第四章 7節 銀色の空と、青い雪の下で
時の流れを下るRは、周囲に目を向ける。きらきらと光る波や水筋、荒々しい水の流れによって生じる気泡に、何かの映像が映っている。ゆらめくそれらに目を凝らすと、それは波間に繰り広げられる誰かの人生が、反射し、屈折してRの目に届いたものだった。水のうねりが、光る泡が、また水中にゆらめく水草などがすべて、誰かを、あるいは何かの事象を暗示しており、それらが合わさって作られるこの水中の景色それ自体もまた時間、あるいは人類の歴史の一部であった。
(こんなにも多くの人が、こんなにも多くの流れが、地球の、人間の歴史なんだ)
Rは暗い水中から周囲を見渡し、ごうごうと流れる水の流量と、この河らしきものの巨大さに圧倒され、気が遠くなりそうになった。水面は明るく激しく、そして水中はどんよりとしていて薄暗く、底も見えない。時折Rと同じような、歴史を行き来していると思われる銀色の鮎が横切った。
上方に、きらっと光る波を見てRはそちらに近寄った。細い波の間をのぞくと、そこには団扇を左手に持ち、机に向かってあぐらを書き、すばやく万年筆をあやつっているMの姿が見えた。窓の外は真っ暗で、机に置かれた電燈だけを頼りに、Mは原稿を書いていた。
(Mさん!!)
Rの呼び声に気づいたのか、波間に屈折して歪むMの顔がこちらを向いた。その眼には、いつもの輝きがあった。その顔は若く、Rと同じ年か少し上くらいに見えた。
「誰だ!!」
(Mさん、わかるんだね、私だよ、Rだよ!!)
だがMは首をかしげて、再び机に向かってしまった。Rは水の流れに、何度か体当たりをしてみたが変化はない。接触するとその映像はかき消えて、Rの銀色の身体はすり抜けてしまう。水に逆らって泳ぎ、元の場所にもどると、また波間に屈折した映像が見えた。それは万年筆を持つMの姿だ。その繰り返しだった。せめてMの妹さんが助かったかどうかだけでも知れればと、Rは部屋の中の、見れる範囲を観察したが、何の情報も得られなかった。
(これが夢なら、入り込めてMさんとお話が出来るのに……)
その場にとどまっているのに疲れてきたので、Rはそれ以上の観察をあきらめ、流れに身をまかせた。他にもMさんが登場する映像が、見れるかもしれない。それはきっと水流の上澄みの方にあって、きらきら光っているはずだ。Rはゆっくりと下流に流されながら、そのような「変化」を探した。
(あった!)
薄い雲の切れ間から差す、薄明光線のような、淡いきらめきが、頭上の一点から射していた。きっとMだ。Rはその一点に向かって泳いだ。細い隙間から覗くと、銀色の風景の中で、学生らしきMが、頭上を見上げて立っている映像が見えた。すべてがモノクロの世界。これはきっと夢。Mさんの夢だ。
「Mさん!!」
驚いたMが、Rの方を向いた。RはすでにMの夢の中に入り込み、平成の美少女(?)に、その姿を変えていた。
「誰だ、お前……。俺の読者、ではないよな? どこかで会ったことが?」
Rは、にこっと微笑んでMが自分のことを思い出すのを待った。だがMは、Rの答えを待っている。仕方なくRは答えた。
「うん、私と**君は、あったことあるよね、子供の頃に、同じ夢の中で」
「夢? これが夢だと」
Mは再び、銀色の空を仰いだ。はらはらと青く輝く雪が舞い降りてきた。
「もしこれが夢なら……」Mは言った。
「僕はきっと、今日の昼間親友に傷つけられたことを気にしているのだろう」
「親友?」
「ああ。君は僕の親友が今日僕から奪った女性なのか。今日は僕の最愛の女性が、彼によって奪われた日だ。君はその、最愛の女性のメタファーではないのかな? ここで感傷にふける悲しく無様なこの僕を、残酷にも笑いに来たのではないのかな?」
「違う。違うよMさん。私は知りたいの、あなたの妹さんは、今どうなったの? あなたの最愛の女性って、あなたの妹さんのこと?」
Mは目を見開き、口をぽかんとあけて、Rをにらみつけた。その唇が、怒りに震えていた。
「お前は誰だ。僕に何を聞きたいって? 僕の妹は死んだ。何年も前にね!!」
Rはそれを聞いて、しばらく黙っていたが、やがて肩を落として言った。
「そうだったんだね……。ごめんねMさん……。あなたの妹さんを救いたかったのに……。私、失敗しちゃったんだね。ごめんね」
涙がぽろっとこぼれ、Rはそれを、制服の袖で拭った。MはRに歩み寄り、Rの肩に手をかけた。
「こちらこそすまない。あなたが誰かはわからないが、妹は死んだ。でも死の間際に、僕にありがとうと言ってくれた。それに、妹の魂は、今も僕の中に生きているから、心配しないでもいい」
Rは何も言えず、ただただ涙をぬぐった。どうしてこうなったんだろう、Mさん、ごめんね、ごめんね。MはRの肩を、ぽん、と叩いて言った。
「あなたがもし、歴史を変えようとしていたとする。仮にあなたの望むように、歴史が変わったとする」
はっとしてRは、Mを見上げた。それはMが、「■■の●」第一巻に書いていた言葉だった。そうだ、あの言葉はここで生まれたのだ。この夢の中で。Rとの会話で……。Mはきらきらと輝く薄明光線を背に、立ち上がり、空を見上げた。
「ありがとう。僕は思い出したよ、あなたとの約束を。僕は妹を救えなかった。それは僕のせいだ。僕は二度とこの夢を、あなたのことを忘れないように、夢日記というのを、つけていこうと思う。Rさん、きっとまた会えますよね」
Mはにこっと笑った。その姿が、白い光に包まれ始めた。夢の世界の崩壊の兆しだった。
「待って! 待ってMさん!!」
RはMの黒いコートの裾を掴もうとした。だがその手は、空を切った。




