エッセイとは
エッセイとは何だかよく分からないものである。
心の赴くままに言葉を綴ったことがあった。最初は最近の悩みを書いていたはずなのにだんだんと空気の色が変わってゆき気がついた時には小説のようなよくわからない創作物となっていた。自分の体験といういわばノンフィクションから始まったはずの文章がだんだんと空想じみて、最後にはありもしない顛末がついていたのだから始末が悪い。ノンフィクションをもとに、自分の意見を書いた、創作物。小説というには物語が少し過ぎて、随筆というには『嘘』が多すぎる。結局、ジャンルをどうしていいか分からないままにその他にでもしたような気がする。
小説を書こうと思ってものを書き始めたことは幾度となくあったが、大抵は書いている途中で疲れてしまったり飽きてしまったりして完成しないか、あらすじがつらつらと書かれた何かと成り果てた。『あらすじもどき』は自分で読み返す分にはとても楽しい読み物なのだが、人様に読ませるには外見があまりに悪い。誰かに読んでもらえるようなものを書こうとすると、どうしても掌編小説とでもいうような短いものしか完成しない。思い悩んで、ジャンルが向いていないのかと思い、エッセイなんてどうだろうか、と考えて、そのために「エッセイの書き方」という本を読んでみた。
粛々と読み進め、例として披露されたたくさんのエッセイの断片を大いに楽しんだところで読み終わった。満足した気分で読みながらメモをしたいろんな方の「エッセイ」の定義を読み返してみても、エッセイとは何かがわからない。一人一人のお話を聞いている間はその人の思うエッセイにとても共感し感服するのに、全体を丸ごとひとつにして考えるとエッセイが何かいまいちピンと来ないのだ。例えるなら先生によって説明が違っていつまで経ってもピンとこない物理の定理のような、しかしそれよりももっと気持ちいいのに据わりが悪いようなそんな感じだ。物理の定理なら理解の仕方、覚え方が違っても結局のところ定理は一つだけである。あの先生はこう言ったが、自分で考えるにこれはこういう意味だからあの先生が言ったのは何だかずれている、そっちの先生の言ったことの方が正しい気がする、そんなことを自分で考えて正解はわからなくても自分の中でどう解釈するかは一つに決めることができる。しかし、エッセイの定義は人によって異なるだけでなく、自分の中でもひとつに定まろうとしないのだ。語源から考えるのが正解だと思う人もいるかもしれないが、エッセイまたはエッセーの語源として紹介されていたのはフランス語のessayerという単語であり試みるという意味を持つ。私自身フランス語を少々勉強したことがあってessayerの意味だとか使う場面だとかにも心当たりがあるのだが、まさしく試みる、やってみる、頑張って試してみるといった風なのだ。それでは、何を試みるのか。本にはいろいろと書かれていたが、結局のところ何を試みたらエッセイなのかはわからなかった。
ここまでわからなかったと書いてきたが、何もわからなかったわけではない。むしろ、エッセイがはっきりとは決まっていないけれど『試みる気持ち』が滲んだなにかだということがわかったのである。おそらくエッセイには決まった形があったのではなくて、いろいろな分類をされるいろいろな文章の中で他の分類に入れてもらえないけれど何かを伝えることを試みたものがエッセイと呼ばれるようになったのではないだろうか。水に例えるならたくさんの小さな池がくっついた大きな水溜まりがあって、水溜りから池へと水が流れ出す中でどの池にも流れることができずに水溜りの中をぐるぐると回り続ける水こそがエッセイなのではないか。そう考えると自分の書いたよくわからない文章を『エッセイ』と呼ぶハードルが少しだけ低くなったように感じた。
読んだ本
「エッセイの書き方」日本エッセイスト・クラブ編, 岩波書店, 1999.
二十世紀に書かれたとは思えないほど読みやすい本で、エッセイストがエッセイについて書いたエッセイ集である。中でもエッセイストが選んだエッセイらしいエッセイの断片が引用されていたりするが、そのエッセイがまた面白くて気がつくとエッセイが何かということよりもエッセイストが選んだ珠玉のエッセイを紹介してもらうことを楽しんでいる自分に出会うことになる。要するに、面白く楽しい、読み物としても十分に楽しめる一冊である。
ここまでお読みいただきありがとうございました。いままさにエッセイに区分されたものを読んでいるみなさんなら、上記の本を読んでみるときっと楽しいと思います。それではまたお会いする時まで。見伏由綸