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1/3

 整形外科病棟の病室で、林はまどろんでいた。彼は腕を骨折して入院していた。


 すると白衣の女が入って来た。彼女は林がうとうととしているのを見て、話しかけようかどうか迷っている。


 気配で林が目を覚まし、声を掛ける。

「何か用?」

女が答える。

「私はここの病棟の担当薬剤師の吉川です、今お時間よろしいですか?」

林は特にする事も無かったので

「別にいいよ」

とだけ言った。


 吉川という薬剤師は「では失礼します」と言って林に目線を合わせるように屈み込み、質問を始める。名札には「薬剤室 薬剤師 吉川由衣子」とある。

「お薬について説明に参りました。まず最初に、お薬でアレルギーが出たり副作用が起こったことは無いですか?」

看護師にも聞かれた事なので二度手間だったが林は答える。

「特に無いけど」


 次に由衣子は林に写真付きのプリントを渡した。薬の情報が書いてあるものだ。林は寝たままそれを受け取る。

「現在林さんに出されている薬です、まず頓用で痛み止めの坐薬が出てまして、これは坐薬なので挿入後すぐに効いてきます。1日2回まで、1回使ったら6時間は開けてください。看護師に言えば持ってきます」

林は特に興味も無かったので、ふぅんとただ聞いていた。由衣子は点滴スタンドに掛けられている点滴を指差して続ける。

「それからあれは抗生剤の点滴です。術後の化膿止めですね。朝晩2回、処方されています」


 林は由衣子の話を聞き流しながら、彼女を観察した。色白の地味な顔立ちだが良く見ると整っている。おそらく20代半ば。新人だろうか。先ほどの様子やしゃべり方から、押しに弱そうだと思った。


「何かご質問などございませんか?」

由衣子は言い、少し首を傾げた。

林は暇だったし彼女に興味が湧いたので、少し引きとめようと思った。

「吉川さん彼氏いんの?」

すると由衣子は笑った。笑うと八重歯が覗き、林はそれを見て愛嬌があるなと感じた。

「いるように見えないでしょう、モテないですから」

彼女は答え、

「では、また処方に変更などございましたら伺います」

と逃げるように立ち去った。


 林はまだ会話を続けていたかったので残念に思った。




✳︎




 翌日林は、病院の一階にある薬剤室前のロビーに腰掛けていた。点滴はもう取れている。窓口から昨日の女が見える。


 由衣子は無表情で点滴の詰まった段ボールを運んだり、外来患者に薬を渡したりしていた。頻繁に電話が鳴り、その度に作業が中断している。人が足りていないのだ。由衣子は時々、叩きつけるように電話を置いていた。


 午後3時を過ぎた頃。白衣を脱いだ由衣子が薬剤室のドアから出て来た。林が駆け寄る。

「吉川先生どこ行くの」

林は由衣子の名字に先生を付けて呼んだ。

「林さんこんにちは、今からお昼買いにコンビニ行くんです」

由衣子は笑って答える。林は彼女に名前を覚えてもらっていた事に満足していた。

「ふぅん、気をつけてね」

「ありがとうございます、では」

由衣子は昨日みたいに逃げるように走っていった。




✳︎




 さらに翌日。林の病室に再び由衣子がやって来た。


 新たに処方された睡眠薬の説明のためである。林は入院初日の夜から上手く眠れず、看護師に愚痴っていた。彼は眠剤の説明を薬剤師から聞きたい、出来れば今日がいいと看護師に頼んだので、早速担当の由衣子が服薬指導に訪れたのだ。


 由衣子はまた薬の写真付きの説明書を林に渡した。

「眠れないですか?」

林は受け取りながら尋ねる。

「やっぱり環境の変化かな、これよく効くの?」

「短時間タイプの睡眠導入剤です。服用後30分もすれば効いてきますが、人によって合う合わないが有りますからね。合わない時はおっしゃって下さい」

「うん、ありがとう。飲んでみる」

由衣子は副作用などについて説明し、

「よく眠れる事を祈っています。では、また何かありましたらおっしゃって下さい」

と、やっぱり逃げるように立ち去った。




✳︎




 翌日。またまた林は由衣子を呼んだ。薬の事で質問があるから薬剤師を呼んでくれと看護師に言うと、夕方に由衣子はやって来た。


「遅くなりすみません。昨日は良く眠れましたか?」

「うん、飲んだら朝までぐっすりだった」

「それは良かったです」

由衣子は、林が何故自分を呼んだのか不思議そうにしている。

「由衣子先生ね、俺今、看護師さんに坐薬入れてもらってるんだけど、自分で入れた事ないんだよね。家で困るといけないから挿入の練習しとこうと思ってね」

林は由衣子の事をナチュラルに下の名前で呼んだ。


「ちょっとどうやるかやって見せてよ、挿入が上手くなりたいからさ」

さすがに由衣子は困ったような顔をしている。

「良ければ、坐薬の入れ方の詳しい説明書が薬局にありますからお持ちしましょうか?」

彼女は林の返事も聞かず回れ右をして病室を出て行ってしまった。


 5分程経ち、由衣子が戻ってきた。息を切らし、頰が少し上気している。手には患者用の坐薬挿入法を説明した紙を持っている。それを林に示しながら、保管法なども交えて説明した。


 林は前と同じくあまり聞いていなかったが、ふんふんと一応相槌をうった。

「うん、挿入の仕方がよく分かった。今からでも早速挿入したいくらいだ」

説明が終わると彼は言った。挿入、挿入とうるさい。

「何か他にお聞きになりたい事はございますか?」

最後に由衣子が聞く。

「じゃ、先生の番号教えてよ」

「……申し訳ございません、決まりで患者さんに教えてはいけない事になっているんです」

本当に申し訳なさそうに由衣子は言う。それから壁の時計を見て、

「すみません、今日私当直なんです。そろそろ薬局に戻らないと」

と、さっさと病室から出て行った。


 林はその夜、明日はどういう口実で彼女を呼び出そうかと考えていた。




✳︎




 また翌日。今日も林は看護師に薬剤師を呼んでくれと頼んだ。それは午前中の事だ。


 しかし、待てど暮らせど由衣子は来ない。夕方の4時を回ったところで彼は薬局へ向かった。窓口から覗くと奥に由衣子が見える。置いてあるベルを鳴らすと、彼女は林に気づきハッとした表情を浮かべ、こちらへ駆け寄って来た。

「すみません、会議やら何やらでなかなか行けなくて……」

「いいよいいよ、忙しいんでしょ。今日から俺がこっちに来るから」

由衣子は困り顔になった。

「そんな訳には……。とりあえずそこに座りましょうか」

と、ロビーの椅子を指差す。


 2人並んで腰掛ける。

「何か困ったことでもありますか?」

と、由衣子。すると林はポケットから栄養ドリンクを取り出した。

「これ飲もうと思ったんだけど、睡眠薬と一緒に飲んでいいの? 飲み合わせとかあるでしょ」

由衣子は成分表を見ながら答える。

「これ、添加物にアルコールが入ってますね、薬との飲み合わせが悪いです。それに寝る前に飲んだらカフェインのせいで眠れなくなっちゃいますよ」

「なるほど一晩中ギンギンになっちゃうんだね、分かった。明日飲む。それより電話番号教えてよ」

林はサラリと凄まじくキモい事を言った。

「あの、決まりで出来ないんです。あんまり困らせないで下さいよ」

林は由衣子の困った顔をもっと見たいと思った。

「つまり、俺がここの患者じゃなくなったら教えてくれるって事?」

「……」

由衣子はどう答えようか考えている。その薬局から白衣の男が顔を覗かせた。

「吉川さん西4階から電話!」

彼が由衣子が患者と一緒なのも構わず叫ぶと、由衣子はこれ幸いと立ち上がった。

「慌ただしくてすみません、じゃ、また何かあったら伺います」

そう言って薬局に入って行った。林は夕食の時間までロビーから窓越しに由衣子を凝視していた。




✳︎




 結局林は残りの入院期間中、毎日由衣子につきまとった。


 もう薬の事で質問があるなどの口実は無しに、朝は薬局前で待ち伏せして話しかけ、ロビーから監視し、時々窓口で彼女を冷やかした。当直の日は夜遅くに窓口のベルを鳴らし仮眠を妨げたりもした。リハビリや処置の時間なのに部屋にいないので看護師も困っているようだった。


 由衣子は患者に対して無下にも出来ず、短時間だがいちいち相手をした。電話番号やアドレスを何度も尋ねられたが、頑として教えなかった。


 1週間少しで林は退院した。退院時の薬は薬剤室長が渡した。林が薬局に取りに来た時、由衣子は昼休憩に入っていて不在だったからだ。


 しかし林は由衣子がいないと聞き、わざと自分を避けたのだと思った。そしてもう使い方は知っているからと林は室長の手から薬袋を奪い取った。


 休憩が終わり由衣子は林の薬が無くなっているのを確認し、これで彼から解放されたとホッとした。しばらく彼は通院する事になるだろうが、少なくとも毎日毎時間付きまとわれる事は無くなる。


 ところがその日の午後3時頃、林から薬剤室に電話が掛かってきた。出たのは由衣子である。

「あぁ、由衣子せんせ? 痛み止めの数が足りないんだけど」

彼は名乗りもせずに単刀直入に言った。その処方箋は後輩の薬剤師が調剤し、由衣子自身が監査していたので内容は良く覚えていた。ダブルチェックをすり抜けたのだろうか。


「……申し訳ございません、5つ入っていませんでしたか?」

「4個しか無い。今から持ってきてくれない? 無いと困るから」

今日だけで5つも使用する訳はないので急がないはずだ。仕事が終わる目処が立っていないので、由衣子は明日では駄目かと聞いた。


 しかし林は譲らない。他の者でなく由衣子が、今すぐでなくても良いから必ず今日中に来いと息巻くのだ。由衣子は折れ、再び謝罪し電話を切った。薬を渡した室長に本人と数を確認したかを聞いたが、室長は良く覚えていなかった。


 由衣子は午後5時になると病院を出て、調べた住所に向かう。用が済むとまた病院に戻る予定だった。幸い徒歩で15分も歩けば着く場所だ。


 カルテによると家族構成は両親と3人暮らし。一人暮らしよりは危険性は少なそうだ。しかし絶対に玄関から先へ踏み入れては駄目だ、そう思いながら早足で向かう。本来ならば誰かと2人で行くべきなのだが、人手に余裕は無かった。


 林の住むマンションの部屋に着き呼び鈴を押すと、ドアが開きいきなりシャッター音がした。思わず目をつむる。スマホで写真を撮られたのだ。驚いているとさらにもう一度音がした。

「……何ですか」

やっとの事で聞くと、

「決まってるじゃない、オカズにするんだよ」

ドアにもたれるようにしてにやにやしながら林は言って、スマホをポケットにしまった。背後からはテレビの音が大きく聞こえてくる。親だろうか。


 今のは今まで生きてきた中で聞いたキモいセリフランキング堂々の第1位だ、と由衣子は思った。相手にしては負けだ、反応を楽しんでいるのだ、さっさと終わらせて帰ろうと決意する。

「痛み止めの坐薬、お持ちしました。申し訳ございませんでした」

薬の入った袋を差し出すが、何故か林は受け取らない。

「さっきよく探したら床に落ちてたから要らなくなった、ゴメンね」

まだにやにやしている。


 患者の思い違いというのは良くある事だった。しかし今回の場合はわざとだろう。由衣子をおびき寄せる為に芝居を打ったのだ。彼は由衣子をあえて怒らせて楽しんでいた。由衣子は腹が立ち一瞬固まったが、時間の無駄だと伸ばしていた腕を引っ込めようとした。するとその腕を林は掴んできた。

「せっかく来たんだからお茶でも飲んでけば?」

ギプス固定されているのは左手で、彼の利き腕の右手で思い切り掴まれると痛かった。思わず「痛っ」と声が出る。


 その声に林がすかさず反応する。

「痛いんならその坐薬、挿入してやろうか? 痛くしないからさ、俺多分上手いよ?」

由衣子の今まで生きてきた中で聞いたキモいセリフランキング第1位と第2位が出揃った。林にはセクハラの才能があるのかも知れない。


 由衣子は「結構です!」と思い切り彼の手を振りほどき、走ってマンションを後にした。




✳︎




 それからも林は由衣子につきまとった。用もないのに病院を訪れ、窓口から由衣子を冷やかしたり、帰りを執念深く待って後をつけたりした。由衣子の住むアパートの前で声を掛けられた事もある。完全に家を特定されていた。


 上司や警察に相談する事も考えた。しかし警察に行くと返って逆効果になるかもしれず、そもそも対応してくれるかも分からない。頼れる上司もいなかった。薬局の外の部署、例えば看護部長や事務長に相談する事も出来たが話すのが面倒だったのと、薬局を空けて仕事がどんどんたまるよりは相談せずに仕事をやる方を選んだ。由衣子は人に頼るのが苦手だったし、何でも話せる友人もいなかった。


 ある日由衣子がアパートを出るとまた林がいた。由衣子は無視して歩き出す。

「生理中だからって冷たいのな」

今日も今日とて彼はキレッキレのセクハラトークを開始した。彼はもうギプスも外れて通院も終わっていた。


 彼は由衣子の横を歩きながら、彼女の使用するナプキンのメーカーと商品名を口にした。彼女の買い物を見ていたのだ。


 ……彼女の中の何かが、プツン、とキレた瞬間だった。


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