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栄光と禁断

白亜の大広間に光が満ちていた。

王宮の窓から差し込む朝陽が、硬質な光彩を床一面に描き出し、そこには一人の魔導士が人々の喝采を受けて立っていた。

背筋を伸ばし、白髪交じりの黒髪をきっちりと束ねた彼は、褒章を手渡す国王に向かって深々と頭を下げる。

堂々とした姿勢と気品ある面差しは見る者の心を打ち、宮廷の一角で見守っていた人々から惜しみない賛辞が飛び交っていた。


その魔導士こそアールヴェルトだった。

大陸を脅かしていた凶暴な魔獣の群れを封じ、疫病の蔓延を食い止めた功績が評価され、この日、王国最高位の栄誉を賜ったのである。

多くの民は彼を英雄と称え、師の弟子たちも誇らしげに胸を張っていた。

その中には黒髪を三つ編みにしたイシュランの姿もある。

彼女は師の背を視線で追いかけ、喜びを噛みしめていた。


「師匠、本当におめでとうございます」

授賞式を終えたあと、イシュランは興奮を抑えきれない様子で声をかけた。

実務的なローブの胸元が小さく上下に揺れ、いかに彼女が高揚しているかを物語っている。

アールヴェルトは微笑を浮かべ、紫色の宝珠が付いた杖をそっと床に預けて、イシュランの髪を軽く撫でた。

「ありがとう。

お前の支えがあったからこそ、ここまでこれた」

落ち着いた声音からは、慈悲深い人格が滲んでいた。


その頃、王国では数々の脅威が同時に表面化していた。

小さな村を次々と蝕む疫病と、王都の近郊を荒らす魔獣の襲来が被害を広げており、どれも一筋縄ではいかない問題ばかりだった。

人々は必死に救いを求め、教会や騎士団も懸命に対応にあたったが、状況の改善は容易でない。

アールヴェルトは誰よりも熱心に民を救う術を探り、時には夜を徹して研究に没頭した。

調合薬から始まったその探究心はやがて、より強力な魔術体系の解明へと向かっていく。


しかし彼の胸の奥には、誰にも言えないもう一つの動機があった。

それは、かつて愛した者──家族だったのか、友人だったのか、あるいは大切な弟子だったのか──今はもう誰も知る由もない“失われた存在”を、どうにかして取り戻したいという強い思い。

その面影を秘めたまま、アールヴェルトは研究に没頭し続けていた。

彼の書き残すメモにはしばしば「永久の救済」や「死を越える方策」という言葉が現れ、イシュランも薄々、その根底に深い喪失があるのではと感じていた。


そんな中、王国宰相グレイヴァスが静かにアールヴェルトへ近づいてきた。

豪奢な衣服と宝飾品を身につけた彼は、品のある口調で王宮の廊下を歩き回り、政治的駆け引きで巧みに権力を拡大しようとしていた。

ある日、アールヴェルトが研究室にこもって書物の山と格闘していると、グレイヴァスがほほ笑みながら扉を開ける。

「最近、師の働きには感謝しておりますよ。

王国を蝕む疫病や魔獣の件は、あなたの力がなければ手の打ちようもなかった。

ただ、まだ不安が残りますな。

もし我々が“もっと深い力”を手にできたなら、民の苦しみも一気に解決できるはずだが」

柔和な声色の裏には、一筋の策略が透けている。


アールヴェルトは書物から目を上げる。

小柄な宰相の身振りはどこか過剰なほど丁寧だが、そこに鋭い下心を感じ取るのは難くない。

「それは、どういう意味でしょうか」

問い返す声は穏やかだったが、アールヴェルトの瞳には警戒の光が宿っている。

グレイヴァスは室内を見渡し、散乱する古い魔術書の表紙をちらと眺めた。

「ご存じではありませんか。

王都の地下保管庫には、封印された『禁術』の研究資料があると聞きます。

過去に一度だけ陽の目を見たものの、そのあまりの危険性に教会が禁止した代物なのです。

もっとも、それだけ強大な力ということでもありますからな。

アールヴェルト師の頭脳ならば、その正体を解き明かせるのではないかと。

結果がどうなるかは、お任せしましょう」


その言葉を発したとき、宰相の唇は微妙な笑みを浮かべていた。

人々を救うためなら、どんな手段も辞さない――というアールヴェルトの性格を、グレイヴァスはよく知っているようだった。

アールヴェルトは文献を読みふける手を止め、グレイヴァスの言葉に耳を傾けながら考え込む。

疫病に苦しむ民の姿や、魔獣の脅威に怯える子どもたちの姿が頭をよぎり、眉間の皺が徐々に深くなる。

「……確かに、それが王国のためになるのなら。

ただし、教会との協議を欠かすわけにはいきません。

闇の研究はリスクもある」

そう静かに答えるアールヴェルトに、グレイヴァスはわずかに肩をすくめた。


しかし、闇の力への興味は疑いようもなく、アールヴェルトの心に芽生えていた。

夜更けにロウソクの灯りだけを頼りに書物を読み、封印された文献の断片を探し出すたび、彼の探究心はますます激しく燃え上がる。

禁忌を破るか否かという境界線は、医術の発展や魔法のさらなる高みを求める意欲によって、ほんのわずかずつではあるが曖昧になっていった。

“どうすれば死を克服できるのか”“生と死を越える術はあるのか”――そんな言葉をノートに書き付けることさえ増えたのもこの頃だった。

とある夜、イシュランが研究室を訪ねてきたとき、アールヴェルトは目の下に影を落とし、机一面の魔術書に没頭していた。

「師匠……少しはお休みになってください。

最近は徹夜が続いています」

彼女の声には心配の色がにじんでいたが、アールヴェルトは軽く首を振って文字を読み進める。

「ありがとう。

だが、まだ確かな手掛かりを得られそうなんだ。

この術式が完成すれば、病も魔獣も一度に封じられる可能性が見えてくる。

民を救うには、急がねばならない」

イシュランは師の真剣な表情を見て、言葉を飲み込む。

体調を案じる気持ちと、尊敬する気持ちが複雑に混ざり合って、胸が苦しくなる。


さらに数日が経ったころ、王国内の疫病は一時的に収束に向かったものの、より強大な魔獣が国境付近に出没する情報が入った。

前線で応戦する騎士団からの報告は惨憺たるもので、いつ大規模な被害が王都へ押し寄せてもおかしくない状況だった。

王や教会はアールヴェルトに頼らざるを得ず、彼の研究に資金や人材を投入するようになる。

その様子を見ていたグレイヴァスは、まるで思惑通りというように微笑みながら、さらなる発破をかける。

「師ならできるはずですよ。

王国が救われれば、誰もあなたを責めることなどないのです」


その言葉は、アールヴェルトの胸の奥を微かな不安と、同時に高揚感で満たしていった。

もし、闇の魔術を制御できれば、誰もが苦しまなくて済むのではないか――そうした高潔な思いが、ゆっくりと歪みはじめる。

恐るべき力を求める彼の姿勢を危ぶむ声はあったが、ひとたび成果が出れば人々は熱狂し、崇めるように称賛する。

アールヴェルトが闇の禁術の扉に手をかけようとするたび、周囲の期待が背中を押し続ける。

イシュランは師の名誉を認めつつ、どこか不安に胸をかき乱されていた。


王都の図書館の地下区画には、無数の巻物や呪具が封じられた保管庫がある。

そこには、闇の力を悪用して世界を破滅させかねない古代の呪術も眠っていると伝えられていた。

アールヴェルトは古い鍵を借り受け、立ち入りを禁止された扉の向こうへ足を踏み入れる。

ほの暗い灯火に浮かび上がる石造りの通路を進むうち、彼は手にした杖を強く握り締める。

胸中には人々を救う熱意があると信じながらも、心の片隅で理性の歯止めが外れかけているのを薄々感じていた。

さらには、その“失われた存在”を取り戻す糸口がここにあるかもしれない――そう考えると、彼の足は止まらなかった。


そして、誰も立ち入らない闇の書架の奥で、くぐもった空気に包まれた禁術の書を見つけたとき、アールヴェルトは瞳を大きく見開いた。

「これが……」

呟きながら、本の表紙を軽く撫でる。

深い紫の文様が呪術的な光を帯び、その瞬間、彼の手首に鈍い痛みが走る。

まるで何かが読み手を選んでいるかのように、歪んだ魔力がひそやかに胸を突き上げてきた。


外の世界では、まだ誰も知らない。

アールヴェルトがいま、どんな闇の淵へ足をかけようとしているのか。

かつて救いの象徴だった偉大な大魔導士が、“結果を出すためには手段を選ばない”という危うい一線を越えかけていることを、イシュランも教会も気づいてはいなかった。

書物から立ち上る瘴気に似た匂いが、微かに鼻を掠めるたび、アールヴェルトは背筋に疼くものを感じ取る。

その疼きが、王国を覆う災厄を一掃するための鍵だと信じたい気持ちと結びつく。

そして同時に、失った者を再び手にできるかもしれない――その幻影が彼を大きく突き動かしていた。


そうして、引き返す道はどこにもなくなりつつあった。

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