歪んだ答えへと行き着いてしまったのだ。
「死こそが永遠……この世界を死の領域へ変えれば、命は二度と失われることはない。
この手段以外に、どこに救いがある……?」
苛立ちと悲痛が入り混じった声が夜風にこだまする。
元々は慈悲深く人望を集めていた大魔導士が、死者の領域という極端な解法に狂信してしまった――イシュランはそれを理解してしまい、胸が締めつけられる。
ライオネルは血の滲む唇を噛みながら必死に叫ぶ。
「それが本当に救いなのか……!
お前が奪った命はどうなる。
お前を慕っていた人々が、どんな思いで……」
しかしアールヴェルトは聞く耳を持たない。
すでに狂気の淵でしか呼吸をしていないような瞳が、闇の儀式に没頭し、周囲を切り捨てていく。
セレスティアはふらつく体を支えつつ、浄化の光を再度試みようとする。
だが、アールヴェルトの放った“禁断の大魔術”が戦場全体を包み込み、その浄化の意志を根こそぎ砕きにかかる。
腐乱した亡者たちが結界の破片を踏み砕きながら前進し、討伐軍はさらなる苦境に陥る。
その混沌の只中、イシュランは師を説得しようと最後の力を振り絞った。
震える足で前へ進み、歯を喰いしばってアールヴェルトのいる高台へ呼びかける。
「師匠……私たちはあなたの理想を信じていた。
それは、人々が笑顔で生きられる未来を作ることだったはず。
なのに、どうして――」
彼女の言葉が闇の暴風にかき消されそうになりながらも、わずかに届いたかのように見える。
アールヴェルトは瞳を動かさないまま、かすかに口を開く。
「人々を救うために、あれほど努力した結果が、全てを失う痛みだった。
永遠に失わないためには、すべてが死のまま止まればいい。
この世界を、私の知る“永遠”へ導く。
それが、唯一の解だ」
その言葉を聞いた瞬間、イシュランの表情から血の気が失せる。
説得の余地はないのか、と痛感しながらも、どこかに師の良心が残っているかもしれないと希う気持ちが彼女を突き動かす。
だが、城の周囲を見回したとき、血塗れの兵とアンデッドの混沌が広がっている現実が否応なく目に映った。
世界が崩れ落ちていく感覚と、師を失う恐怖が同時に押し寄せる。
「イシュラン、下がれ!
あれは……もう、手遅れかもしれん」
ライオネルが声を振り絞り、イシュランをかばうように立ち塞がる。
その刹那、アールヴェルトの闇の奔流が再び炸裂し、討伐軍の兵たちが絶叫とともに吹き飛ばされた。
セレスティアも結界を破られ、膝をついた状態で苦しそうに呼吸を繰り返している。
戦場に轟く雷鳴のごとき魔力の衝撃が止まない。
腐敗した死体の瘴気がさらに勢いを増し、兵士たちはまともに呼吸もできないまま意識を手放していく。
ライオネルは咳き込みながらも、剣を地面に突き立てて必死に立ち上がろうとする。
「まだ終わってない……諦めるわけには……」
しかし、アールヴェルトの杖が再び空を指し示し、禁断の術式が完成へと向かっていく。
世界が闇の領域へ変わるその予兆は、もはや誰の目にも明らかだ。
紫色の宝珠が脈打つたびに、大地を覆う闇のベールが何重にも重なり、人々の叫びと嘆きが飲み込まれていく。
「師匠……」
イシュランは膝をついて杖を抱きしめながら、後悔と悲しみの狭間に取り残される。
どんな呪文を組み合わせても、この破局を止めるのは難しいと痛感しながらも、それでも彼女は杖に魔力を込めて唱え続ける。
せめて、わずかな命を救うことだけでも――その一心が、血に濡れたローブの裾を引きずらせながら術式を組み上げさせる。
アールヴェルトの目には深い闇の色が宿り、世界を死の領域へ変貌させる儀式は最終段階へと近づいている。
狂気と悲願が同居した彼の姿を、ライオネルやセレスティア、そしてイシュランが見つめる。
誰もがこの結末を変えたいと願いつつも、すべてを飲み込もうとする闇に飲まれかけていた。
そして、闇が一段と濃く脈打つ。
地平の果てまでも震わせる破滅の鼓動が、王国全土に響きわたる――。