第四章 8節 水底の竜
Rは冷たい水に身を震わせた。この水の中では、急速に体力が奪われる。早く元の世界に戻らないと、とは思うけれども、その方法がわからないし、このあとMがどのような人生を歩んでいくかが気がかりである。Rには、Mの妹を救うことは出来なかったが、残る2つの願いはどうなったのか。
ひとつ、妹を守る。
ふたつ、竜には気をつける。
みっつ、自決をしない。
次に起こるのは竜との接触。「竜」とMとの関係は、Rにはまだよくわかってはいなかったが、Mが死の数年前に、「竜」となんらかの接触を行ったことは、恐らく確かだろう。
(Mさんは古本屋で、竜の絵が描かれた古文書を買って、それに触れたことで竜のビジョンと竜の存在を知ったと言っていた。私がその古本屋さんに訪れて、Mさんよりも前にその古文書を買って、処分してしまえば、竜の存在に、Mさんが触れることもないだろう。そしたらMさんの、その後の人生も、変る気がする。でも、私が過去に触れることが出来るのは、誰かの夢の中だけだ。あ……、そうだ……。Mさんがその古本屋に訪れる前に、誰かの夢に入りこんで、その古文書を、処分してもらえれば……。だめ……、そんなこと、きっと不可能だ。Mさんの過去の夢に触れることでさえ、こんなに難しいのに、Mさんの訪れるはずの本屋に詳しい、見知らぬ誰かの夢に入り込むなんて、できるわけがない……)
Rは軽い絶望を感じた。体力の消耗が、さらにRを気弱にさせた。
(Mさん、私どうしたらいい? 私には、何もできないの? Mさん、女神さん、どうか私を助けてください)
その時……。Rは何かの視線を感じた。誰かが自分を見ている。誰が、どこから? Rは気付いた。水の奥深く。暗い底で、何かがぼんやりと光っている。それは巨大な身体を持つ竜の、目だった。
(太古の竜!!)
水底で身体を弛緩させたまま、Rをじっと見つめる竜からは、Rへの敵意は感じられない。Rは身をくるっと回転させたあと、竜にゆっくりと近づいていった。水底はさらに冷たく、Rの体力を奪う。だが竜に近づくにつれてRは心が癒されていくのを感じた。それは深い原生林や、滝の近くで感じる厳粛な雰囲気と似ていた。Rの心に、ぽかぽかと何かが広がった。
(竜……。あなたなぜここに? もしかして、これは私のただの夢なの?)
近づくにつれてその巨大な姿がRを圧倒する。若干の恐れを感じながらもRは竜の眉間の近くに漂い、竜の顔を眺めた。蛇のようにするどいその黄色い目は、射貫くようにRを見据えたが、やはりそこには、敵意はなかった。竜はぱちっと瞬きをした。Rの心に、その意志が伝わった。
(ああ、これは夢であるが、夢でないとも言える。言ってしまえば、この世のすべての事象は夢なのだ。そのことをもうお前は、感じているはずだ。だからここに来れたのだろう?)
(そう、なの?)
(そうだ)
ぱちぱち、と再び竜が瞬きをする。
(Rよ。お前は太古の地球を訪れた、私に会いに来てくれたな。だが、あれもただの夢。お前の認識の産物でしかないのだ。私はどこにでもいる。だから別に、太古を訪れる必要もなかったのだ。それで……、ひとつお前に、伝えたいことがあるのだ)
(何?)
(私はね、時間そのものなんだ。宇宙そのもの、物質そのもの、と言ってもいい。私という存在は、確固たるもので、決して変えることは出来ない。例え川を流れる水をその手ですくい上げたとしても、いつかその水は、海に至る。それは変えられない。私という存在は、そういうものなんだよ。わかるかな?)
Rは黙って竜の目を見つめた。正直言うと、わからなかった。竜は優しく言った。
(私はね、お前とは違う。お前はお前が望むように、自分を変えられるが、私は違うんだ。私は変れないし、変る必要がないんだ。お前はただ、お前だけのためにその力を使えばいい。言いたかったのは、それだけだ)
竜が目を閉じ、その身体をさらに深みへと沈めていく。
(待って……。私には何もできないの? できることはないの?)
(ない)
Rは自分の身体が急に浮上するのを感じた。目を開くと暗い部屋で天井を見上げていた。Mが自分を心配そうに見おろしていた。
「R、大丈夫か……」
「Mさん……。ごめんね、私……」
「大丈夫だ。心配ない。今はゆっくり休むことだ」
「うん……」
Rは目を閉じた。




