第四章 5節 ヒロインvsヒロイン
その頃Rは、夢の中で小説「■■の●」のヒロインと、対峙せんとしていた。その場所は四巻のラストシーン、主人公がヒロインと再会した部屋だ。そこでRはヒロインの登場を待っていた。部屋の奥で、かすかな衣擦れの音がして、唐紙が開き、ヒロインが現れた。立ち上がろうとしたRを、ヒロインが制した。
「Rさんですね。どうぞお座りください」
ヒロインは静かにそう言って、自らも用意されていた座布団に座った。庭に面する閉じられた障子が輝いている。外が少し暗い感じなのは雨か雪のせいなのか。そういえば少し肌寒い気もする、灯りもないその部屋の中で、凜とした目をRに向けるヒロイン。その口が開かれる。
「あなたは本当に、Mさんの書いたこの小説を改竄しに来たのですね。それは、何のために? 誰のために?」
「え……」
「もし誰かのためにだとしたら、それは間違っています。Mさんのため、わたくしのため、小説の主人公のため。そう思っているのだとしたら、むしろ何もせず、何にも触れず、そっとしておいて欲しいのです。それがわたくし達のため」
「あなた達……、Mさんも、そちら側の人なんだね」
「さあ……? そちらもこちらも、わたくしから見れば区別など無いも同然ですけれども。すべては唯識。心のなぜる業」
「あなたは何度も、多くの人を冷たく突き放した。そのことで、後悔とかしなかった?」
ヒロインは再びRを見て、微笑みながら言った。
「ええ、ちっとも。わたくしの皆様との別れは、もう終わっていますから。わたくしのその記憶や思いは、宝石のようにかためられて、私の心の奥底に仕舞われたのです。だからその後の皆様は、いわば抜け殻……。ただそれでもあの方の死を、残念には思っておりますよ」
「残念……、それだけ?」
「ええ。それがわたくしの役目ですから。この部屋は、すべての魂が行き着く海。そしてわたくしは、その海を静かに見下ろす月なのです。それがMさんの決めたこと。Rさん、あなたは過去にさかのぼり、物語を書き換える特殊な技を持っているようですけれど、この物語を書き直すには及びません。そんなことをしたら、今ある世界が大きく変わり、あなたもMさんも、わたくしもここには存在できなくなるのです。そんなことよりも……」
ヒロインはそこで言葉を止め、試すような目でRをじっと見つめた。口元には、残酷な冷笑が浮かんでいた。ヒロインは口を開いた。
「そんなことよりも、Rさん? あなたはもっと自分のために、その技を使うべきなのでは? 例えばあなたのお父様を生き返らせ、あなた自身の、暗くて思い出したくもない人生を、書きかえることを考えるべきでは?」
「え?!」
(お父さん……?)
「あなたの記憶からすっかり消し去られた、おぞましい過去の出来事。あなた自身の手でそれらを書きかえることが、可能ではないのですか? あなたにはそれが、出来るのですよ?」
Rは違和感を覚えた。唯識を学び、教えるはずのあの小説のヒロインが、このようなことを言うはずはない。この女は誰だ? 女神か? それとも悪魔か何か?
Rは無言で、ヒロインらしき女を、にらみつけた。ヒロインは意外そうな顔をして、Rに尋ねた。
「お父様に興味はないの? 会いたくはないの?」
Rはニヤ、と笑った。Rの顔を、ピシ……、という音とともに、赤い亀裂が走った。Rのストレスからくる破壊的欲求が、地獄門を開こうとしているのだ。ヒロインらしき女は、おびえの表情を浮かべた。Rはそれを見てククク、と笑った。
(だめだ……、私ではこの娘を押さえられない。やっぱりこうするしかなかった……)
「鮎の奔流!」ヒロインはそう叫び、両手の親指、人差し指、中指を三又の矛のように立て、顔の横で天を指さした。その目は閉じられている。
(え……、何を……)
Rは驚いた。「鮎の奔流」、恐らくRが会得したあの技を、この女は使おうとしているのだ。だとすればこの女の「意識の卵」がここに産み落とされ、それに従いRはこの女に操作されてしまうのだろうか。
(嫌だ……。お父さんには会いたい。でも嫌だ。お父さんがもし生きていたら、お母さんは、今とは違う人になってしまうかもしれない。そんなのは絶対に、嫌だ!!)
「鮎の奔流!!」
Rもそう叫び、両手を上げた。その手はもうカニのハサミのようではなく、頭の横に突き出された、2本の三又の矛だった。その2つの矛の間に青い稲妻が走る。そう、現実を変えたいという思いが生むエネルギーは、その思いの強さに従い増幅され巨大化される。Rの思いは、ヒロインらしき女の思いを、大きく上回っていた。ヒロインの技が発動する前に、Rの技がエネルギーを結集し、その効果を発動した。空間がねじれ、R以外の景色がぐにゃりと歪んでいく……。
「な!! これは!!」
ヒロインらしき女の目が恐怖に見開かれた。Rの赤く光る眼が、その視界に映った。Rは唇の片方に、ひきつるような笑いを浮かべていた。ヒロインらしき女の全身に、鳥肌が立った。
(R……?)
その時、ベランダで女神と一緒にいたMが振り返った。就寝中のはずのRの精神に、何か異常な気配を感じたからだ。右手をガラスにさしのべ、すり抜ける。暗い部屋に入り、Rの部屋に向かうM。女神が、同様に異様な空気に身を震わせながら、Mの後に従う。
(M……、これは……? この気配は……、誰?)
(わからない……。Rは、どこだ……?)
Rの部屋に入ると、暗い部屋でRが布団の上に座っていた。いや、それは「Rらしき者」だった。驚愕するMに代わって、女神が言った。
「あなたは誰? Rちゃんじゃないわよね?」
Rらしき女は、Mと女神を見つめた後、哀しそうな目で言った。
「私は未来から来た……。この世界のRは、過去に戻ってしまった。私は失敗してしまった……」
女の姿は白く半透明になり、ガラスの破片のように砕けた。空気は正常を取り戻した。布団でRが軽い寝息を立てていた。




