第四章 6節 少年との約束
「**」、それが少年の名前だった。後に天才作家、Mとして知られるようになる彼であったが、幼少の頃には身体の弱い、「あおびょうたん」であった。彼は今日も、祖母の部屋で折り紙を折ったり、おままごとをしたりして遊んでいた。
寝そべってお絵描きをしていた彼はふと、目をあげて障子を見上げた。その向こうで何かが、ぎらっぎらっと、何度か光ったのだ。
「何だ?」
**は立ち上がり、おそるおそる障子を開けた。狭い庭には、黒く短いスカートをはいた女性が、ひっくり返っていた。女性は、「痛あい」、と叫んでいる。**は障子をゆっくりと元のように閉め、5mmほどあいたその隙間から、女性を観察した。彼の心は、ときめいていた。
「あの女性、一体誰だ? おかしな服。それにさっきの光は?」
見ていると、女性はスカートを両手で叩きながら立ち上がった。驚いたことに、その女の目は狂気をはらんだかのように、ぎらぎらと赤く光っている。その目が前触れなく、少年の目を捉えた。少年は、あっっと叫んで障子から手を離し、祖母の部屋から居間に向かって走り出した。居間には父と、母がいるはずだった。だがたどり着いた居間は薄暗く、誰もいなかった。
「おばあちゃん! おばあちゃん!!」
**は、祖母を呼びながら家の中を走った。がらっと開いた板戸の向うに、さっきの女が現れ、**は、ひっと悲鳴をあげた。
「Mさん? Mさんよね? あんまり逃げないでね、急いでるんだから!」
「だ、だれ? Mさんなんて知らないよ!」
女の目が見ひらかれる。**は女を睨んだ。その目に宿る光りを見て、女の顔が少しやわらいだ。
「その眼の光……。やっぱりMさんね! よかった」
「お前、誰だ!」
「私はR。あなたに会うために、未来から来たの。未来ってわかる?」
**は、ゆっくりと首を横に振った。
「未来っていうのはね、ずーっとずーっと遠い世界。何日も何十日も、何年も何十年も経って、あなたはもう、大人になっていて、有名な人になって、もっともっと時間が経って、あなたも死んじゃって、そんなずーっとずーっと時間が経った、遠い遠い世界から、私は来ました。初めまして、子供の頃のMさん」
Rは手を少年の前に差し出した。少年は一瞬、怪訝な表情をしたが、Rの手を掴み、力強く握手をした。
「僕は**。あなたは遠い所から僕に会いに来たのかい? ご苦労だったね。まあ、ゆっくりしていくといいよ。お茶でも飲むかい?」
精一杯強がる少年の、不自然なセリフにくすっと笑いながら、Rは少年の頭に手を置いて言った。
「うん、ありがとう。**くんは、おりこうさんだね。お茶はいいから、少しお姉さんとお話させてくれる?」
(どこがお姉さんだ、どう見てもおばさんじゃないか)
少年の心の声が聞こえたが、Rは聞こえないふりをした。こくこく、とうなずく少年を見ながら、Rはひきつった笑顔を浮かべた。さてと、どうしようかな? 私はあなたに、何を話せばいい? ねえ、Mさん。心の中でそう語りかけるR。少年Mは何も答えず、眉間に皺を寄せてRを見つめるばかりだった。
少年と手を離したRは、次の瞬間、自分が薄暗い部屋の、赤く火のおこった火鉢の前の、座布団に座っていることを認識した。がら、と板戸が開いて、少年がお茶を運んできた。
「どうぞ」
「ありがと」
Rは温かいお茶をふくみながら思う。これもすべて夢。でも過去を書きかえることの出来る、重要な夢。私は現代のRの身体の中で夢を見ながら、過去のMさんの夢に入り込んでいるんだ。過去の人と未来の人は、こうして夢の中で会うことが出来る。そうして未来の人は、過去の人の意識を、変えることが出来る。そういえばさっき私を変えようとしていたヒロインさんも、未来からきた誰かなのだろうか? 「未来人」、というSF的な響きに少しうっとりした後、Rは世界に意識を戻す。この少年の姿をした、美しく利発そうで青瓢箪なMさんにとっては、私自身が未来人なんだと考え、Rは身を引き締めた。お茶をお盆の上に置き、Rは少年を見た。少年はやはり険しい表情で、Rを見つめている。私にはこの少年の、……未来のMさんのために、何ができるのだろう?
「**君?」
「はい」
「静かでいいおうちだね。**くんは、こんなすごいおうちに住んでいたんだね」
「あなたは、Rさんだっけ? 遠い遠い世界から来た人?」
「そう、私はR。えーと……」
Rは何を話そうかと、少し考えたがすぐには思いつかない。自分は未来にすむ美少女(?)Rで、その未来の夢の中で怪しい女に洗脳されそうになり危険を感じて慌てて「技」を使って過去にさかのぼり、暗い時の流れの中をいくつかの銀色の魚影とともに進んでたどりついた所がこの家の庭だった、というのが事実なのだけれど、そのまま説明したとして、この少年Mが理解してくれるのだろう? また、もしかしてその説明をしている間に、現実の**君が目を醒まし、この世界は真っ白に崩壊してしまうのかもしれない。そうなったら私は、どうなるのだろう。この世界とともに消滅してしまうのか。それとも……。いずれにせよ、時間はあまりかけられない。Rは口を開いた。
「**君。私はね、あなたにすごく大切なことを伝えに来たの。いい? ちゃんと覚えてね。そうしてあなたは、未来を変えるの。ひとつ、あなたの妹を、しっかりと守りなさい。ふたつ、竜に気をつけて。みっつ、あなた自身を大切にして。特に、自決なんて絶対にしないで! いい?」
「自決? ……、僕が?」
あ……、しまった、とRは思った。純真な**君に、わざわざ自決というキーワードを与えなくてもよかったのかもしれない。逆にそのキーワードがMさんの自決への興味を生み、導いてしまうかもしれないことにRは気付いた。だとしたら、私はなんて軽率で怖ろしいことをしてしまったのか……。
「ち、違うの……。みっつめは間違い。ひとつめとふたつめだけでいいの。わかった?」
「うん。覚えた。僕は未来を変える。ひとつ、僕の妹を、しっかりと守ること。ふたつ、竜には気をつける」
「そう。**君は偉いね」
「みっつ、僕自身を大切にすること。特に、自決なんて絶対にしない」
「……」
きみたけは、真っ直ぐな目でRを見た。Rはうろたえて目をそらしてしまった。その時唐突に、次のような声が、この世界に響き渡った。
「**さん、**さあん、どこにいらっしゃるのかしら。おちゃがしの用意が、できましたよぉ」
**がその声に反応した。「あ、おばあちゃん!」
Rは瞬時に悟った。この時代の現実で、Mさんのお婆ちゃんがMさんを呼んでいるのだ。だとしたらこの世界は間もなく崩壊する。だとしたら、Mさんを自決に追い込んだのは、もしかしたらR自身である、ということになってしまうのではないのか!
「そんなことさせない! 鮎の奔流!」
Rは両手を顔を前に突出した。それぞれ親指、人差し指、中指の中央に、5mmほどの透明なガラス玉のような物体が現れ、内部に呪文のようなオレンジ色の記号が刻まれていく。
「**君が、私の3つ目の伝言を、忘れますように! **君が、一生自分を大切にしますように! 一生幸せに暮らしますように。**君が、絶対に絶対に……」
(あ……)
Rが最後の言葉を言い終わる前に、暗かった部屋は真っ白に包まれた。**の姿が消えた。Rは必死に、続きの言葉を心の中で唱えた。
(絶対に絶対に、自決なんて、自決なんてしませんように……)
悲しみにつつまれながら、その世界から排除されていくRの心に、**の心の声がかすかに届いた。
(Rさんありがとう。僕、未来を変えてみるよ。遠い遠い世界で、また僕とRさんは会えるんだね。そのときまでさようなら)
Rの放った「卵」が発動し、真っ白な空間が淡いオレンジ色に染まった。その卵に刻まれた記号には、Rの最後の思いは含まれていたのかいなかったのか。Rは再び、暗い水底を泳ぐ銀色の鮎となり、R自身の「現実」へと時間を下った。Rは一心に、こう念じていた。
(届いて、私の思い。がんばってね、Mさん)
突然ですけど、この4章で、完結の予定です。
元々は5章構成だったんですけど、4章で余計なシーンを大幅に削り取ってしまったせいで、4章構成に、しかもあと数話で完結しそうです。読みやすく、趣のある展開になったので、これで良し。
ただし、「Mの妹」の話が、突然でてきた形になってしまいました。Mの妹のエピソードは、「竜の秘密」の節で、女神が「竜=Mである」と推理する所で、その根拠として延々と語られていたのですが、ばっさり削除しちゃったのでした(汗
どう直そうかと少し考えたのですけど、いい案が浮かばなかったので、ひとまずこの唐突な感じを、現時点の最善案とさせていただくことにしました。
あと、「**」、という伏字が少し見苦しい。なんとかしたい所。




