第四章 9節 子猫のハピトロピー
第四章 12節が最終話。このお話を入れて、あと4節。
「ハピトロピー」という言葉を、説明なく使ってしまっていますけど、「幸せ一定の法則」を表す造語です。「ある時空を占める幸せの量は一定に保たれる」、という仮説です。
次の日、暗い表情のRを心配しながらも、母は先にマンションを出て駅に向かった。Rは、スクランブルエッグをのせたトーストを、無表情に咀嚼していた。腕組みをして窓の外を眺めるMが、心の中でRに語りかけた。
(R。お前の夢の中の記憶、読ませてもらった。俺に内緒で俺の過去をネットで調べたことを、俺は別に咎めないよ。むしろそういう慎重さに、俺は安心した。それで……。技を使った過去の書き換えの話だが……)
(うん……)
(お前は幼少の俺の夢に現れ、3つの警告をしてくれたんだな。俺の記憶に、確かにその3つの警告はあった。だが俺は、ただの夢だろうと思っていた。妹を救えなかったのは、そんな俺の甘さだ。Rのせいじゃない。竜のことは……。俺は警告というより導きだと受け取ってしまったかもしれない)
(導き……。私の警告が、Mさんに竜への興味を持たせちゃったんだね?)
(ああ……、たぶん。でも、Rの警告がなかったとして、俺の竜への興味が、生まれなかったかというとわからない。別の手段で俺は竜への興味を持ったかもしれないし、少なくとも俺は、あの古本屋で、竜についてのあの文献を確実に手にしたはずだ。それほど運命めいたものを、俺は感じたんだ。さらに言うとね。俺があれの封印を解かなくても、誰かが解いたはずだ。運命とはそういうものだと、俺は思う)
(そう……、かも。でも3つめは?)
(3つめ。自決はいけない、という警告だな。それは竜以上に俺の心に残っている。確かに俺は、未来から来た不思議な少女の言葉、自決なんてしないで、という言葉を覚えていた。その少女の真剣さに心を打たれ、逆に自決への甘美な空想をかきたてられた、気もしないでもない。R、正直に言うと、俺は自決への道を歩むことで、お前に再び会えると信じていたのかもしれない)
(え……?)
Rは咀嚼をやめ、窓際に立つMの背中を見た。Mはこちらに、背を向けたまま言った。
(いや……、違うな。夢の中で出会った少女が、ただの夢か、それを超えるものか、俺にはわからなかったが、誰かが俺を未来で待ってくれているのだと信じた。だからこそ俺は、狂ったような選択をも、自信を持って選び、生き、そして死ぬことが出来たんだと思う。R、お前は何もできなかったわけじゃない。少なくとも俺は、お前に救われたんだよ)
Mは振り返り、Rに向かって微笑んだ。
(うん……)
残ったトーストを口に放りこみ、コーヒーで流し込んだRは、時計を見ながらコートを着て水色のリュックを背負い、鍵を持って部屋を出た。
駐輪場を出て自転車に乗り、通学路を疾走する。ある角を曲がった所でRは少し先の十字路をちらっと見た。それは以前、子猫がバイクと接触して命を落とした場所だ。赤いダウンジャケットを着た女性が、死んだはずのその子猫を抱いて立っていた。Rが過去を変えたことで、その子猫は死んでないことになった。そう、過去は変えられたはずなのだ。だが……。
(あれ?)
(ん? どうした?)
(ちょっと待って)
Rは自転車を漕ぎ、その女性の近くで停め、下車して声をかけた。
「おはようございます」
「あ、おはようございます。あなた、近くの高校の人ね」
「ええ……。あの、その花は……」
女性は小さな白い花瓶に黄色い花を刺したものを、電柱の元に供えようとしていたのだ。
「これは……。この子の母猫がここで亡くなっちゃって、毎日お花を供えてあげてるの。亡くなった母猫のためでもあるんだけど、この付近は事故が起こった危険な場所ですよっていう、運転手へのサインに、この子のためにね」
女性は片手で抱いた子猫をRの方に向けた。子猫はRを見て、にゃあ、と鳴いた。
「そうなんですか……」
Rは花瓶の花に向かって手を合わせ、女性に挨拶をして通学ルートに戻った。
(Mさん、過去は変えられるけど、変えられないかもしれないね)
(あの子猫を救ったことで、その母猫の命を奪ってしまったかもしれない、ということだな)
(うん……。Mさんの言った通り、運命ってあるのかも……)
(あり得ない話ではないな。時間を水に例えるとしたら、川の流れをいくら手の平でせきとめても、水の流れはそのままだ。それはせきとめられた川、自らが、自己を修復した結果と言える。時間に置き換えると、もし過去を変えられたとしても、その直後には、ほとんど変らない形で歴史が保たれるように、この世の事象が自己修復されるのかもしれない)
(じゃあ、私の能力って……、無意味なのかな?)
(どうかな……。どうしても必要なもの大切なものがあって、それを護りたいとしたら、意味はあるんじゃないのかな? ただ、長い目でみれば、それは小石で、巨大な水の流れを変えようとするようなもので、あまり意味がない行為と、言えるのかもしれない。まあ、時間に自己修復機能があると仮定しての話だね)
(そうだね……。まだ時間がどんなものか、わからないね。もう少し実験してみないとね)
だがそうは言ったがRは、自分が二度と、あの能力を使うことはないだろうと考えていた。ある物を救うことによって、別の何かを失うことなど、あってはならないのだ。そういえば昨日、夢に出てきたヒロインらしき女は何だったのか……。彼女はRに、父親の死という過去を書きかえさせようとしていたが……、もし自分がそうしていたら、時間は父の代わりに、誰の命を要求していただろう? 母親か、それとも私自身の命か……。あの人は私に何をさせたかったのか……。Rはそんなことを考えながら、黙々と自転車を漕いだ。




