第30話 戦い
「〝探せ析け解け究めろ。森羅に理があれと信ずれば――魔究〟、ですわ」
東の果てが僅かに明るくなり始めた。
下には分厚い雨雲。上は透き通った黒い空。薄い空気に吹き荒れる冷たい風。
蝶のバレッタでまとめられた黒髪や、魔法武具のメイド服のロングスカートが激しくなびく。
「すぅ、はぁ」
飛行魔術で雲の上にいるナギは深呼吸した。瞼のカーテンを開き、その黒の瞳で自分の手を見下ろす。
震えていた。怖くてたまらなかった。
これから戦う存在は、生物の頂点に君臨する圧倒的強者だ。力も魔力も闘気も弱いナギにとって、それは死地に向かう様なものだった。
けれど、だからこそ、ナギは息を吸った。
恐怖を抑えるためでもない。震えをなくすためじゃない。
怖くても震えていても、それを認めて一歩前に進みだすために、コチお姉さまのように強くあるために息を吸った。
思い出す。
自分の人生が変わったあの日を、自分を殺すかのようにイジメ続けた日々を、グフウ達と出会い弟子になった日を。
そして九年間の修行の日々を。
ナギの口許に笑みが零れる。
本当に楽しい日々だった。
修行は厳しかったけれど、それ以上にグフウとセイランはナギに沢山の感情をくれた。ちょっとしたことを喜んだり、笑ったり、怒ったり、悲しんだり。
幸せだった。光の道を歩めた気がした。
その思い出は淡く優しく安心するものだった。
自分への恨みや焔禍竜への憎しみの猛火とは違う、決して消えることのない灯火だった。
勇気が湧いた。
震えは少しだけ収まっていた。
「すぅ」
焔禍竜を倒すという自分の望みと誓いを思い出して、ナギはもう一度息を吸った。
戦うために、あの時できなかった一歩を踏み出すのだ。
グフウたちから貰った黒の短剣とコチお姉さまが遺した白の短剣を抜き去った。
「コチお姉さま、みんな。いってくるですわ」
そして彼は誰時、輪廻の星々の向こうにいるコチと家族へと祈り、薬品が入った瓶をいくつもばら撒きながら六つの魔術陣を浮かべた。
「〝空を満たし恵みは我が手に集いて災禍の雫となれ――天雫〟、ですわ!」
瓶が弾けて薬品が雨雲へと溶け込み、そして雨雲の全てが徐々にナギの目の前へと集束していく。
いつしかそれは大きな塊となって圧縮され、やがて巨大な水の球体となった。
巨大なそれは、けれどどこまでも広がる天からすれば雫の様なもの。だが、これが地面に落ちればここ一帯は全て押し流せるだろう。
そして太陽が地平線から顔を出し始め、世界が白く満たされていく。
「すぅ」
「ガァ」
ナギと焔禍竜を遮っていた雨雲は既にない。
ナギはヒダマリ花の大地に居座る焔禍竜を見下ろした。高さ百メートルをも越える彼の存在は顔をあげて隻眼でナギを見やる。
「わたしはグフウ様とセイラン様の弟子! メイドのナギですわ!」
ナギは震えながらも勝気な声をあげた。彼女のように。彼女以上に。
「さぁ、焔禍竜エルドエルガー! わたしの勇者としての始まり、竜殺しの序章に貴方の名を刻んであげるですわ! むせび泣くといいですわ」
「グルアッ……ガアアアアアアアアアア!!」
ナギは白の短剣を掲げ、振り下ろした。巨大な水の球体が落下する。
何かを思い出すように一瞬目を細めた焔禍竜は、自らへと落ちてくる巨大な水の球体に喉を鳴らして大きく咆えた。
禍々しい顎の前に煌々と燃える巨大な魔法の焔が作られる。その熱波でぬかるんだ地面が焼けて、白い煙が立ち昇る。空気は悲鳴をあげるがごとく揺らめく。
灼熱という言葉すら生ぬるい。塵すら残らず全てを燃やし尽くす焔はゆっくりと放たれ、巨大な水の球体とぶつかった。
「グラァアアアッッッ!?!?!?!?」
「グッ」
大きな衝撃が生まれ、爆風が辺り一帯に吹き荒れた。
その爆風は高く上空にいるナギを更に高く吹き飛ばすのはもちろん、屋敷を踏みつぶすほどの巨躯をもつ焔禍竜をも吹き飛ばし、背中から地面に叩きつけた。
上空を厚く覆っていた雨雲が凝縮されたのが巨大な水の球体だ。
それが焔禍竜の灼熱の焔によって一気に気化したのだ。あり得ないほどの爆風が生まれるのも当然である。
だが、焔禍竜もそれは理解していた。その上で、自分の巨体でふんばればその爆風に耐えられると思っていた。
ナギは焔禍竜のその油断を突いた。以前、セイランから教えてもらった大きな衝撃を生む薬を事前に混ぜていたのだ。
それにより焔禍竜が想定する数十倍もの爆風が生まれ、焔禍竜は吹き飛ばされたのだ。
「グルゥ、グルアッ……」
竜の鱗は堅い。焔禍竜とてそれは例外ではなく、大抵の攻撃はその鱗によって阻まれてしまう。
しかも、濃密な魔力がこもった魔法の炎を纏っているせいで大抵の魔法も弾かれてしまう。
無敵に思われる焔禍竜だが、流石に自分の巨体を吹き飛ばすほどの爆風と、そしてそんな自分の巨体の重さには耐えられなかったらしい。
起き上がった焔禍竜の翼はひしゃげており、背中の鱗が剥がれて肉が見えていた。その禍々しい顔は痛みに歪んでいた。大きな痛手を負ったのだ。
「はぁはぁはぁ……」
けれど、ナギも大きく消耗していた。地面に着地した彼女の顔は青ざめていた。魔力の大半を使い果たしたのだ。
空一面を覆っていた雨雲を集めて放ったのだ。
一種の災害みたいなもので、それを引き起こすのに相当の魔力を消費するのは当然であり、またそれを実行するための魔術の情報処理で脳にダメージを負っていた。
「ガァッ」
焔禍竜がその巨体に比べて豆粒ほど小さなナギを睨んだ。
常人ならそのまま心停止してしまうほど濃密な憤怒と殺意が込められた眼光に、ナギは恐怖に震える。あの時の記憶が自分を支配しようとしてくる。
それでもナギは笑った。コチお姉さまのように勝気にふてぶてしく。決してあきらめることのない光を黒の眼に宿す。
夜が明けた。
「さぁ、かかってこいやですわ!」
「グルアアアアアア!!」
魔力を回復する貴重な魔法薬を飲み捨てながらナギは叫び、焔禍竜は咆える。
豪ッとプラズマを奔らせるほどの焔が焔禍竜から噴き上がる。
翼がひしゃげても、しかしそれだけなのだ。飛べなくとも焔禍竜は災禍の竜。その力は依然として猛威を振るう。
ブワリッと焔禍竜を中心に魔法の炎が一瞬で走り、周囲のヒダマリ花を塵すら残らず燃やし尽くす。
ナギは油断なく〝魔盾〟で炎を防いだ。
「ガアアアッ!!」
「ッッぁあ!」
間髪いれずに焔禍竜が魔法で作り上げた螺旋状の炎のブレスを横なぎに吐き、ナギは声にならない叫びをあげながら全力で跳んでブレスをかわす。
魔法武具であり魔法による耐火性が高いメイド服でも少しだけ焦げ付く。
けれどそれを気にする暇はない。
「ホントッ、理不尽ですわッ!!」
プラズマと共にまるで大蛇のように地面を這って迫りくる炎や、グフウが全力の際に放つ〝魔弾〟と同等の速度と数で放たれる炎の弾丸。
そして地面が赤熱化して融けだすほどの魔法の螺旋状の炎のブレスが乱発される。
呼吸すらままならないほど絶え間なく襲い来る飽和攻撃。昨日の兵士たちへの攻撃とは全くもって格の違う、苛烈すぎる殺意。
「アアアアッ!!!」
ナギの飛行魔術はグフウほどの速度を出せない。
だから、セイランと鍛えた闘法による身体強化で、狼よりも疾風よりも速く走ってかわす。肉体が悲鳴をあげるが、裂帛の叫びでねじ伏せる。
だが、今は雨上がりなのだ。
焔禍竜の焔が届かぬ地面は泥でぬかるんでいて、足をとられて滑りそうになる。
「〝泥に滑ろ。転べる勢い。前へと進め――泥滑〟」
だから三つの魔術陣を浮かべて、更に滑る魔術を行使する。
それいつぞや見た山企鵝が使っていた、平坦な雪の大地の上で滑って加速する魔法。
ナギはそれを解析して模倣するだけでなく、泥バージョンへと改良をしたのだ。
更に速く縦横無尽にぬかるんだ平原を疾駆して、焔禍竜の攻撃をかわす。そのたびに平原を満たすヒダマリ花は燃え尽き、地面は融解する。
「〝大地よ。ひと時の褥を与え給え――土居〟」
そして焔禍竜が隻眼を瞬きした一瞬の隙に、九年もの間、野宿のたびに使用してきた簡易の土の家を作る魔術を行使する。
ナギの姿が家に隠れる。すぐにブレスが家を焼きはらい、赤熱化してドロリと融けた。
「グルっ!?」
ナギがいないのだ。
ゆうに一キロメートルは先を見通すほどの隻眼にも、影に潜む魔物の呼吸すら聞き逃さぬ耳にも、そしてここら一帯漂う小さな魔力すら知ることのできる魔力探知にすらも、ナギの反応がないのだ。
その事実に焔禍竜はひどく驚愕し、同時に本能がナギに隠密させてはいけないと強く訴える。恐怖した。
けれどまた、その本能が教えてくれた。なんとなしに焔禍竜はやや上空を振り返った。
逆光に隠れるように、ナギが上空から落ちてきた。近くには一匹の蝶が舞う。
「〝魔の光よ。翔りて――〟」
狙いは焔禍竜の背中。翼がひしゃげて剥がれた鱗から見える肉に向かって、ナギは至近距離で〝魔弾〟を放とうとしていた。
「ガアアアッ!!」
「っ。〝風よ。あなたを踏み台にしてでも私は空を跳ぶ――風踏〟、ですわ」
焔禍竜が咆えれば焔が噴き上がり、ナギは〝魔弾〟の詠唱を止めて念のために準備していた〝風踏〟を行使する。
風を蹴って噴き上がった焔をかわしたナギはなびくロングスカートに手を添えた。手には短剣ではなく投げナイフが握られていた。
「〝邪を断つ光は闘刃となれ――光剣〟ですわッ!」
「ガアァアッ!!」
光を纏った投げナイフは鋭く放たれ、焔禍竜の背中へと突き刺さる。
焔禍竜は怒るようにブレスを吐き、ナギはもう一度〝風踏〟を行使してかわした。着地する。
(投げナイフじゃ意味がないですわね)
焔禍竜は怒りはすれど大して痛がる様子は見せていなかった。投げナイフの刀身が焔禍竜の巨躯に比べて短すぎて大きな痛みを感じないのだ。
人間にしてみれば小さなとげが刺さったくらいの感覚なのだろう。大きな傷にもならない。
それを確認したナギは次に白の短剣を見下ろした。そして隻眼の焔禍竜を見やる
「……やっぱりこれが怖いんですわね」
「ガアアアアッッ!!」
ナギが白の短剣を弄べば、焔禍竜は聞いたこともないほどの怒りを咆哮に乗せた。まるで憎き仇を前にしたようだった。
それだけでナギは察する。
「コチお姉さま……」
十年前の焔禍竜は隻眼ではなかった。けれど、今は隻眼だ。
竜の自己治癒能力は高く数ヵ月もすれば欠損すら治るという。なのに、焔禍竜の右目は閉じたまま。見えないのだ。
ナギは疑問に思っていた。
焔禍竜の焔は全てを滅するのだ。だから、家族や騎士、馬車などはもちろんコチお姉さまの遺体やその身に着けていたものはほとんど滅された。
だけど、短剣だけは遺っていた。
最初は気まぐれで燃やさなかったのだと思った。けれど、セイランから災禍の竜は執念深く一切合切を滅ぼす存在だと聞いた。
つまり、短剣だけは燃やせなかったのだ。
焔禍竜が何故燃やせなかったのか、今なら分かる。
「憎いのですわね! 貴方のその目を、癒えぬ傷をつけたこの短剣が! コチお姉さまがッ!!」
「ガアアアアっ!!」
ブレスが放たれる。ナギはかわしながら、ぎゅっと白の短剣を握った。
具体的な想像はできない。
けれど、たぶん、コチお姉さまは最期に白の短剣で焔禍竜の右目に癒えない傷を負わせたのだ。そして今まで癒えぬ傷など負ったことがなかった焔禍竜は驚いて、短剣を燃やすことすらなく逃げたのだ。
だから、自分は助かった。執念深い焔禍竜が見逃したのだ。
ナギは震えた。涙を流した。
焔禍竜はブレスを吐いた。
「グルアアアッ!!」
「チッ。空気も読まないクソッたれですわねッ!」
赤く腫れた目をこすりながら、ナギはブレスをかわした。
先ほどと同じく様々な焔の猛威がナギを襲う。けれど、やはりナギは全てをかわした。
焔禍竜の攻撃が読めてきたのだ。どんな攻撃をしてくるのか、そのタイミング、リズム。その全てが単純で、手に取るようにわかった。
(考えてみれば当然ですわね。あの理不尽な巨体と魔力、そして全てを燃やし尽くす焔の魔法。あれさえあればそのほとんどを圧殺できるですわ)
だから、鍛錬も工夫もしない。圧倒的な強者だからこそ、弱者が振り絞る知恵も技術も必要としないのだ。その発想すらないのだ。
(何もかもが劣っているわたしが付けこめるとしたら、そこですわッ!)
そう意気込むナギであるが、彼女にはグフウのような膨大な魔力もセイランのような圧倒的な力もない。
ナギの能力ではその巨躯には攻撃の一切合切が通らないのは自明であり、逆に焔禍竜の攻撃が掠っただけで瀕死になってしまう現実は変わらない。
いやそもそも、たかが人間が焔禍竜の猛攻をかわし続けているのが奇蹟なのだ。
それだけナギは少ない闘気や魔力を出し惜しみなく使って必死にかわしているのだ。防戦一方だ。
だから、時間が長引けばナギは死ぬ。あと十分か、もしかしたら数分か。
いや、もう間近だ。
「グッ」
疲労によって力が抜けてしまい、ナギは転ぶ。すぐに受け身をとって態勢を整えようとするが、大きな隙だ。
焔禍竜は大きく口角を上げた。圧倒的な殺意と己が右眼を傷つけられた憤懣を込めて大きく息を吸った。
お腹から、肺へ。肺から喉へ。そして口へ。
横溢した焔が焔禍竜の顎に集束し、そしてブレスがナギに放たれた。
ナギは逃げきれない事を理解した。どんな防御魔法でもそれを防ぎきれないことも理解していた。
けど、笑った。
「解析完了ですわッ!!!」
瞬間、数十もの魔術陣が展開され。
「グルアッッ!?!?!?」
ブレスはもちろん、焔禍竜が纏っていた焔の全てが消えた。
ナギが詠唱もせずに焔禍竜の魔法を消したのだ。
「ここからはわたしの番ですわ!!」
ナギが不敵に笑い、焔禍竜へと走り出した。
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