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決裂への道

夜の風が研究塔の窓から薄く吹きこみ、蠟燭の火を揺らしていた。

卓上には古文書や魔術書が無造作に積み重なり、その間には暗い色合いの試薬瓶が並んでいる。

アールヴェルトは白髪交じりの黒髪を乱れたままにし、静かな筆の音だけを響かせていた。

しかし、彼の眼差しはかつての穏やかさを失っている。

師として振る舞うときに見せた優美さや落ち着きは微塵も感じられず、紫色の宝珠をときおり撫でながら、何かに取り憑かれたような熱を帯びている。


扉の向こうで足音が止まった。

イシュランが恐る恐る部屋を覗き込み、怯えた様子で口を開く。

「師匠。

また、生きたままの魔物を塔に持ち込んだのですか。

この前の実験は……あまりにも」

声はかすかに震え、細身の体がローブの上からでもわかるほどこわばっている。

かつては師の言いつけを忠実に守り、心から尊敬していた彼女が、いまは苦しげに視線を伏せるばかりだ。


アールヴェルトは筆を置き、イシュランへ視線を向ける。

「イシュラン。

お前ならわかるはずだ。

強大な力を手にしなければ、国境に潜む魔獣も疫病も断ち切れん。

そのためには、犠牲が必要だ」

淡々とした声音には、どこか冷徹な響きが混じっていた。

書物の上には黒く染まった血痕のような跡が散見され、どれも生々しく拭いきれない。


「しかし、生きた生物をそのまま……。

これはあまりにも酷い」

イシュランは師のそばに歩み寄り、静かに訴えようとする。

だが、彼女の凛とした瞳は、アールヴェルトの紫宝珠から漂う奇妙な光を目にした瞬間、言葉を失う。

それは見ている者の心を抉るような暗い輝きで、まるで空洞に落ちていく感覚を呼び起こす。

イシュランは鼓動を早め、何か大切なものが崩れていく気配を抱いた。


そんな折、廊下の奥から白銀の髪を後ろに束ねたセレスティアが足早に姿を見せる。

清らかな白衣が塔の暗がりと対照的だが、瞳には強い意志が宿っていた。

彼女は教会を代表する高位聖職者として、闇の気配を見逃すつもりはないらしい。

イシュランの横をすり抜け、アールヴェルトと向き合うように立つ。

「大魔導士アールヴェルト。

あなたの研究が国にとって多大な恩恵をもたらしたのは認めます。

ですが、近頃は許し難い噂が絶えません。

禁忌に触れるような実験を繰り返し、多くの犠牲を伴っていると聞いています」


アールヴェルトは杖を軽く握り直す。

宝珠が紫色に脈打つように輝き、彼の周囲の空気がざわつく。

「噂というのは常に誇張されるものだ。

セレスティアよ、教会は私を何度も頼ってきたではないか。

ならば最後まで見守ってくれたらどうだ。

私の成果が、いずれすべてを救う」

彼の低い声には不気味な響きが混ざっており、セレスティアの眉がわずかにひそめられる。


「救うために、その手を汚しているのなら本末転倒です。

王国に必要なのは正道であり、闇の力などではありません」

セレスティアは強い口調で応じながら、純白の杖を構えた。

清らかな光が塔の床に一瞬だけ広がる。

しかしアールヴェルトは動じず、その手の甲にはいつの間にか異形の痣が浮かんでいる。


「私が正しい道を踏み外しているというのか。

ならば、お前たち教会が今まで成し得なかった問題をどう解決するつもりだ。

私が救わなければ、多くの命が散る。

この力を手放すわけにはいかない」

彼は痣を覆うように袖を引き上げ、すでに尋常でない魔力をまとっていることを隠そうとはしない。

狂気じみた眼差しが、塔の壁に映った影を歪めている。


そこへ足音を響かせながら、プレートアーマーを纏ったライオネルが現れる。

真っ直ぐな金髪碧眼の騎士団長は、逞しい体躯を揺らして魔導士の前に立ちはだかろうとする。

「アールヴェルト。

頼む、もうやめてくれ。

騎士団はこれ以上、民の悲鳴を聞き続けたくない。

お前なら、まだ引き返せる」

その懇願は、王国を守る責務を背負った騎士としての真摯な叫びだった。


アールヴェルトはライオネルを見下すように視線を送り、微かに唇を曲げて笑う。

「正義感だけでは世界を変えられん。

力なき正義は、ただ無力という言葉にしか過ぎない」

瞬きをする間もなく、紫の光が走り、ライオネルの足元に衝撃が走った。

砕けた石床が破片を撒き散らし、騎士団長の逞しい身体が大きく後退させられる。

闘い慣れたライオネルでさえ反応が遅れるほどの魔力の奔流が、空気を切り裂いた。


イシュランは悲鳴を上げ、セレスティアも咄嗟に結界を張る。

聖なる光が塔の内部を淡く染め上げるが、アールヴェルトの魔力を完全には封じ込めない。

「こんなにも……強大に」

セレスティアが苦々しく呟き、白衣の裾を翻す。

闇の魔術が塔の壁際を這うように広がり、二人の聖なる結界を軋ませていた。


アールヴェルトは杖をついたまま身体を反らし、何事かを小声で唱え始める。

その呪文の断片は聞き取れないが、嫌な金属音のような響きが混じり、塔全体の空気が淀む。

明らかに尋常な術式ではない。

イシュランは凍りついたように立ち尽くし、意を決して魔力を込めた回復魔法でライオネルの傷を癒そうとする。

だが、それよりも早くアールヴェルトが指先を翻した。

先ほどまで血生臭い試薬瓶のあった机が揺れ、震えるように霧散する。


紫宝珠の光が一際強く脈動し、部屋中に禍々しい輝きを放つ。

アールヴェルトの周囲に集まる闇の瘴気は、まるで一体の生物のように蠢き、彼の体躯を包み込む。

その瞬間、彼の背筋から骨ばった何かが突き出し、口元には乾いた笑みが浮かんだ。

セレスティアは驚愕の表情を浮かべながら後退する。

「まさか、そこまで堕ちてしまうのですか。

あなたは……人間であることを捨てる気ですか」


イシュランもまた立ち尽くし、涙をこぼしながら首を左右に振る。

視界の端には、アールヴェルトの体から生えた骨のような突起がはっきりと見えていた。

かつて多くの人々を救い、慕われていた師の姿は、もう目を凝らしても見当たらない。

冷たい息を吐く彼の胸の内には、もはや倫理や慈悲の片鱗すらないように思える。


ライオネルが再び立ち上がり、折れかけた剣を握り締める。

「くそ……どれだけの力を得たんだ」

赤い血がまだ彼の腕から滴っているが、それでも勇者としての意地でアールヴェルトに向かおうとする。

セレスティアは前に出るライオネルを止めようとするが、アールヴェルトが杖を叩きつける衝撃で二人の聖なる結界が砕かれ、轟音が塔を揺るがした。


その衝撃のただ中で、アールヴェルトの背に生えた骨ばった突起がさらに形を変え、彼の身体を覆う闇の鱗のようなものへ変質していく。

それは生者の常識を逸脱した姿で、アンデッドの力を象徴するかのようだった。

イシュランは恐怖と絶望の狭間で師を見つめる。

口を開きかけたが、震えで声が出ない。

アールヴェルトはそんな弟子を一瞥しただけで、儀式の最後の工程へ意識を集中した。


「この身を捧げよう。

いにしえの深淵より流れ込む力を、我が血と魂に刻む」

濁った呪文を唱えると同時に、塔の床から黒い霧が噴き出し、周囲の空間が歪む。

ライオネルとセレスティアは防御の魔法を唱えるが、この邪法に対抗するには力が足りず、身動きが取りにくい。

イシュランは最後の希望をかけ、護りと回復を組み合わせた呪文を必死に準備した。

しかし、その光すら闇に飲み込まれる。


アールヴェルトの身体が激しく揺れ、白髪交じりの黒髪がごう然と舞う。

骨が軋む嫌な音が響いたあと、彼の目にかすかに生者の色が戻ったように見えた。

だが、すぐにそれは打ち消され、瞳の奥は闇に沈む。

同時に塔の外壁が轟音とともに崩れ、アンデッド化の儀式は完成した。

何らかの拍動が周囲の空気を震わせ、アールヴェルトは淡く光る紫宝珠を握り締める。

視線を正面に戻すと、人間らしさを剥奪した狂気の雰囲気を漂わせていた。


ライオネルもセレスティアも、打ちひしがれるようにその変貌を見つめる。

イシュランは両手を杖に添えて立ち尽くす。

彼女の瞳には熱いものが込み上げるが、師に近づくこともできない。

わずかに残っていた温もりを捨て去り、完全にアンデッドと化した瞬間を目撃しながら、誰も言葉を発することができなかった。


アールヴェルトは杖を握りしめたまま一歩を踏み出し、その様子はもはや人間という種から逸脱している。

冷たい石床に残る血の跡を踏みしめ、魔力の余波で闇がわずかに揺らめいた。

塔の内部にいた生き物の叫びや呻きが、遠く遠くへ消えていくように響く。

そして、一歩、また一歩と歩を進める彼は、慈悲深い大魔導士ではなく、倫理をかなぐり捨てたアンデッドリッチとしての姿だけを映し出していた。

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