ママ友いじめ ―女子プロレスラー転生―
「食事中ぐらいスマホを見るのをやめたら?」
テーブル越しに夫の健彦があきれたように言った。
「ごめんなさい」
夕食のテーブル、口では謝りながらも可奈のスプーンは宙で止まったまま、目はテーブルのスマホに向けられている。
隣に座る息子の友也が母親の顔を見上げた。
「ママ、僕、ソクテンができるようになったんだよ」
「ソクテン?」
可奈が首をかしげると、息子の言葉を父親がフォローする。
「側転だよ。今度、友也がお遊戯会で体操をするんだよ」
ピコンと音がしてLINEに着信があり、可奈がスマホをさっと手にとる。
サオリ『駅前の英会話教室の評判ってどう?』
ボスママからの着信に可奈の顔が強張る。
まい『アットホームって噂ですよ』
恵『講師はほとんどネイティブだって』
AYA『プログラムもいろいろあるみたいですね』
有紀『先生の教え方もすごく丁寧だそうです』
続々とママ友たちのレスがつき、可奈の顔に焦りが浮かぶ。
(佐緒里さんの発言に30秒以内にレスをしないと……でも知ってることは先に言われちゃったし……)
リビングの壁時計に目をやる。秒針が無情に刻まれる。焦った表情で夫に訊ねた。
「あなた、駅前の英会話教室のことで何か知らない? ほら、キッズ向けの教室があるでしょ」
「ハロウィンで子供たちが仮装してるのを見たことがあるけど……」
可奈は急いでスマホに打ち込む。
可奈『ハロウィンの仮装イベントなんかもあるみたいですよ』
時計の秒針が30秒に達する直前に既読マークがつき、安堵の息を洩らす。
必死な妻の姿に夫がため息を洩らす。
「そんなにママ友が大事なのか?」
夫の不満げな言い方に可奈が気色ばむ。
「親は親でいろいろ付き合いがあるのよ……あなたは入園式やお遊戯会くらいしか来ないからわからないでしょうけど……」
そう言い終わるや、またピコンと音が鳴り、可奈はスマホのグループラインに目を戻す。
その夜――薄暗い夫婦の寝室、並んだベッドで可奈と健彦の夫婦が寝ている。スマホをいじりつづける妻に、夫があきれたように言った。
「いい加減にしろよ。もう消すぞ」
健彦がベッドランプに手を伸ばす。部屋が暗くなり、スマホのバックライトの明かりが可奈の顔を照らす。
グループLINEではママ友たちの会話が続いていた。
サオリ『大樹君のママ、感じ悪くない?』
まい『あのひともう43歳ですよ。更年期障害じゃないですか』
恵『目つきがジメッとしてますよね』
AYA『だから子供も性格がねじれてるんだw』
由紀子『私もちょっと苦手です』
現在のいじめのターゲットである高齢出産のママの悪口を言い続ける。可奈は悩んだ末、あたりさわりのないことを書く。
かな『同感です』
ピコンと音が鳴り、ボスママの返信がつく。
サオリ『かなちゃん、塩対応~』
スマホを握りしめて、可奈は痛恨のミスを犯したように唇を噛む。
まい『若いママと年寄りのママで逆に気が合ったりして』
恵『24歳の可奈ちゃんからしたら43歳なんてお母さんじゃないの?』
AYA『いや、バアバですよw』
佐緒里が動物のスタンプ(大笑いしている犬のイラスト)を貼り付ける。このボスママ、人の悪口が何より好きだった。
サオリ『今夜は朝までみんなで語り明かさない?』
可奈の顔が青ざめる。
(朝までって……冗談でしょ?)
暗闇の中で可奈はスマホを握りしめる。サオリは専業主婦だからいいが、自分は明日、子供を幼稚園に送り出した後、パートに出なくてはならない。だが――
まい『賛成!』
恵『いいですねー』
AYA『お酒とおつまみ用意しなくちゃw』
有紀『楽しみです』
他のママたちから次々の賛同のコメントが続く。
サオリ『最初に寝落ちした人が今度のランチを全員分おごる。いいわね?』
恵『燃えてきました』
AYA『負けられない戦いがそこにあるw』
可奈は弱々しい手つきでスマホに打ち込む。
かな『がんばります』
ベッドサイドの置き時計の針は深夜3時を指している。寝息を立てる夫の隣で、可奈がスマホを見ている。
ママ友たちのトークは深夜まで続いていた。内容は幼稚園の先生や他のママの悪口ばかり。可奈の顔には疲労の色が濃く、睡魔でまぶたが下がる。
(だ、め……寝たら……)
スマホを握りしめたまま、意識を失ってしまう。
翌朝、カーテンの隙間から差し込む日の光で可奈は目を覚ました。隣では夫が寝息を立てている。手の先にスマホが落ちていた。
がばっと体を起こし、スマホでLINEを確認する。昨夜、可奈が寝落ちした後もママたちのトークは続いていた。
サオリ『かなちゃん、どうしちゃったの~?』
まい『一番年下が真っ先に寝るってどうなの』
恵『まあ、二十歳でデキ婚するようなママだから』
AYA『旦那さんとアレの真っ最中なんじゃないですかw』
有紀『疲れてたんですかね』
書き込まれた自分の悪口を見て、可奈の顔が強張る。
◇
「なんなんだよ、この3万とか5万とか、口座から引き出されてる金は?」
夫の怒声がリビングに響く。
「ごめんなさい……」
可奈は消え入りそうな声で謝った。
「ごめんなさいじゃわからないだろ! ちゃんと説明してくれよ。何に使ってるんだよ」
可奈は黙り込む。寝落ち事件以来、可奈はママ友たちの〝奴隷〟にされていた。高額なランチ代をおごらされ、夫に内緒で引き出したお金をあてていた。
夫が疲れたように息をつく。
「頼むよ……君は友也の母親なんだ。しっかりしてくれよ」
ピコンとLINEに着信する音がして、可奈がスマホを手にとる。
サオリ『今夜も朝までオールで行くわよー』
翌日、子供を幼稚園に送り出した後、可奈はやつれた顔でパートに出た。職場は出版社の倉庫で、新刊や返品されてきた本の検品をする仕事だった。
作業衣のジャンパー姿で棚の本を数えていると、頭がふらっとして可奈は棚にもたれかかった。近くにいた同僚のパート女性が駆け寄ってくる。
「橋本さん、大丈夫? 顔色が悪いわよ」
可奈は無理に笑みを作った。
「大丈夫です」
頭にズキンと痛みが走り、足下にうずくまる。床に手をつき、崩れるように横倒しになった。かすんでいく意識の中、名前を呼ばれる声が聞こえ、他の同僚たちが駆け寄ってくる姿が見えた。
◇
まぶたがゆっくりと持ち上がった。ただし目を覚ましたのは可奈ではない。女子プロレスラーのリリー木村である。
リリー木村(あくまでリングネーム。ハーフではなく純日本人)は、のろのろと上半身を起こし、辺りを見回した。
鏡のような湖面が果てしなく広がり、自分のいる場所だけがぼんやりと光に浮かび上がっていた。深い森の奥のような静寂に包まれている。
「お目覚めですか?」
男の声がした。体に白い布を巻いた金髪の美形が立っている。
「えーと……」
何か言おうとするリリーを金髪男が手で制した。
「私はあなたの世界で言うところの〝神〟が近いかと思います。ちなみにここはあの世とこの世の狭間です。女子プロレスラーのあなたは試合中の事故がもとでお亡くなりになりました」
「あー、思い出した」
たしかリング下に頭から落下したのだ。プロレスラーをやっていれば怪我は日常茶飯事だ。特に自分は悪役なので、危険とは常に隣り合わせだった。
「単刀直入にお伝えします。あなたには、これからある女性の身体に入ってもらいます。49日間、一度も暴力を振るわなければ、人生をやり直すチャンスを差し上げましょう」
リリー木村が不快そうに眉を寄せる。なんで私がそんなクソ面倒くさいことをやんなきゃならないんだ? という表情。
「あなたは少女の頃はレディースのヘッドとして暴力に明け暮れ、プロレスラーになってからは最凶最悪のヒールとして、極悪非道の限りを尽くしましたよね?」
「ヒールは会社から振られたキャラだよ」
リリーの愚痴を無視して、金髪男は続ける。
「転生前に暴力衝動を抑えられるかテストさせてもらいます」
「できなかったら?」
「あなたの魂はここで消滅します。転生はありません」
なるほど、とリリー木村はうなずいた。わかりやすい。
「では時間がありません。さっそく行ってください。いさかいと暴力のない平穏な49日間をあなたが送れることを願っています」
金髪男が静かに手を合わせ、リリー木村の意識は再び闇に包まれた。
◇
「でも悪いわね、可奈ちゃん。こんな素敵なお店を用意してもらって」
着飾ったドレス姿の佐緒里が優雅に微笑んだ。
「いえ、今日のランチ会は特別ですから」
可奈は笑顔で言った。
来週が佐緒里の誕生日だった。その日は家族で高級フレンチに行くらしく、少し早めにママ友だけで祝うことになった。場所はホテルの最上階にあるレストランの個室である。
「佐緒里さんのドレス、とても素敵ですね」
やわらかなウェーブのかかったセミロングの髪、ノーブルな雰囲気が漂うハイネックのワンピース。女王然とした美貌も含め、ボスママにふさわしい華やかな雰囲気である。
(ま、整形でお顔を〝整えて〟らっしゃるんだろうけど……)
可奈は内心で毒づいた。中身は女子プロレスラーのリリー木村だ。入れ替わってもう43日目になる。
取り巻きのママたちがやってきた。
「佐緒里さん、今日も素敵な装いですね!」
「バッグとワンピースとすごく合ってます」
「パールのネックレス、可愛い!」
「そういう風に私も着こなしてみたいです」
あからさまなおべっかに佐緒里はまんざらでもない様子だ。しらけた目でその様子を見ている可奈のそばへ眼鏡の女性が近づいてくる。
「可奈ちゃん、本当に大丈夫なの? こんなに高そうなお店……」
有紀はママ友で最年長の36歳。年上のママたちにいびられる可奈を心配してくれる、唯一の味方だった。
「佐緒里さんがこの店がいいって……」
可奈が苦笑まじりに言った。
ママ友のランチ代をたかられるように奢らされていた。プロレスラー時代のへそくりをこっそり自宅から持ち出し、なんとかしのいでいた。
(あと6日だ……6日だけ耐えればいいんだ……)
次は金持ちの家に美少女の令嬢で生まれ変わるのか。暴力気質の父親とアル中の母親の間に生まれたリリー木村にとっては、どう転生しても前よりは悪くはないはずだ。
「奥様――」
ホテルスタッフと思しき上品そうなスーツを着た中年男性が個室に入ってきて、佐緒里のもとに歩み寄った。
「あら、柏原さん。わざわざおいでいただかなくてもいいのに」
「そうはいきません。藤堂社長に怒られてしまいます」
それから男はママ友たちに顔を向けた。
「支配人の柏原です。本日は当ホテルをご利用いただき、ありがとうございます。奥様にお誕生日に、私どもからワインのサービスがございます。後ほど食事と一緒にお持ちします」
付き従っている若い男性ウェイターがワインのボトルを見せると、佐緒里が申し訳なさそうに眉尻を下げる。
「こんなにいいワインを……ありがとうございます。主人に伝えておきますわ」
支配人がいなくなると、佐緒里がママ友たちに説明をする。
「ウチの会社でパーティをするとき、このホテルをよく利用してるんです」
「支配人がわざわざ挨拶に来るなんてすごいですね」
「他のホテルも平等に使わないといけないので……社長の妻も気苦労が多いんですのよ」
ランチ会が始まると、佐緒里は言った。
「実は私、〝ママ友名刺〟を作り直したの。みなさん、ちょっと見てくださる?」
バッグから名刺を三枚出し、テーブルの上に並べる。
祐太ママ
藤堂佐緒里 Saori Shindoh
〒123-×××
S県Y市××××××××
電話:090-××××-××××
メール:yu-mama@×××.com
丸い縁取りの枠の中に佐緒里と息子の祐太の写真、写真の下には「みんな友達になってね」のキャプション。三枚はデザインや色調がそれぞれ違った。
「プロのデザイナーさんにお願いしたの。どれがいいと思う?」
ママ友たちは身を乗り出し、テーブルに並べられた三枚の名刺を覗き込む。
「この左のやつがいいんじゃないですか?」
「ええ、佐緒里さんの上品なイメージにぴったり」
「右のやつもフォントが可愛くて私は好きですけど」
「真ん中のデザインも洗練されてますよね」
LINEのグループトーク同様、ママたちが次々に発言する中、可奈は白けた目をテーブルに向けていた。
(くっだらねえ……なにがプロのデザイナーだよ。ネットに落ちてるテンプレをそのまま使ってるだけじゃねえか……)
黙っていると、佐緒里に訊ねられた。
「可奈ちゃんはどれがいいと思う?」
可奈はじっとテーブルの三枚の名刺を見つめた。
(下手なことを言ったら何を言われるか……)
入れ替わって43日目。底意地の悪いボスママの性格は知り尽くしている。考えた末、弾けるような笑顔で言った。
「3案とも素敵だと思います!」
途端に場がシンと静まり、可奈は困惑する。沙織が眉根を寄せ、不機嫌な表情になる。
「どれでもいい? 他のみんなは真剣に意見を出してくれたのに……どうせ、どうでもいいと思ってるんでしょ」
「そういうわけじゃ……」
ママたちの冷たい視線が浴びせられ、可奈は身をすくませる。沙織が何かに気づいたように片眉を持ち上げる。
「あなた、いつからそんな派手なスカートを穿けるようになったの?」
「え?……」
沙織の視線は、可奈の下半身――ターメリックイエローのフレアスカートに向けられていた。
「年少のママが着ていい服の色は、黒かグレーだけでしょ? ランチ会のドレスコードは伝えたはずよ」
「でもベージュはいいって……」
唯一の味方であるママ友の有紀が事前に教えてくれた。
「良くないわよ! それにそのスカートのどこがベージュなの? ピンクじゃない。ねえ、みなさんもそう思うでしょ?」
佐緒里が賛同を呼びかけると、ママ友たちはぎこちない笑みを浮かべる。
「そうね、ピンクよ」
「ベージュにしては明るいわ」
中には「私と色が被ってる……ひどい」と泣き真似までするママまでいる。気を遣ってか、有紀だけが沈黙していた。
佐緒里が可奈を睨みつける。
「みんな最初はそうやって我慢してきたのに、あなた、何か勘違いしてるんじゃないの? その派手なスカート、目障りよ。駅前のお店で買い換えてきなさい」
「今からですか?……」
佐緒里がバッグから財布を出し、千円札を数枚、テーブルに放り投げる。
「いい? 20分で戻ってきなさい。1分でも遅れたら次のランチ会もあなたのおごりよ」
可奈は信じられないといった顔で佐緒里を見つめた。仕方なくテーブルの千円を手握り、個室を飛び出していく。
(ちくしょう……)
ハァハァと息を荒げながら、可奈(中身はリリー木村)はホテルのロビーを走っていた。ぶん殴ってやりたいが、暴力を振るったら転生ができない。
(女子プロの新人時代も〝いびり〟がひどかったけど、ママ友も陰湿さでは負けてねえな……)
戦いのリングはプロレスにしかないと思っていたが、どうやら違ったようだ。戦場はママ友たちの中にもあった。
◇
「はーい、じゃあ、みなさん、お静かにー」
取り巻きのママが言うと、ホテルのスタッフが部屋のカーテンを閉め、ライトを消す。薄闇の中、テーブルのケーキの上でロウソクの炎が揺れ、ママたちの合唱が始まる。
Happy Birthday to you♪
Happy Birthday to you♪
Happy Birthday dear Saori♪
可奈はお盆に人数分のグラスを入れて運んでいた。中にはホテルが用意した高級ワインが入っていて、赤い液体が揺れている。
「あっ――」
暗闇の中、誰かに足を引っかけられ、可奈はバランスを崩して転んだ。お盆が手からこぼれ、床に落ちたグラスがガシャンと割れた。
天井の明かりがつくと、床に這いつくばった可奈を、仁王立ちの佐緒里が冷たく見下ろしていた。粉々のグラスとこぼれたワインを一瞥する。
「ホテルがわざわざ私の誕生日のために用意してくれた高級ワインよ。あなた、このワインの値段を知ってるの?」
「いえ……」
「土下座して謝りなさい」
可奈が両手を床につき、深々と下げる。
「すいませんでした……」
有紀が駆け寄り、「大丈夫?」とティッシュで可奈の顔に飛び散ったワインを拭き取ってくれる。
佐緒里が冷たい声で告げた。
「……もういいわ。誕生会が台なしよ。帰ってちょうだい」
のろのろと可奈が立ち上がり、部屋の外に向かう。
「ワイン代は弁償してもらうわ。それ、50万するのよ」
可奈が足を止め、驚いた顔で振り返る。
「そんなお金、払えません!」
「だったらカラダでも売りゃいいでしょ。主婦売春ぐらい知ってるでしょ? 若いママ好きの太客を紹介してあげるわよ」
噂では聞いていた。佐緒里がいじめたママにランチ代をおごらせ、闇金で借金をさせ、首が回らなくなったママに売春相手を紹介し、中抜きをしていると――
可奈が顔をうつむかせ、はあ、と深いため息を洩らす。
「今回は我慢しようと思ってたんだけどなぁ……」
足を振って邪魔なヒールの靴を脱ぎ捨てる。スカートを手でビリッと引き裂いてスリットを入れた。まったく、動きにくいったらありゃしない。
すたすたと佐緒里の前に歩いていく。
「また土下座でもしてくださるの?」
「くださるの、じゃねーよ、バカ」
首根っこをつかむと、そばのサービスワゴンの上に置かれていたバースデーケーキに顔を突っ込ませ、グリグリと押しつける。
「うぶぶっ」
うめく女の頭を持ち上げる。コントのように顔を生クリームだらけにしたボスママを近くの壁にぶん投げると、跳ね返って仰向けに倒れた。
呆然と見守っていた取り巻きママたちのところにいき、一人に強烈な膝蹴りを食らわせ、一人に渾身のラリアットを決める。
ひえええ、と逃げるママを後ろから掴み、豪快な背負い投げでテーブルに叩きつけた。ガシャーンとすさまじい音がして皿やフォークやナプキンが辺りに散乱する。
乱闘で服の袖ぐりが破れ、右の二の腕に黒い鬼百合のタトゥーがのぞいた。それは前世のリリー木村のトレードマークだった。
可奈は顔を生クリームだらけにして床にへたり込む佐緒里のもとに行き、腰をかがめて耳元で言った。
「あんたらがこの一ヶ月、私にやったことはぜんぶ音声や映像で残してある。ネットに流出したら、あんたの旦那の会社もヤバいんじゃないのかい?」
可奈は立ち上がり、床に落ちていたヒールを手に部屋を出て行く。ホテルのスタッフたちがざざっとよけ、花道のようになる。
個室の外の廊下に有紀が立っていた。
「あの……可奈さん、ごめんなさい……私、力になってあげられなくて……」
いきなりビンタで頬を張り飛ばすと、有紀の眼鏡が吹き飛んだ。腫れた頬を押さえ、あ然とするママ友を可奈は睨みつけた。
「あんただろ、私の足を引っかけたの? ドレスコードもわざと嘘を教えやがって。ありがちだよねえ、ボスママを陰で操るいちばん悪いやつ。いい人ぶって味方のフリをしやがって。てめえみたいのがいちばんタチが悪ぃんだよ」
頭髪を鷲づかみにして鬼の形相を寄せる。
「いい歳した大人が、いじめとかダセえんだよ」
そう吐き捨てると、頭髪を掴んでいた手を離した。
手にヒールを持ちながら、素足で廊下を歩く。エレベーターで一階に降り、ロビーに来たとき、頭がふらふらとして、そのまま意識を失った。
◇
「あと5日だったのに……やってしまいましたね」
神を名乗る金髪男が残念そうに言った。
「まあ、人なんてそう簡単に変われないってことさ。ところで、あたしの魂が消滅したら可奈はどうなるんだい?」
「43日間、彼女は眠っていた状態でした。あなたがいなくなれば自分の身体に戻ってきます」
そうかい、とリリーは言った。それだけが心配だった。
「じゃあ、さっさとやっておくれ」
どかっと床にあぐらをかいた。後悔はない。いや、あるか――
(結婚して子供を産んでみたかったなぁ……ヒール軍団を率いるママレスラーなんて、ちょっとかっこいいじゃないか)
いや、と顔に苦い笑みを浮かべる。
(ママはもうこりごりだ。あたしにはやっぱりリングが似合ってる……)
意識がかすみはじめ、辺りが完全な闇に包まれた。
リリー木村の魂が消滅すると、入れ替わるように橋本可奈が目を覚ました。
ホテルのスタッフや客が周りを取り囲み、心配そうに覗き込んでいた。可奈は身体を起こした。ボロボロの服と素足の姿に戸惑った表情を浮かべた。
◇
二年後――
その日、年長になった友也を連れて、可奈は幼稚園の送迎バスの待合所に行った。
「可奈さん――」
若いママたちが集まり、彼女を中心に話の輪が咲く。子供が年長になり、送迎バスの待合所でいちばん古株の可奈はボスママと呼ばれていた。
一人のママが離れた場所にぽつんと立っていた。最近、この土地に引っ越してきた年少の息子を持つシングルマザーだった。
「ねえ、あちらのママさん――」
可奈が視線を投げると、他のママたちが困った顔をする。
「上条さん、なんかとっつきにくくて」
「いつも派手な服を着てるよね」
「水商売で働いてるってほんと?……」
可奈はママたちの輪を離れると、一人で若いママに近づいていった。
「その服、素敵ね」
声を掛けると、新米ママが驚いたように可奈を見返す。
「今度いっしょにお茶でもしない?」
入れ替わっていた43日間のことを可奈が覚えているわけではない。
だが、記憶の奥にうっすらと残るリリー木村の言葉――いじめとか、ダセえんだよ――は彼女の中の何かを変え、それ以来、誰かに優しくありたいと願ってきた。
こうして、そのバスの待合所でママ友のいじめはなくなった。
(完)
女子プロレスラー・リリー木村が登場する短編は他に……
「女子プロレスラー転生」
「DV彼氏 ―女子プロレスラー転生―」
……があります。
R.I.P
Hana Kimura