私は幸せな結婚生活を送っていただけなのに、なぜ元婚約者さまは破滅への道を歩まれているのでしょうか?
シルヴィア・フランシス、20歳。
本日よりウェストン公爵家へ嫁入りすることとなった彼女は、初対面の旦那様の顔をまじまじと見つめ、思わず眉を寄せた。
(…………に、似てる……)
……そう、似ている。
社交界では『冷酷公爵』と呼ばれている旦那様の顔が、偶然の一致では済まされないほどに似ているのだ。
――数年前まで事あるごとにシルヴィアの視界にちらちらと映っていた、ストーカーの顔と。
「……シルヴィア? どうした」
応接間の戸の前でぴしりと固まってしまったシルヴィアを訝しんでか、旦那様――ロナルド・ウェストンがそう低く呟く。
シルヴィアは慌ててロナルドに深くお辞儀をすると、これからよろしくお願いしますといった意の言葉をつらつらと述べた。
(いけないいけない……、しっかりしなくちゃ)
キズモノの令嬢をまさか公爵家が引き取ってくれるというのだから、ここでヘマをするなんて許されない。
シルヴィアはしっかりと口を引き結び、やっぱり似てるなあなんて思考を適宜シャットダウンしつつ、再びロナルドに向き合った。
婚約を破棄されたばかりのシルヴィアがウェストン公爵家に嫁入りすると決まったのは、本当に突然のことだった。
「シ、……シルヴィア、僕はもう君とはやっていけない」
「はい?」
始まりは、もう3年の付き合いになる婚約者からの突然の婚約破棄である。
「ええと……、グレンさま? 申し訳ないのですがお言葉の意味が――」
「だ、だからもう君とはやっていけないんだ……! 婚約を破棄してほしい、今すぐに!」
「ええ……」
侯爵家令息の婚約者――グレン・アレリオの切羽詰まった様子に、シルヴィアは思わず仰け反った。まるで意味がわからない。
にも関わらず、グレンの勢いは増していく。
「お願いだ、頼む! 僕は君を好きだと思ったことなんて一度もないし、君となんて結婚したくもないんだよ……! な、わかるだろう!?」
それどころかおよそ婚約者にかけるべきでない言葉まで口走るものだから、困惑と疑念でいっぱいだったシルヴィアの頭は急激に冷めていった。
シルヴィアとグレンの婚約は、紛れもない政略結婚だ。互いの家がそれぞれに利点を見つけ、そのためだけに2人を結婚させようとしている。
それはシルヴィアだって承知の上だった。そもそも貴族なんて恋愛結婚の方が珍しいくらいだし、恋愛結婚を無理に通した結果、家ごと破滅した例なんていくらでもある。
「な?! 自由になった方がきっと君のためにもなるだろ、シルヴィア!」
そんなことわかっているけど、でも、シルヴィアだってただの20歳の娘なのだ。
(……べつに、面と向かってそんなこと言わなくたって良いじゃない)
驚きのあまり溢した紅茶で汚れたドレスを握り、シルヴィアは目を伏せる。
(そもそもそっちから持ち込んだ縁談でしょう。……それなのに『君とは結婚したくない』って)
一目惚れしたチュールレースが、紅茶色に染まって見るも無惨な姿になっている。
(なんなの、ほんと何なのもう。身勝手だし突然だし、……そんなこと言われて私はどうしたら良いの)
これはこれで可愛いかと自分に言い聞かせ、しかしそんな空元気も続かない。
俯けば俯くほど自分が惨めに思えてきて、シルヴィアは心の中で思ってもいない悪態をついた。そうでもしなきゃ泣いてしまいそうだったからだ。
「わ、……私は、構いませんけれど」
やっとの思いで言葉を紡ぐ。私だってグレンさまのことなんて好きじゃなかった、なんて嘘八百の強がりも忘れない。
「ほ、本当か……?!」
「で、でも、お父様やお母様がお許しになるかはわからないですし。アレリオ侯爵や夫人だって……」
「いやいやいや、そんなのどうだって良いんだ! うちの両親も賛成してるし、君の両親の説得も3人がかりで何とかするよ。ありがとう、シルヴィア!」
明るく、まるで飛び跳ねるような勢いで語ったグレンに、シルヴィアは余計心を削られた。
グレンの両親であるアレリオ侯爵や夫人もこの婚約破棄に賛成している。それはつまり、2人揃ってシルヴィアを「いらない」と判断したわけだ。
「……そう、ですか」
「世間への発表も早めに行った方が良いだろうし、早急に書類を送るよ。君も届き次第すぐにサインを――」
「……」
興奮したように、早口で語るグレンの頬は、嬉しそうに上気している。まるでシルヴィアのことなど見えていないかのようだ。
「ああよかった、助かるよシルヴィア! 婚約は破棄になったけど、これからもお互い良い関係でいようじゃないか!」
握手のため差し出された手を取ることもできず、こうしてシルヴィアは婚約を破棄された。
両親は案の定怒っていた。勝手に婚約を破棄したアレリオ侯爵家にではなく、勝手に婚約を破棄されたシルヴィアにだ。3年もの月日を無駄にしやがってと怒鳴られたのも記憶に新しい。
シルヴィアはもう20歳だ。結婚適齢期だって終わりを迎える頃だし、ここでキズモノになれば後がない。
――この先結婚なんてできないかもしれない。
グレンとの婚約を正式に破棄して少し。そんな想像まで頭を巡る昼下がり。
ウェストン公爵家から縁談の申し出があったのは、ほんのひと月前のことだった。
「……なぜそんなところで立ち止まっているんだ? 僕のことは気にせず座ってくれ」
「えっ、あ、……す、すみません」
そう尋ねられ、未だ応接間の戸の前で固まっていたシルヴィアは慌てて謝罪をした。とはいえ、どこに腰掛ければ彼の機嫌を損なわないのかもわからない。
本日より旦那様となるロナルド・ウェストン公爵のことは、シルヴィアも当然知っている。
とはいえ面識があるわけじゃない。以前フランシス家が主催したパーティーに来たこともあるらしいが、シルヴィアの方は完全に初対面だ。
年齢はシルヴィアより4つ上の24歳。父親が急逝したことから22歳の若さで公爵の地位に就いた彼は、その政治姿勢や性格から『冷酷公爵』と称される有名人だ。
まず彼は、貴族たちが重視する体面や面子といったものを全くもって気にしない。
あくまでも重視するのは自分や自領の損得のみなんてのは有名な話で、彼が公爵を世襲してからというもの、傾きかけていたウェストン公爵領の財政は右肩上がりなのだそうだ。
が、妥協や情に交流といった面まで切り捨ててしまえば、当然他の貴族諸侯の反感を買う。
事実世襲した当初は若さゆえ揶揄されることも多かったロナルドだが、彼は結果という形でその評判をひっくり返してしまった超人だ。
むしろ、今やウェストン公爵家に嫁入りをと考える貴族も少なくないくらいである。
(……なんというか、絶対に私じゃないと思うんだけどなあ……)
ひと月前から思っていることを心内に呟き、シルヴィアは彼と対面のソファへと浅く腰掛ける。
なぜ彼は自分を、シルヴィアを選んだのだろう。
シルヴィアの実家はさほど裕福なわけじゃない。貴族ではあるものの子爵だし、最近じゃ隣国の関係で漁に出られず財政も危うい。両親が婚約破棄に激怒し、ウェストン公爵家からの縁談をシルヴィアに無断で承諾したのもそのためだ。
しかもシルヴィアはついこの間婚約を破棄されたばかりだ。その理由だって、他貴族からはシルヴィア側の問題だとされている。
破棄以来グレンが清々しい表情を浮かべ、シルヴィアが落ち込んでいればそう噂されるのも仕方ないが、つまりシルヴィアは他者からすればキズモノだ。そんな令嬢を娶るメリットなんてひとつもない。
(……そうだわ。メリットなんてひとつもない。私が貴族令息だったら、今の私と結婚なんてありえないことだもの)
婚約を破棄された日から、考えが随分ネガティブになっている気がする。シルヴィアは俯いた。
(この結婚だって間違いだわ。キズモノになった女を一目見て、それで笑ってやろうって――)
「…………寒い、だろうか」
頭の中をグレンの顔ときたない弱音が巡る中、応接間にぽつりと落とされた一言に、シルヴィアは俯かせていた顔を上げた。
「え?」
「いや、……お前があまりにも顔を顰めていたから。部屋が寒いのかと思って」
困ったように眉を下げたロナルドに、シルヴィアはうまく言葉を返せない。
(……意外。他人のことを心配するなんて)
『冷酷公爵』の名があまりにも有名で、彼に関する話はシルヴィアの耳にもよく届く。
パーティーには滅多に出てこないとか、出てきても一言も話さないだとか、美麗で知られる令嬢のお誘いを「無理だ」の三音で切り捨てたとか、そんな話だ。
故に彼は冷徹で、それは誰を相手にしたって変わらないのだろうと、そう信じていた。
「あ、いえっ、そんな! お、お気遣いありがとうございます」
「ああ。……良かったら紅茶も飲んでくれ。昨日王都の店で買ったんだ、お前の口に合うかと思ってな」
「たくさん試飲したせいで晩ご飯が入らなかった」。そう笑ったロナルドに、シルヴィアはふと思う。
冷酷公爵とは、こうも柔らかく笑うものだろうか。
泣きたくなるほど穏やかな雰囲気を纏っているものだろうか。人一人のために、わざわざ紅茶を吟味するものだろうか。
――本当の彼は噂話なんかよりずっと優しい青年なのでは、なんて。
「わ、とっても美味しいです……! 甘くないのにまろやかで、すっごく好きな味!」
「そうか、ならよかった……。贔屓にしてる店のオリジナルなんだ、僕も昨日初めて飲んだ」
「す、すごい……! 今までの紅茶の中で一番ですよ!」
あまりにドンピシャな味にはしゃぎ、まるで宝石を見つめるようにティーカップの中を覗く。
シルヴィアは紅茶を飲むことが趣味のひとつだ。メジャーな茶葉はひとしきり飲んだ自信があるし、紅茶好きが高じて、調合を試したことさえある。
それでも結局理想の味には程遠く、調合の難しさを身を持って思い知ったところなのに、何と王都にそれをやってのける紅茶店があるらしい。紅茶マニアのシルヴィアには聞き逃せない情報だった。
「僕も紅茶が好きなんだ。……よければ、今度一緒に店へ出向いてみないか」
「えっ、い、いいんですか……!? 行きたいです!」
「もちろん。お前と一緒ならより楽しめそうだ」
「任せてください、お店の紅茶全部飲み干しましょう!」
先ほどの臆病さはどこへやら、紅茶ひとつで頬を上気させるシルヴィアに、ロナルドは引くどころか更に口角を緩める。
シルヴィアもシルヴィアで、彼に対する印象を180度変えていた。何せ、こんなに穏やかな雰囲気の貴族を見たのは初めてだったのだ。
その思考からは、いつの間にかグレンや実家のことがすっぽりと抜け落ちている。
彼はきっと嫌なことを忘れさせてくれる人だ。ストーカーに似ている、なんて失礼な第一印象を持ったことは、きっと墓場までの秘密にせねばあるまい。
「よかった。……やっぱりお前は笑ってるのが一番だ」
シルヴィアのストーカー被害の始まりは、約5年前に遡る。
最初は視線を感じるだけだった。
それが気にしてみると頻度も回数も異様で、しばらく周りを注意深く見ていれば、視界の端に人影がちらつくようになった。
とはいえそこでも酷いものでもない。外出をすると気になるくらいで、家にいる時は至って普通。嫌がらせをされるわけでもなし、シルヴィアは誰かに相談すらしていなかった。
1年経つと、人影がよりはっきり視認できるようになった。
何なら目が合うようになった。相手は1秒と経たずに逃げてしまうが、それでも大体の顔がわかるくらいには視線がかち合う。
ここまで来ると執念のようなものまで感じるが、1年経ってもシルヴィアへの被害はゼロだ。正直やめてもらうに越したことはないが、このところ財政悪化でピリピリしている父と母にわざわざ話す勇気もない。
結局ストーカーもどきのことはシルヴィアの内側で押し留め、しかし外出の頻度は格段に落ちつつ過ごし、更に1年が経った。
シルヴィアの婚約が決まった。
……と同時に、ストーカーの存在がシルヴィアの周りから消え失せた。
シルヴィアにとっては喜ばしいことこの上ない。これで心置きなく外に出られるし、侯爵家との縁談が決まったことで両親の機嫌も良い。
本当に、この時ばかりは、全てが上手くいくような気がしていたのだ。
その3年後、グレンに理由すら告げられないまま婚約を破棄されることになるまでは、本当に。
「……あの、ロナルドさま」
数十分前とは比べ物にならないほど温かな雰囲気の応接間で、シルヴィアはそっと彼の名を呼ぶ。
初めて名を呼ばれたロナルドは僅かに目を見開き、そしてじわじわと頬を染めた。それがおかしくって、シルヴィアは思わず笑ってしまった。
「私を、ウェストン家に迎え入れてくださってありがとうございます。――不束者ですが、どうかよろしくお願い致します」
グレンのことを綺麗さっぱり忘れられたわけじゃない。うじうじした想いだって断ち切れていないけれど、ロナルドのことを知りたい。
これは恋じゃない。でも恋になり得るかもしれないものだ。どのくらい時間がかかるかはわからないけれど、きっと。
シルヴィアの発言に面食らったロナルドが、長い時間をかけてただ一言「ああ」と呟くまで、シルヴィアはただ彼の目を見つめていた。
(……ストーカーだなんて、本当失礼なこと考えちゃった。こんな素敵な人なのに)
『冷酷公爵』の瞳の奥には温かな心がある。そう確信できるほどに澄んだ、綺麗な瞳だった。
◇◇◇
ロナルド・ウェストン、24歳。
『冷酷公爵』と称される彼は、シルヴィア・フランシスのストーカーである。
彼女と出会った日のことは、今でも詳細に覚えている。
5年前の冬の日、パーティーで偶然にも見かけた馬車を降りる彼女の美しさといったら、ロナルドのお粗末な語彙力では到底表しきれない代物だった。例えロナルドが国で一番の文筆家でも、同じことを思っただろう。
それほどまでにシルヴィア・フランシスは美しく、眩く端麗で、そして可憐だった。
確かに恋だった。紛れもない一目惚れだった。
隣にいた――今は亡き父親に名を尋ね、彼女がシルヴィア・フランシスであることを知った。シルヴィア。美しい名だ。
そして子爵令嬢であることも教わった。フランシス領は小さいながら海に面していることも、ここ数年は公務のため王都に移り住んでいることもだ。あの日ほど父の社交好きに感謝したことはない。
ロナルドは、翌日から毎日のように王都へ足を運ぶようになった。
理由は単純。シルヴィアに会いたいという気持ちを抑えられなかったのだ。
ロナルドは妥協を許さない。用事で王都へ出向いた際に偶然出会う、なんて運命に身を任せる気はなく、とにかくしらみ潰しに彼女の姿を探した。
が、初日はハズレ。2日目と3日目も外し、4日目で知らない娘に媚びるように絡まれ気分を悪くした。
そして迎えた半月後。
ひたすらにシルヴィアの姿に焦がれるこの日、ロナルドはやっと彼女との再会を果たした。
あの再会のドラマチックさは、例え生まれ変わったとて忘れられないだろう。
舞う粉雪を見上げ、寒さに頬を赤くさせるシルヴィアの愛らしさといったら。彼女が吐いた白い息の形だって、今でも昨日のことのように思い出せる。
その日はシルヴィアとその家族の後を1日中つけた。
シルヴィアが目を奪われていたショーケースを同じ秒数見つめたり、彼女と歩幅を合わせてみたり、唇の形から話していることを特定するのは流石に難しかったけれど、これはふた月もすれば習得することができた。ロナルドは自他共に認める努力家だ。
「……行ってしまった」
けれども、楽しい時にも必ず終わりが来る。
夜が訪れ、彼女が家族と共に乗り込んだ馬車が見えなくなったあと、ロナルドはぽつりとそう呟いた。
行ってしまった。半月苦しいほどに待ったシルヴィアとの再会が、もう終わりを。
(……シルヴィアは、次いつ王都に来るだろう)
フランシス子爵家の場所は知っている。向かうことは容易いが、万が一警備に捕まりでもすれば、王都でさえ彼女を見ることは叶わなくなるに違いない。
会いたい気持ちは山々だが、やはり王都で待つべきだろう。
翌日もそのまた翌日も、ロナルドは用事のない日以外は全て王都に出向くことにした。立場上外せない用事も多いが、その合間さえ縫ってシルヴィアの姿を探す。
そんな生活が半年ほど続くと、フランシス一家とシルヴィアが王都を訪れる日に、ある程度の規則性が見えて来た。
まず、シルヴィアは時折両親ではなく従者を連れていることがある。これが大体2回に1回で、曜日はまちまちだが週の中頃が多い。
一方で、両親と王都を訪れるのは必ず週末だった。頻度で言えば1週間か2週間に一度。つまり、シルヴィアは月に六度近く王都にやって来る。
また2日連続で王都に来ることはない。半年の中で1番短かったスパンは3日であり、そして従者と王都を訪れた次は、必ず週末に両親とやって来る。
ここまで理解できるようになると、シルヴィアについてもかなり詳しくなってきた。
特に読唇術を会得したのが大きかった。ロナルドは目が良かったし、それでも見えない時は双眼鏡を使うことで彼女の会話をある種盗み聞きできる。
シルヴィアは紅茶が好きらしいことを知った。
甘いものが苦手で、お茶会で出されるお菓子があまり食べられないことを知った。
オリジナルの紅茶の調合に取り組んだことを知った。
それがうまくいかず、才能がないのだと明るく笑い飛ばしていた。
「……」
弾むような足取りで街を歩くシルヴィアを後方から眺め、そっと目を伏せる。
(……今日も眩いな、シルヴィアは)
比喩なんかじゃなく、本当に太陽みたいだ。素直で純真で心優しくて、そして何より、彼女は人を疑うことを知らない。自分とは真逆だ。
ロナルドはあまり人付き合いが得意ではない。人を信じることができないし、人を疑うあまり言葉ひとつを選ぶのにも時間がかかってしまう。
そしてそれは、他者からの疑いを恐れる臆病さの裏返しでもあった。
(だから、……だから後ろをつけるなんて真似を)
俯き、溜息を吐いた。
ロナルドは、自分の行いが異質であるということを知っている。
気色が悪いことも、咎められるべきであるということも知っている。でも、どうしても彼女のことを見ていたかった。
もう少し近付きたかった。話しかけてみたかった。……あわよくば隣にいたかった。
でも自分の行いが如何に不気味であるかを知っているから、ロナルドはシルヴィアに近付けない。
こんなこと自分と彼女のためにも最初から辞めておくべきだったと後悔したのも一度や二度じゃない。それでも、気付けば王都でシルヴィアの姿を探してしまっている。
1年経ち、シルヴィアが王都に来る頻度が激減した。
シルヴィアは生きていく上での希望だ。その彼女に会えないとなれば当然ロナルドも気力がなくなり、上の空になることも増える。
会いたい。会えなくなるほど苦しくて、胸が痛い。自分が会うに値する人間だとは思えないが。
そんな思いを募らせ、募らせ、更に1年が経った。
シルヴィアが婚約を発表した。
ロナルドは一瞬、世界が終わったのかと思った。
「私を、ウェストン家に迎え入れてくださってありがとうございます。――不束者ですが、どうかよろしくお願い致します」
――あれから、早いものでもう3年が過ぎている。
未だに自分の希望であり続けるシルヴィアを眺め、ロナルドはふと「3年前の自分に現状を話しても信じないだろうな」と思った。
王都の街並みでもパーティー会場でもない、ウェストン邸の応接間にシルヴィアがいるなんて、今の自分ですらうまく信じきれていないのに。
「…………ああ、もちろん」
噛み砕ききれない幸せを身体中で感じながら微笑む。
3年前。シルヴィアが婚約を発表したあの日から、ロナルドは王都で彼女を探すような真似はやめた。
「……末永く、な」
――代わりに始めたのが、婚約者であるグレン・アレリオと、その周辺の身辺調査だ。
例え彼女が婚約したとて、ロナルドはシルヴィアのことを考えずにはいられない。
自分が関わって良い範囲を逸脱していることは自分が1番わかっている。
なのに、気付けば父まで使ってアレリオ侯爵家の情報を集めていた。これは彼女のためなのだと、そう自分に言い聞かせた。
(……そうだ、これはシルヴィアのためだ。あの子が幸せな結婚をするための)
今となってはただの嫉妬心だったのだろうが、当時のロナルドには自分を客観視できるだけの冷静さがなかった。
それからの1年は、とにかくアレリオに侯爵家関する情報を集めることに終始した。
1人では限界があると気付き、敬遠していた人付き合いを積極的に行うようになったのもこの頃からだ。詰問に近いそれを人付き合いと言って良いのかは不明だが、結果的に上手くいけば問題ない。
パーティーではまともに口を開かず、それどころか令嬢たちをフルシカトで撒き、要人との会話を済ませれば颯爽と帰宅するロナルド・ウェストン。
おかげで『冷酷』の名がついたわけだが、それさえロナルドにとっては嬉しい誤算だった。向こうが勝手に怯えてくれるのなら、こちらに有利に話を進めやすい。
そんな年の、冬の終わり頃だ。
「ああ、ロナルド様……! 旦那様が、旦那様がっ……!」
若かった父が持病で亡くなり、ロナルドを取り巻く環境は一変した。
元より悪かった病状だ。覚悟はしていたことだが、流石のロナルドにも堪える。
泣き崩れる使用人の背を撫でながら、ロナルドはじっと唇を噛んでいた。
愛人すら作らず、幼い頃に母を亡くしてからは再婚もしなかった父だ。今頃きっとあの世で母と再会しているのだろうが、ロナルドに残されたのは責任だけだ。22歳の青年には荷が重い。
「大丈夫だ。……僕が、全てうまくやる」
使用人に語りかけるていを取りながら、しかし自分にも言い聞かせるようにして呟く。
そうだ、自分がうまくやる。若いまま亡くなった父の分まで全て引っくるめ、何もかもをうまく。
その宣言通り、ウェストン公爵を世襲したロナルドの活躍はめざましいものだった。
ロナルドが徹底したのは領地と領民の繁栄、幸福だ。必要のないものは切り捨てて予算の割り当てを見直し、時には他の貴族にまで毅然と立ち向かう。
1年でロナルドを揶揄する貴族はいなくなり、それから更に1年もすれば、『冷酷』改め『冷酷公爵』は国きっての敏腕領主と呼ばれるようになっていた。
元より広く資源に恵まれたウェストン領だ。無駄を省くだけで結果は目に見えて変わったし、2年でこれだけ変わるのなら、10年もすれば更に化ける。
もちろん他の貴族から反感を買うこともあったが、数字や結果はロナルドの味方だった。擦り寄ってくる令嬢も少なくない。
「――おお、ウェストン公爵殿! 世襲なされてから直接ご挨拶をさせて頂くのはこれが初めてかな」
そんな時だ。
出向いた先のパーティーで、ロナルドはアレリオ侯爵家と遭遇した。
「ああ、……アレリオ侯爵殿。夫人にグレン殿も」
――否、遭遇するよう仕向けたと言っていい。
このパーティーの主催である子爵は、アレリオ侯爵が随分と懇意にしている大切な大切なお客様だ。参加は確実だったし、狙うならここだった。結果的に予想は大当たりの大勝利だ。
父が亡くなり、公爵の地位を得ても、ロナルドがシルヴィアのことを考えなかった日はない。
むしろ激務とプレッシャーからシルヴィアを思い出す機会が増えたくらいだ。
折れそうな時、全てを投げ出したくなった時、ロナルドを支えてくれたのはいつだって心の中のシルヴィアだった。
「いやはや、パーティーの場でウェストン公爵殿を見かけることができるとは。こんな幸運滅多にない」
見え透いた機嫌取りだ。笑うアレリオ侯爵を見つめながら、ロナルドはふとそんなことを思う。
わかりやすいおべっかを使う貴族は今までも山ほどいた。娘の嫁ぎ先にという者、自身の繁栄のため取り入ろうとする者、後ろ暗いことを考える者、……誰もが腹に何かを抱えている。
目の前で口角を上げきれていないアレリオ侯爵も、例によってその部類だった。
なるべくこちらに関わりたくないという焦り、でもできることならうまく取り入りたいという野望。全て透けて見える。
ロナルドは口元に笑みをたたえ、「そうか」と一言呟いた。
公爵の地位に就き、ロナルドが第一に優先したのは領地の改革。
「そう珍しいものでもないと思うが。――僕も貴殿に倣って、主催のフランシス子爵とはこれから末長い付き合いをと考えているのでな」
――そしてその次に優先したのは、アレリオ侯爵家の情報収集だった。
ロナルド・ウェストンは妥協を許さない。
やることが増えたからと言って何かを諦めるなんて以ての外だ。むしろ思い出す機会が増えたことで、シルヴィアへの執着と婚約者への嫉妬心は増している。
シルヴィアが、シルヴィアの全てが、ほしい。
生涯なんて短い間じゃ足りない。来世でだって隣にいたい。他の誰にだって渡したくない。自分のものであってほしい。
5年前にパーティーで見た横顔が、王都で見た笑顔が、今でも焼き付いて離れない。
そんな執着がロナルドを突き動かし、この場――フランシス子爵家のパーティー会場にまで足を運ばせている。
「な、……るほど、それはそれは。素晴らしいことですわ……」
面食らったアレリオ侯爵に代わり、夫人が苦笑いでそう続ける。
「そ、そうですわよね。フランシス子爵は素晴らしいお方ですし、うちのグレンは娘さんと婚約をさせていただいて、……ね、ねえグレン?」
「え!? あ、あー……うん、その通りで……」
違和感を感じていた。
アレリオ侯爵家とフランシス子爵家の婚約。どうもメリットが子爵側に偏って見えるこの婚約を推し進めたのは、他の誰でもない侯爵の方だった。
あれだけ美しいシルヴィアだ。利点なぞ関係なく嫁に欲しい気持ちは理解できたが、ロナルドの執着心は疑念の一つも見逃さない。
フランシス子爵家と繋がりを持ったことによるアレリオ侯爵家のメリットを探し、予測し、実証し、そして結果を得た。
「――なあ侯爵殿。確かに海は魅力的だな」
少しの騒音でも消えてしまいそうな声が、ふと場に落ちる。
「……は、………?」
一瞬のうちに冷え切った場の空気に、ロナルドは思わず笑いそうになってしまった。
「内陸じゃどう頑張ったって手に入らない海洋資源はあるし、食糧にも困らず船だって出せる。他国との貿易も捗るな」
「こ、公爵閣下……?」
「僕には考えられないことだが、たとえば隣国から『そちらの国に攻め込みたい。金をやるから協力してくれ』と言われたとして――海に面した領地があれば、隠密に他国の船を呼び寄せることもできるな。国には甚大な被害が出るだろう」
アレリオ侯爵の焦りが、夫人の震えが、グレンの表情が、どれも愉快でたまらない。
「……身に覚えがないとは言わせないが。侯爵殿」
シルヴィアのことを考え、ロナルドは更に口角を緩めた。嬉しかった。
フランシス子爵領が小さいながらも海に面していると知り、それを利用せんとした売国奴が己の手で粛清されようとしている。こんな嬉しいこと他にない。
「ま、まさかっ、公爵殿!」
「だがな、もっと上手くやった方がいい。お前は連絡の取り方が下手すぎる」
「違うっ、違うんだ! 違う! 話せば、話せば閣下にも理解が……!」
「隠し事は記録や記憶に残すものじゃない。そうやって人前で無意味に大きな声を出すのも三流だ」
しがみつくようにして迫った侯爵の肩を抱き、ロナルドは一層低い声で言葉を紡ぐ。
「でもな、僕だって鬼じゃない、人間だ。――相応の対価で見逃してやっても良い」
4人の間に、重い沈黙が降りた。
相応の対価。それを払うということはつまり、ロナルドへの降伏及び従属を意味している。断れば未来はなく、向かう先は破滅のみだ。
荒い呼吸を繰り返すアレリオ侯爵は、彼が『冷酷公爵』と呼ばれる所以を理解した。
他者への情が、妥協が、彼には一切感じられない。
考えているのは己の利益だけ。例え対価を受け取ったとて、必要とあらば躊躇なくアレリオ侯爵家を刺し殺しそうな、そんな雰囲気すら感じる。
「……ほ、本当か」
「ああ。僕は嘘を吐かない」
「……」
アレリオ侯爵は数秒考え込む素振りを見せ、答えた。
「わ、わかった。……そちらの望みであれば何でも聞く」
こちらの予想通りの、そして理想通りの回答をしてくれるものだから、ロナルドは今度こそ笑ってしまった。
「ああそうか。……賢明な判断だ」
本当に、本当に賢明だ。
ここまで3年。シルヴィアに出会ったあの日のパーティーから5年。本当に、本当に長かった。
父が亡くなり、公爵の地位を得て、そこまでしてやっとここまで来た。
この5年、シルヴィアのことを想い焦がれなかった日はない。
思い出すたびに会いたくなって、隣にいたいと強く願うようになった。父が亡くなり、蓋をしていた寂しさが溢れると、ロナルドは決まってシルヴィアがここにいればと考える。
自分の行動の不気味さゆえ彼女に近付けないと悩んだことも、今や遠い昔のようだ。抱えた罪悪感が浄化され消えてゆく。
「では遠慮なく要求しよう。――シルヴィア・フランシスとの婚約を早急に、そして穏便に破棄してくれ」
◇◇◇
「わあ……っ、見てくださいロナルドさま! 茶葉がこんなにいっぱい! 棚の上までぎっちりですよ!」
「ああこら、あまり駆け回るなシルヴィア。転ぶぞ」
「もう、ロナルドさまは毎度過保護すぎですよ。私だって体幹には自信が――ぅわっ」
店内の段差に躓いたシルヴィアの腕を咄嗟に引き、ロナルドは大きく溜息を吐いた。何が体幹に自信だ。これ以上ヒヤヒヤさせないでほしい。
「……で、お前はどこに自信があると?」
「あー……、へへ。ありがとうございます」
照れたように言い、シルヴィアはにっこりと笑う。
そしてロナルドはその笑顔に驚くほど弱い。「次は気を付けるように」と叱って手を離してやると、またはしゃぎはじめたシルヴィアに再度溜息を吐いた。まったく彼女は。
「でもすごいですよ、ロナルドさま! これなんて甘い品種と苦味のある品種を組み合わせてるし――わっ、ティーポットも可愛い……!」
先ほど言われたことをぽんと忘れてしまったのか、シルヴィアはきらきらと瞳を瞬かせる。
それがまた愛らしくて愛らしくて、ロナルドは思わず笑みを浮かべた。
こんなに幸せなことがあって良いのだろうか。人生の幸福を使い果たしてしまった気分だ。
シルヴィアがウェストン公爵家に嫁いでから、早いものでもう2ヶ月が過ぎている。
この2ヶ月で2人は、使用人が驚くほど急速に親交を深めていた。
初対面で自然と壁が取っ払われたのもあるのだろうが、特に2人の趣味がぴたりと合っていたのが大きい。
その嗜好が完全に自分に影響されたものだとは知らず――趣味を語り合える相手がいてシルヴィアも楽しそうだし、ウェストン夫妻の結婚生活は非常に順調だった。ロナルドの方だって、シルヴィアがいればそれで良い。
「それに見たことない茶葉もたくさん……! ほら見てください、これなんてキャンディーみたいにカラフルですよ!」
珍しくロナルドの仕事が休みだった今日、2人は以前話した紅茶店を訪れていた。
前々から興味を持っていたところだ。シルヴィアはいつになくはしゃぎ、ロナルドも自然と口角が緩む。どんな味がするんだろうと笑う姿が、5年前王都で見た彼女にそっくりだ。
「調合した茶葉に付けている名前もオシャレですよね。『ビリーバー』に『ライラロンド』、『グレ――」
と、そこでシルヴィアの言葉がぴたりと止まった。
一体どうしたと視線をやれば、シルヴィアの視線がとある茶葉に注がれている。そこには『グレン』と名の付いた茶葉が置かれていた。
「……シルヴィア?」
思わず名を呼び、ロナルドは僅かに眉を下げた。
グレン。シルヴィアの元婚約者。
あいつを思い出していたのだろうという想像は、冷酷の名を持つロナルドを以ってしても容易かった。
「あ、……ご、ごめんなさい。少しボーッとしてしまって」
慌てて笑うシルヴィアに、一抹の寂しさを感じる。
あれからもう2ヶ月経つが、それでも時間にしたら一瞬だ。あいつを、――グレンを忘れられないのも仕方がないし、ロナルドだってそれは承知の上、だが。
「……忘れられないか?」
尋ねると、シルヴィアは目を見開いた。
口にするとどうも女々しく聞こえる。でも、それでも彼女は今やロナルドの妻だ。
シルヴィアが望んだ結婚ではないにしろ、相応の嫉妬心もあるわけで。
「えっ、あ、……ま、まさか! 大丈夫ですよ、本当にちょっとボーッとしてただけですから」
「……そうか」
「ふふ、そうです。すみません、ご心配をおかけして」
嘘だ。やはり彼女は、多少なりともグレンに未練がある。
婚約中、シルヴィアはグレンにとんでもなく優しくされたのだろう。そりゃ政治的意図があるのだから当然だが、それを知らない彼女はグレンを忘れることができない。一度想った相手だからだ。
「さ、他の棚も見て回りましょう、ロナルドさま! 調合体験スペースも見ておかなきゃ……!」
それでも気丈に振る舞う姿を見て、ロナルドは目を細めた。眩しい、とても。
きっとロナルドのことを気遣っているのだろう。「忘れられないか」なんて珍しい言葉を吐いてしまったものだから余計にだ。
(……あんなこと口にして、心配をかけているのは僕の方だな)
でも、でも大丈夫だ。シルヴィアも気に病む必要なんてない。もうすぐ嫌でも忘れられる時が来る。
「……そうだな。2階にはカフェスペースもあるんだ、ある程度見て回ったらそちらにも顔を出そうか」
昨日送付した文書。2ヶ月かけてロナルドが取りまとめた、アレリオ侯爵家が隣国と連絡を取っていた履歴が、そろそろ王宮に到着する頃だ。
アレリオ侯爵側だって大馬鹿じゃない。ロナルドの見逃してやるなんて言葉は信じちゃいないだろうし、そろそろロナルドに対して何らかのアクションを起こすはずだ。それを見越して良きところで叩く。
国のためにも、そしてシルヴィアのためにも彼らの被害は大きい方が良い。
(侯爵の処刑と一家の投獄程度で済めば良いが……、恐らくは揃って処刑台行きだろうな)
全く馬鹿なことを考えた貴族もいたものだ。野心に目が眩まなければ、売国奴に成り下がることもなかっただろうに。
「ね、ロナルドさま! すごいですよ、その人に合った茶葉を選んでくれるサービスまであるんですって!」
そう笑うシルヴィアの、何と愛おしいことか。ロナルドはもう一生離してやれそうにない。
彼女のためなら何だってできるし、アレリオのことだって被害者であるフランシス家は潔白になるだろうが、親でありながら彼女に酷い文句を付けた外道共も、望めば殺してやる。
「ああ、今行こう」
ゆったりとした歩調で妻の方へと向かいながら、ロナルドは幸福感を噛み締める。
こんな時間が一生続いて、そして終わらなければ良い。叶うことなら来世も、そのまた来世も。
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