②
1ヶ月後。
由衣子は整形外科病棟のナースステーションで、これから服薬指導を行う患者たちのカルテを閲覧している。この病院は電子カルテを導入しておらず紙カルテだ。医師の難解な暗号みたいな文字を読むのにも由衣子はとっくに慣れていた。
側で看護師たちが雑談をしている。今日は「鬼軍曹」というあだ名の師長が非番らしく、また珍しい事に退院が先日重なって患者の数が減ったらしく、いつも殺伐としているナースステーション内は和やかな雰囲気だ。
「前にいた林さんって患者覚えてる? 前腕骨骨折の、ぽっちゃりしたおっさん」
古株の看護師が言う。
「よくセクハラしてた人?」
もう1人の看護師が答える。
「そう! 私、坐薬入れる時あの人にすごい事言われた……。生々しすぎてここじゃ言えないけど」
「その人がどうしたのよ」
「変死したんだって」
「は? 何で?」
側でパソコンを打っていた整形外科医が興味津々で会話に加わる。
「海で溺死したらしいですよ、変死って解剖するじゃないですか。睡眠薬の成分が出たんですって。結局自殺として処理されたらしいけど」
「実は殺されたんだったりして?」
整形外科医はどこか楽しそうだ。
「東2階のナースの鈴木さん、その人とマンションが一緒なんです。彼女から聞いたんですけど、林さんって非正規を転々としてて無職期間も長くて、親も持て余してたらしいですよ。よく親子ゲンカが聞こえてきたって」
古株の看護師はイキイキと話す。
「今流行りの『子供部屋おじさん』ってヤツ?」
もう1人の看護師が言う。
「多分そうなんじゃない? で、親も高齢だし、将来を悲観して死んだんじゃないかって噂」
「世も末だな」
整形外科医がまとめる様に言ったその時、ナースコールが鳴り響き雑談は中断した。いつもの慌ただしい空気が戻ってくる。
由衣子はカルテを熱心に読む振りをして、カルテに隠れて右の口角だけを上げるやり方で笑った。
――彼は自殺なんかではない、私は知っている、何故なら私が殺したからだ。
林に付きまとわれる前から、由衣子はとっくに限界を迎えていたのだ。
仕事に忙殺され、婚期を逃し、恋人も何年もいない、旅行にも行けない、そもそも休みが無い、2連休なんて夢のまた夢、実家にも帰れない、当直を週に2回、多い時は4回やって、当直明けも帰れず夜遅くまで立ちっぱなし、服薬指導の記録は深夜にやっと入力し、委員会を掛け持ちし、家でも結局徹夜で資料を作成し、経営陣からは点数点数とハッパをかけられ、不揃いで意味不明の持参薬を鑑別し、鳴り続ける電話で神経をすり減らし、注射薬調剤で体力を使い果たし、溜まっていく処方箋、終わらない棚卸し、基本給も安いまま、当直手当で稼いでいる様なもの、どう丁寧に対応しても看護師とは電話口でトラブルになり、医師は採用薬以外を今直ぐ使いたいと無茶を言い、患者は一瞬で薬を用意しろと窓口で怒鳴り、室長は全くやる気がなく、使えない先輩薬剤師のミスの尻拭いをし、後輩はちっとも仕事を覚えず、こんな朦朧とした頭だと調剤ミスで患者が死ぬんじゃ無いかとビクビクし、常に神経が尖っていた。
それでいて、どんなに真面目に頑張っても、世間では薬剤師はいらない、オワコンの職業、ただ座ってるだけなんでしょ、楽で良いよね、医者を気取るな、AIで充分、馬鹿でもできる、などとボロクソに言われるのだ。
もちろん別の意見もあるだろうし、誇りを持って仕事をしている同業者の方が圧倒的に多いだろう。しかし由衣子の耳にはネガティヴな意見ばかりが、しかも誇張されて入ってきた。彼女は生来、物事を悪い方へ捉える傾向にあった。
今やすっかり疎遠となった大学の同期達の勤める調剤薬局や他院やドラッグストアや保健所は、ホワイトとまでは言えないが人間関係も悪くないらしく、同僚同士で旅行に行ったりしていると何年も前のクラス会で聞いていた。羨ましかった。
先月たまたまスーパーで会ったかつての友人によると、第三の結婚・第二の出産ラッシュが起きているらしい。そのかつての友人もベビーカーを押していた。完全に出遅れた、そう由衣子は思った。焦燥感が彼女を襲った。
余所は知らないが、少なくともうちの病院では薬剤師は最底辺だ、由衣子はそう感じていた。とにかく人権がないのだ。
由衣子の職場の激務の理由は簡単だ。どんどん人が減っているのに、反対に業務量は増えているからだ。由衣子の就職時には10人いた薬剤師は、今や4人にまで減っていた。
ハローワークに常に出ている求人は何かあるのだと警戒され避けられるし、狭い薬剤師界では噂はあっというまに広まる。何も知らない新卒が入る事もあったが、定着しない。ひどいのになると2日でバックれた。
薬剤室長は他部署から頼まれれば愛想良く何でも引き受けた。薬剤室には何を言っても良い、そんな空気が院内にはあった。結局やるのは部下だ。室長は肩書きが好きだった。病院の外でも彼は薬剤師会の仕事を率先して受け持っているらしい、ドヤ顔で話すから由衣子は知っている。一方で、知人に聞いた彼の噂はというと「口ばっかりの怠け者」との事だ。
まともな同僚たちはとっくに皆んな退職してしまっていた。そして変人ばかりが残った。「吉川さんも辞めたら? 病気になるよ」などと言われたが、室長に「君がいなきゃ回らない」と懇願されると出来なかった。
働き方改革がなんだ、どこの次元の話だろうか、ほとんどの時間を職場で過ごしながら由衣子は季節感も失い、たまの休みにはただボーッとベッドの上で過ごす。そんな日々が何年も続いていた。
そんな時、室長は言ったのだ。
「ねぇ吉川さん、学会発表してみない?」
この人は何を言っているのか、と由衣子は異国語を聞くような思いで聞いていた。彼は簡易懸濁法がどうの、薬剤師会の理事の誰それがこう言ってて、だからそれをうちの病院も導入して、その結果をまとめて学会で発表してはどうか、などとしゃべり続けた。さらに、うちでもそろそろ抗がん剤のミキシングを始めようかと思ってるんだよね、と別の話も切り出した。背後で電話が鳴り響いても、聞こえていないみたいにひたすらしゃべっていた。
――この状況で、まだ仕事を増やすのか‼︎
由衣子は最後にはもう何も聞こえなくなって、すぐ横の壁をドン! と叩いた。でもやっぱり何も聞こえなくて、このままここにいては自分はおかしくなってしまうと手洗いに駆け込んだ。そこでやっと音が戻ってきた。胃酸が上がってきて吐き、しばらくその場にうずくまっていた。昼食を摂っていないので胃の中は空っぽだった。
自分で選んだ職業であり、自分で選んだ職場だ、それは分かっている。もっときつい仕事だってごまんとあるだろう。でもせめて週一回は休みが欲しいし、朝日と共に起き、陽が沈んだら眠る生活をしてみたかった。
彼女を支えているのは責任感とプライドだけだ。自分が戻らないと仕事が終わらない、その一心で重い腰を上げ薬剤室に戻り、室長の顔は見ずに黙々と働いた。
林が入院してきたのは、その少し前だ。彼が事あるごとに由衣子を病室に呼び出したせいで、ただでさえ山積みの仕事がさらに滞った。彼女は林が自分を気に入ったことをその場で分かっていた。
由衣子は父親くらいの年代の男に異様にモテる。林は48歳だ。一方、同年代にはあまりモテない。彼女は今年33歳になるが、学生に見られることもしょっちゅうだった。だから舐められる。彼女は自分を冷静に分析していた。
――つまり私は、丁度良い垢抜け具合なのだ。性格も大人しいし、こいつなら俺でもどうにか出来る、そんなレベルの女なのだ。
由衣子は自身を気にいる人間の気持ちが手に取るようにわかる。こう言ったら喜ぶ、あぁ言ったらもっと喜ぶ、このボタンを押したらあの扉が開く。服薬指導や配薬の度に中年男性からしつこい程のアプローチを受けたり、無駄話を延々と聞かされたりするうちに自然とそうなったのだ。
林はやがて退院し、病院の外でも由衣子を待ち伏せするようになる。ここまでする男は初めてだ。ただでさえ仕事でいっぱいいっぱいなのに、鬱陶しい彼の相手をするのは非常にしんどかった。
薬剤室長の意味不明の提案と、林のナプキン発言はほとんど同時に起きた。
そして彼女は遂に、そうだ、邪魔なモノは消せばいい、簡単な事だ、そう思うに至った。相談したり退職するという選択肢は無かった。
由衣子は林のナプキン発言の次に彼に会った時、「あなたの熱心さには負けました」と言ってアドレスと電話番号を教えた。その夜に早速、一緒に何処かへ行こうよとラインが送られて来た。由衣子の提案で、次の休みにバスに乗り海へ行く事になった。林は何か食べに行きたいと言ったが、由衣子がどうしても海がいいと言い張ったのだ。
翌日由衣子は朝礼で「今日はどうしても外せない用事があるので絶対に定時で帰ります」と宣言し、それでも1時間弱残業をして病院を出た。
何年振りかで服屋に行き、自分がこれまで着た事も無いしこれから先2度と買わないであろう服を購入した。白いショートパンツとキャミソール型のヒラヒラしたトップスと厚底のサンダルとつばの広い黒の帽子を選んだ。最近の流行りも全く知らないし30過ぎでこれは痛いのかもしれないが、目的は知り合いに会っても自分だと分からなくする事と目撃者の証言から由衣子へたどり着くのを防ぐ事なので問題はない。
それからドラッグストアで1日だけ髪色を変えられるヘアカラースプレーとアイシャドウとマスカラを買った。化粧品を最後に買ったのはいつだろう、と由衣子は考えたが思い出せなかった。
1日で結構な散財をしてしまったが、例えそれが望まない逢引の為だとしても、パァッとお金を使うのはなかなか気持ちが良かった。