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轟くような歓声で目を覚ました。
ひんやりとした床が頬に当たって気持ちが良い。頭には霞がかっているが無理やり身体を起こす。辺りを見渡すと頭だけでなく視界もぼやけていて白い布と白い床しか見えない。
歓声は止まず、むしろ段々と大きくなっている。
暫く辺りを見ていると頭も視界も明瞭になってきた。白い布と認識していたものは人が着ているローブだと認識を改めることができ、白い床には黒い線で文字のようなものや曲線が描かれている。
立ち上がると隣に女の子がいた。可愛らしく着飾っていて状況がわからないのか少し怯えている。
頭がキャパオーバーすると逆に冷静になれるらしく、渡良瀬は自身の置かれている状況を理解した。
…これって異世界転移ってやつか。
意識を失う前に起きた不思議な現象と、目を覚ましたら違う場所にいたこと。通常ではありえないことでも異世界だといえば説明がつく。
盛り上がっていく場とは反対に渡良瀬の頭は冷え切っていった。冷めた目でローブを着た人間の顔を見渡す。
驚愕の表情を浮かべる者、興奮して上気した顔の者、不快そうに顔を歪める者。多種多様な表情が目に入る。
見渡していると扉の付近にローブでは無く鎧を纏った男がつまらなそうに佇んでいた。ローブばかりいる中で鎧が1人しかいないというのは目立つだろうに誰も気にしていないのが逆に不自然だ。そう思いながら見詰めていると、鎧の男と視線がかち合った。何か言いたげに渡良瀬を見ている。
なんなんだいったい、渡良瀬は思った。
「何が起こってるの…?」
と、隣の女の子が声に出して呟いた。途端に場は水を打ったように静かになった。
次の瞬間先ほどよりも大きい歓声が沸き起こった。今度はローブたち全員が喜びに湧く。鎧の男は面白そうにこちらを眺めている。
心の中で彼女の言葉に同意していると顔が綺麗な男が一人輪の中へと入ってきた。片手をあげると歓声が止む。空気が重くなり全員固唾を飲んで言葉を発するのを待っている。
「聖女様、我らと共に参りましょう。あなたはあちらの者についていってください。」
隣の子はどうやら聖女らしい。よくある展開だけれど主役でなければ用はないようだ。言葉は丁寧だが虫を見るような目で一瞥した。
聖女ちゃんは渡良瀬を不安げにみていたがローブたちに周りを固められ部屋を出ていった。渡良瀬は帯剣した男達に周りを固められ部屋を出た。
渡良瀬が連れてこられたのは高級ホテルのスイートルームを思わせる部屋だった。
寝心地の良さそうな天蓋付きベッドや猫足のソファや毛足の長い絨毯。続く部屋には小さなテーブルと椅子が置いてある。
連れられて歩いた廊下は贅に贅を尽くしたものだった。壊したら一体いくらになるのだろうかと考えて直ぐにやめたのは先程のことだ。
「なにかご用事がございましたらサイドテーブルにあるベルを鳴らしてください。部屋付きのメイドが参ります。くれぐれもお1人で外出なされませんよう。」
慇懃無礼な態度が鼻つく。表情に面倒だと書いてあるから尚更鼻につく。渡良瀬の返事を待たぬ間に兵士は部屋から出ていった。
ようやく1人になった所で改めて部屋を見渡した。ベッド脇のサイドテーブルには言っていた通りベルが置いてある。あんなもので呼ぶことが出来るのか甚だ疑問に思えた。鳴らしてみようと手に取ったが、本当に呼んでしまったらいけないと鳴らさぬようにそっと元の位置に戻す。
外に出てみるか、と思うが早く扉に手をかけて押してみる。
…開かないじゃん。
うんともすんとも言わない扉を睨み兵士の怠そうな顔が浮かんで消えた。
苛立ちを抑えつつ今度は姿見の前に立つ。鏡に映るのは銭湯帰りなはずの自分の姿。この場所には浮いて見える。
ポケットを探ると500円玉と煙草、鈍色に光るオイルライターが入っていた。
煙草を箱から1本出して口に咥える。室内で吸うのは気が引けてバルコニーへ続く大きい窓に手をかけると今度はすんなりと開いて拍子抜けしてしまった。外に出ると辺りは暗いが随分と高い場所に部屋があるのが分かり逃げられないことを理解する。
そりゃ簡単に開くよな。
心中で呟いて煙草に火をつける。肺に入れた煙を吐き出すと視界が滲んだ。
「何が起こってんのかなぁ…。」
知らずうちに気を張っていたのが解けてきて口に出すと不安で胸がいっぱいになる。込み上げてくる嗚咽を下すため煙を肺に溜めた。
目元を拭うと無数の星が目に飛び込んでくる。不安とともに溜めた紫煙は吐き出すと闇に混じり見えなくなってゆく。
灰皿がないことに気がついて慌てていたらいつの間にか不安は誤魔化されていった。