③
待ち合わせ当日、朝から由衣子は髪を染め、入念に化粧をし、先日購入した服を着用して待ち合わせの場所へ向かった。
林はもう待っていて、由衣子が声を掛けると振り向いて驚いた顔をした。由衣子を上から下までじっくり眺める。
「誰かと思った。今日はいつもと違うね」
「気合い入れちゃいました」
由衣子はしなをつくって答えた。
バス停からバスに乗り、海へ向かう。車内の一番後ろの座席で、林は由衣子の腰に手を回したり脇腹や太ももを撫でたりと非常に不愉快だったが、彼女は笑顔で耐えた。
バスの中で、由衣子はバッグから粉薬と紙パックの麦茶を取り出す。
「これ、よく効く酔い止めです。乗る前に渡そうと思ってたんですけど忘れてました」
「今さら飲んでも遅いだろ」
もうすぐ降車予定の停留所である。
「せっかく私が愛情込めて調剤して来たんです、だから飲んでください」
由衣子は自分でも寒気がするようなセリフを上目遣いで言った。私は女優、そう自らに言い聞かせながら。そして粉薬の袋を破り「あーんして」と無理やり林の口に入れ麦茶を渡した。林は満更でもなさそうである。
バスを降り、歩いて海岸へたどり着く。この辺りは人口の少ない場所で、人通りもほとんど無い。綺麗な砂浜という訳でもなく、缶が落ちていたり海藻が打ち上げられたりしている。
「あんまりロマンチックじゃないな」
「近くに親戚が住んでて、昔よくここで遊んだんです。たまに来たくなるんですよね」
由衣子は大量に積んであるテトラポッドの方へ林を誘導した。
「いい場所を知ってるんですよ」
テトラポッドを登り、屈んで手をつきながらいくつか先へ進んだ。ある地点で下へとそれを伝っていく。すると周りをテトラポッドで囲まれた一畳分くらいの空間があった。
「俺、怪我が治ったばっかなんだけど」
そう言いながらも楽しそうに林はついて来た。
「秘密基地みたいでしょ」
由衣子は砂の上に体操座りをする。林もすぐ隣に座った。狭い空間にストーカーと2人きり、なかなかシュールな体験だ、と由衣子は思った。沈黙が降りる。
すると林は由衣子に覆い被さってきた。帽子が脱げる。砂の上に押し倒され、唇で唇を塞がれる。しかしこれは想定の範囲内だ。むしろ、彼女自身がそう仕向けた。舌を入れられるのが大層不愉快だが。
次いで服の上から胸を触られる。これも想定の範囲内。
「完全に俺に火をつけたね」
これは範囲外。鳥肌が立つ。
唇が首筋に移動し、ん、と誠に不本意ながら声が出た。すると林は快感からそれが発せられたと勘違いしたようで、さらに吸い付いてきた。不快だが、由衣子は冥土の土産として許可した。
林の手が服の中に入り、背中に回され、ブラジャーのホックが外される。以外と器用だ、と由衣子は冷静にどうでも良い事を考えていた。直に胸を探られ、徐々に服がたくし上げられる。林の唇が胸に触れそうになった時、由衣子はもう無理だ、と両手で彼の体を押し返した。
「ごめんなさい、恥ずかしいから続きは今度でいい?」
林の目を見つめて言った。
「はぁ? 自分から誘っといて?」
「……お願い」
気持ちの悪さにより涙目になったのが功を奏したのか、林は由衣子に大人しく従った。もし彼が無理やりに事を行っても、邪魔者を抹消するためならば安いものだと仕方なく受け入れるつもりだった。しかし林は口は達者そうだが小心者の部類だ、強引には襲って来ないだろうと由衣子は彼の性格を分析していた。
林は砂に仰向けに寝転がり、目をつぶっている。興奮を鎮めているのだろう。
「じゃあせめて口でやれよ」
そうきたかと思うと同時に、はるか上からの言い方に、早く呼吸を止めてしまえば良いのにと由衣子は口から出そうになる。
「やった事ないから手で良いですよね」
しゃあねぇな、と由衣子はバッグからポケットティッシュを取り出し、有無を言わさず林のズボンのチャックを下ろして始めた。すぐに林は「由衣子」と唸って、終了した。ノルマ達成、と由衣子はとりあえずホッとし、ブラジャーのホックを留め服の乱れを直した。
林はそのままの姿勢でいる。
「景気付けにお酒でもどうですか?」
由衣子は言い、保冷バッグからチューハイを取り出した。
「俺、酒弱いし」
しかし林は断った。
「じゃ、口移しで飲ませてあげます」
拒否された時用のセリフを由衣子は言った。先ほどキスされたので、不自然では無いだろうと由衣子は計算していた。
「一口だけなら許す」
林はにやにやして答える。由衣子は缶を開け、なるべくたくさん液体を口に含み、寝転んだままの林に口移しで飲ませる。彼の喉がゴクリと鳴るのを確かめて、由衣子は自分も酒を飲む振りをした。彼女も林の隣にごろりと横になり、
「波の音聞いてお酒飲んだら、眠くなってきました」
と言って目をつむった。
「少しお昼寝しましょう」
林は由衣子の手を握って、素直に自分も目をつむる。
やがて林はいびきをかき始めた。由衣子は慌てず寝たまま横を向き様子を見る。アルコールによりバスの中で飲ませた睡眠薬の効果は増すはずだ。例えそれが少量でも、由衣子は少しでも計画が成功する確率を上げたかった。
熟睡している事を確認し、由衣子は林をなんとなく裏返してうつ伏せにした。狭い中やるのは骨が折れたが、その方が溺死する確率がさらに高くなる気がしたのだ。ずしりと重く、彼女は舌打ちする。
――ぶくぶく肥えやがって。
ついでに林の顔をつま先で蹴った。それでも起きない。
由衣子はバッグからビニール手袋を取り出してはめ、林のスマホを操作する。幸いロックはかけられていない。水没してどうせダメになるのだろうが、アドレス帳の由衣子の情報とラインのやりとりを削除した。由衣子の情報は「ユイピー」という名前で登録されていた。
それから時刻を確認する。波の音は随分近くなっている。あと30分もすれば満潮となり、ここは完全に海中に没するだろう。林の体はテトラポッドのお陰で外にも流れ出ず、道からも見えない。由衣子はチューハイの中身を捨て缶をビニールに入れてバッグにしまった。忘れ物がないか砂の上を見回し、テトラポッドに脚を掛けてそっと周囲をうかがう。厚底サンダルのせいで足元が不安定だ。由衣子はそれを選んだ事を少し後悔した。
そして人がいない事を確かめ、テトラポッドをよじ登り帰途についた。念の為、2つ先のバス停まで歩いた。
薬によって得られる彼の睡眠の深さがどの程度か予測できないし、水の冷たさなどで起きてしまうかもしれない。万一林が途中で覚醒し、後で文句を言われた時は「揺すっても起きないからつまんなくなって先に帰っちゃいました」と拗ねてみせれば良い。
由衣子は満潮の時刻、睡眠薬の作用発現時間や持続時間などを計算し計画を立てた。林の退院時に彼の希望で処方された睡眠薬はもちろん入院中に服用していたもので、頓服で3回分だけだった。その後の通院では処方されていない。この量では耐性も出現しないし、そもそもそれは耐性のつきにくい薬剤だ。彼は入院中、それがよく効くと言っていた。
だから由衣子は当直中、薬剤棚からそれと同じ薬を取り出して、念のために2倍量飲ませようと2錠粉砕して分包し持ち帰った。粉にしないと錠剤の色や形で、いくら薬に興味が無さそうな林にもバレる恐れがあるからだ。味の特徴も無い薬だ。それは特に厳密に在庫管理もなされていない薬剤で、2錠くらい減っても誰も気がつかないだろうと思った。仮に管理されていたとしても、薬局のあのメンバーなら誰も気がつかない、或いは気づいても面倒なので指摘しないだろう。
海へ行った日とその翌日、由衣子のスマホに林からの連絡が入ることも、彼が由衣子の前に現れることもなかったので、彼女は計画の成功を確信した。そして翌々日、新聞の地方欄に「◯◯海岸40代男性溺死」という小さな記事を見つけ、満足そうに微笑んだ。正直言って、こんなにうまくいくとは思っていなかったのだ。失敗した時はまた別の計画を練るつもりだった。
由衣子は何年振りかでぐっすりと眠った。不思議と、捕まるという不安はなかった。
✳︎
薬剤室長は、由衣子渾身の壁ドン以来すっかり大人しくなった。由衣子は彼に仕事をどんどん振るようになった。「この持参薬の整理と、それが終わったら退院処方全部お願いしますね」などと満面の笑みで依頼すると、室長は黙って彼女に従った。当直にも率先して入るようになった。
林の死んだ後、由衣子は師長会に単身乗り込み、薬剤室の業務量を減らす事を訴えた。聞き入れてくれなければ私は今すぐにでも退職届を提出します、薬剤師3人でどうなりますかね、さぞ見ものでしょうね、彼女は師長や看護部長ににっこり微笑んでそう高らかに宣言した。怒らせてはいけない人物がキレている、師長たちはそう思った。一番の働き手である由衣子が抜けると薬局は明らかに回らない、薬局の仕事が遅れると病棟にも外来にも皺寄せが来ると看護部でも分かっていた。今はとりあえず薬剤室の当直を毎日ではなく何日かに一度にしようと調整をしているところだ。
影の室長は吉川だ、そう病棟では言われるようになった。人1人殺したという事実は彼女に自信と強さを与えた。
室長の変化は一時的なものかも知れない、と由衣子は思っていた。また前みたいに仕事中に平気でネットサーフィンするようになるかも知れない、でもそれでも良い。消せば良いだけだ。働かない奴がいて超忙しいのと、そいつがいなくてほんの少ーし忙しさが増すのとでは、精神的には後者が圧倒的に楽なのだ。
林を殺した時みたいに、計画通りに事が運ぶのは快感だった。
由衣子には転職という選択肢がない。以前は自分がここには必要だと思っていたからだが、現在では何故私の方が逃げなければならないのだ、職場が私に合わせるべきだ、と考えている。
――これから私は職場環境を完璧に整え、新人を招き徹底的に教育し、結婚してもしなくても定年まで居座ってやる。私はここに、理想の王国を築くのだ。気に入らない奴も出てくるしだろうし、現に今もたくさん存在する。どうしても耐えられなくなったら、林みたいに消すだけだ。
今日服薬指導に行く中に、前回の指導時に林のように由衣子に異様に食いついた患者がいた。彼も第二の林になるかも知れない。その時はその時だ、そう由衣子は思っていた。
――彼が私の人生の妨げとなった場合、次の舞台はどこにしよう。
由衣子は頭の中で具体的な計画を立て始めた。
――私にも楽しみが必要だ、……これくらいやって良いよね。
由衣子はまた片頰だけを上げて笑い、病室に入って行った。
ありがとうございました。