最終決戦の火蓋
王国の広場には、かつてない数の兵士と魔導士が集結していた。
どこを見渡しても甲冑のきらめきと、戦意を奮い立たせるような怒号が入り混じっている。
教会もまた動員令を出し、聖職者たちが回復・防御魔法の準備に奔走していた。
美しい白銀の髪を後ろに束ねたセレスティアは、結界の儀式を指揮しながら周囲を厳しい眼差しで見回している。
教会に集う者たちは一斉に祈りの声を上げるが、その端々に感じられるのは焦燥と不安の混ざった重苦しい空気だった。
王国騎士団長ライオネルは、傷だらけのマントを翻しながら兵たちの列の合間を行き来している。
金髪碧眼の瞳に、いつもの勇壮さはさほど浮かんでいない。
「皆、怯むな。
あの闇を放置すれば、もっと多くの命が失われる」
彼の言葉に応じるように、兵士たちが刀剣の柄を握り締めた。
だが、どこか神経質な動きが目立ち、隊列にも硬直が見える。
離れた場所では、宰相グレイヴァスが貴族や商人を囲んで談笑している。
豪奢な衣服や宝飾品を目立つように誇示しながら、言葉の端々に“国家存亡の危機”を織り込んでいた。
「この未曽有の脅威に対抗し得るのは、我々の結束しかありませんぞ。
兵糧や資金の協力を惜しまぬ方には、戦後の褒美も十分に検討させていただきます」
軽やかな口調と品のある表情の裏で、計算高い思惑を巡らせているのが見え隠れする。
彼はこの危機を最大限に利用して、自らの権力をさらに押し上げようとしていた。
その一方、イシュランは遠巻きにその光景を見つめている。
黒髪を三つ編みに束ねた細身の姿は小刻みに震えていた。
やがて彼女は意を決したように顔を上げ、ローブの裾を握りしめる。
周囲の喧騒が遠く感じられ、師のアンデッド化を目の当たりにしたときの惨状が脳裏を離れない。
「あのままでは……本当に全てが滅びてしまう」
か細い声には、深い悲痛がこもっていた。
黄昏の空が赤く染まる頃、王国を挙げて結成された討伐軍は出発の時を迎える。
前方には、教会から派遣された聖職者や結界術師たちが並び、後方にライオネル率いる騎士団の重装兵が続く。
さらに遠巻きには、グレイヴァスの差し金で臨時に徴集された傭兵や、名誉を求める若い貴族たちが騎馬をそろえていた。
巨大な軍勢が街道を埋め尽くし、足音と馬蹄の響きは大地を震わせている。
イシュランはその列の中ほどで、ぎこちなく杖を携えながら歩を進めていた。
日が沈むと同時に、彼方にそびえるアールヴェルトの城が闇の中に不気味な影を落とし始める。
既に周囲の大地には見慣れない紫の瘴気が漂っており、枯れた木々が腐ったように傾いている。
ライオネルが拳を突き上げ、隊を止める。
「結界がこちらまで張り巡らされている。
あれがアールヴェルトの仕業か……」
彼の声には怒りとわずかな動揺が感じられる。
セレスティアが馬から降り、白衣の裾を翻して地面に膝をつく。
魔術陣を展開し、聖なる光を放とうと試みたが、遠方から押し寄せる闇の力がそれを阻むように揺らめいた。
「強力な結界です。
これほど広範囲に闇を行き渡らせるとは……」
彼女は額にうっすら汗をにじませ、周囲を伺う。
すでに森の奥からアンデッドの唸り声が響き、無数の亡者がうごめきながらこちらに迫ってきた。
グレイヴァスは自らの護衛を従え、軍勢の後方で口元だけをにやりと緩める。
「ふむ、見た目以上にあの“怪物”の力は規格外のようだ。
ならば、ここで一気に蹴散らしてもらわねば困るな」
その視線には、戦況を操れるという自信が垣間見えるが、実際には城から生まれる闇の結界が予想を超える勢いで広がり始めていた。
誰もが目撃する形で、周囲の景色が徐々に闇の帳に覆われていく。
「このままでは分断されるぞ。
前衛を厚くして城門まで突き進め」
ライオネルが声を張り上げ、騎士団へと合図を送る。
先頭に立った重装兵が槍を構え、聖職者たちは聖水の瓶を手に唱和を開始した。
イシュランは一瞬だけ目を閉じ、意を決して師を止めるための呪文を頭の中で組み立てる。
時々、ローブの下で震える手を必死に握り締めながら、前方を見据えた。
いざ進軍が始まると、森の闇から腐り果てた兵士の亡骸がわらわらと這い出してくる。
皮膚が崩れ落ち、白骨がむき出しになった死者たちが、異様な声を上げて突撃してくる。
騎馬隊は一時的に突破口を開くものの、地面からはいくらでもアンデッドが湧き出して途切れる気配がない。
ライオネルが剣を振り下ろし、イシュランが回復と防御の複合魔法で味方を支援する。
セレスティアは浄化の光を広範囲に照射しようと力を込めるが、結界の干渉で術の威力が思うように出せない。
「あの城を直接叩くしかない」
ライオネルの声が背後の兵に轟く。
彼は自身が前に出ることで士気を高めようとし、血まみれのマントを翻して亡者の群れをかき分けて進んでいく。
その背後でイシュランは必死に唱えた呪文を味方へ注ぎ、何とか前線を持ちこたえさせる。
一方、グレイヴァスは軍の後方で複数の将校と地図を広げている。
「いまここで討伐軍が苦戦すれば、私の権力はさらに……いや、そうなる前にこの“危機”を解決するというシナリオも悪くはない。
いずれにせよ、勝敗を見極めてから動けばよい」
彼の言葉に、顔色を曇らせる部下もいるが、何も言い返せないまま黙り込む。
やがて戦場の中心には、アンデッド化した騎士や魔物が絶え間なく出現し、討伐軍の隊列は混沌と化していった。
ライオネルとイシュラン、そしてセレスティアの三人がかろうじて前衛を支え、突破口を探ろうと試みる。
そこへ、もの凄い衝撃波が闇の方向から放たれ、地面が吹き上がるほどの轟音が鳴り響いた。
「あれは……!」
イシュランが息を呑んで視線を向ける。
遠く城の尖塔が紫色の閃光に包まれ、周囲の空気が震えているのがわかる。
アンデッドの軍勢の背後に、かつての大魔導士の面影をわずかに残す恐るべき支配者が立っているはずだ。
ライオネルは鎧の隙間から吹き出る血を押さえながら、剣を握りしめて前を睨む。
「アールヴェルト……今度こそ……」
彼の言葉は、自分を鼓舞するというよりも、呪いのように繰り返す響きを帯びていた。
討伐軍は暗闇のなか、軍勢を建て直そうとしても絶え間なく襲ってくる死者の波に足を取られ、徐々に進軍速度を落とし始める。
それでも退けば、この闇が王国中を覆い尽くす。
イシュランは息を詰め、師を救える可能性を捨てきれないまま、戦線を維持する回復魔法を周囲へと放つ。
しかし、すぐ近くで断末魔が上がり、兵士が一人、また一人と地面に沈んでいく。
やがて、紫の瘴気が城からさらに濃く吹き荒れ、夜空にまで黒い雲が渦を巻いて広がっていった。
世界そのものが闇の魔力に浸食されるかのような錯覚を覚える。
どこからか風に乗って、低く不気味な声が響いた。
あれほど華々しかった討伐軍の出陣も、いまや戦慄と苦悶が支配する地獄絵図へと変わり果てている。
大地が軋み、腐敗した匂いが広がり、兵たちは己の武器を握り締めながら絶望と隣り合わせに立ち向かうしかなかった。
遠く、城の尖塔から怪しげに揺らめく光の中心に、アールヴェルトの姿があるのだろうか。
その姿を想像するだけで、誰もが背筋を凍らせる。
ライオネルは崩れかけた防御陣をどうにか立て直しながら、城へつながる唯一の道を見出そうと奔走する。
イシュランは涙を必死に拭い、少しでも多くの命を守るために杖を握り続ける。
セレスティアは大規模浄化の儀式に賭ける覚悟を固め、白衣をたくし上げて詠唱の準備を急ぐ。
グレイヴァスだけは、深い闇を前にしながらもどこか冷静なまなざしを宿している。
この混乱がいつまで続くのかを推し量りつつ、自分に最適な勝ち筋を探り続けているのが明白だ。
それぞれの思惑が交錯するなか、狂乱に満ちたアンデッドの叫び声が戦場を震わせる。
もはや誰にもこの戦いを止める術はないのかと、兵たちが一瞬自問する。
しかし、立ち止まるわけにはいかない。
ライオネル、イシュラン、セレスティア――誰もが失われていく命と、迫りくる闇を前にして、どうにか意志を繋ぎ止めようとする。
この強襲を突破しなければ、王国の明日は永久に閉ざされる。
空をかき乱す瘴気の渦の下で、最終決戦の火蓋はすでに落とされている。