第一章 3節 病院
「MとRの物語」第一章 3節 病院
(あれ? 救急車のサイレンが聞こえる。ここは……)
私が目をあけると、そこは見覚えのない部屋だった。私はベッドに横たわっていた。左腕には、点滴がされていた。病院だ。誰かが私に話しかける。母だ。
「気がついたね、よかった。大丈夫?」
「私、なんでここに?」
「ヤキソバを食べて、文庫本を読んでいて、お茶を飲んで。そのあと大きな音がして、あなたが椅子から落ちて倒れていて、全然起きないから心配で、救急車を呼んだの。びっくりしたけど、何もなくてよかった」
「救急車? お金かかっちゃうでしょ」
「救急車を呼ぶのは無料よ。大丈夫。なんでもない時に救急車を呼ぶと、お金を取られることもあるみたいだけどね」
「そうなんだ。ヤキソバが悪かったのかな、ごめんね」
母はぷっと噴出した。普段はまじめな母だけど、笑うとすごくかわいい。
「ヤキソバがそんなにすぐに痛むわけないでしょ。大丈夫大丈夫」
ベッドの脇で、椅子に座っていた母は、そう言って立ちあがった。
「帰るの?」
「あなたは明日精密検査があるから、一晩ここにお泊り。心配しないで、念のためだから、大丈夫よ」
「うん……」
明日の朝また来ると言って、母は病室を出ていった。何時か聞き忘れちゃったので時間を知りたくて、ベッドの近くをあれこれ探っていたら、ナースコールのボタンを押しちゃったみたいで、女性の看護師さんがやってきた。今何時ですかと聞いたら2時を少し回った所と答えた。2時にナースコールなんて迷惑だろうにと思ったけど、看護師さんは別に、ナースコールを押したから来たわけではなく、母から私の意識が戻ったことを聞いて、やってきたそうだったので、ほっとした。
「倒れたときのことって、何か覚えてますか?」と、看護師が言った。
「いえ……、あ、ちょっと待ってください、思い出してみます」
母は私が、小説を読んでいて倒れたと言っていた。その記憶を思い出してみる。確かその小説は、「〇の□」というタイトルだった。戦争という言葉がでてきて、古いお話かな、と思ったけど案の定で、それは明治時代を描いた小説だった。何度もあくびをしながら読み進めると、黒い犬が登場して、ちょっとだけ興味をひかれて、そんなシーンに興味をひかれる自分って、少しおかしいのかな、と思いながら、麦茶を飲んだのだった。
(そうだ……、そのあと強い耳鳴りがして、男が見えた。笑っていた。軍服のようなものを着ていた。 まるでナチス・ドイツの制服のような。よく知らないけど。そのあと衝撃が……。あれは……、夢なの? 幻なの?)
「椅子に座って、小説を読んでいました。麦茶を飲んで、その後耳鳴りがして、何か変な映像が見えて、そのあと、意識を失った気がします」
「耳なり……、変な映像……。映像って?」
「うーん……、すみません、よく覚えてません」
いきなりナチス・ドイツが、とか言うと、頭がおかしいと思われるかもしれない。小説に、日露戦争のことがかかれていたけど、その影響かもしれない。でも、今そこまで説明するのは、面倒だった。必要だったら明日はなそう。そう思ってだまっていた。
「ありがとうございます。あとはまた明日お願いしますね。夜遅いのに、お邪魔しちゃってすみません。ゆっくりお休みください」
看護師はそう言って、点滴台を押しながら、部屋から出ていった。私はしばらく、暗い天井を見つめていたけど、明日に備えて寝ようと、目を閉じた。1分……、2分……、そうとう長い間、そうしていたけど眠れない。枕が悪いのかな、それとも、外が静かすぎる? そういえば、窓の外はどういう景色だろう。家に近い病院なのだとしたら、やっぱり東京近辺の、どこかだろうか。私は起き上がって、確認してみようと目を開けた。
そのとき……、私はぎょっとした。何かの黒い影が、私の顔をじっとのぞきこんでいたからだ。暗闇の中で、その影の眼だけが、白く光っていた。
(誰?)
突然のことに、悲鳴を上げることもできず、私はそう心の中で、必死に問いかけた。
(俺か? 俺はMだ。小説家のM。お前は俺のこと、知ってるだろう?)
(いいえ、知りません! あなたのことなんて、Mさんなんて)
私はその男の視線から逃れようと、少しずつ身体を、ベッドの上でずらした。でも、その男の視線は、私の顔をとらえて離さなかった。
(さっきまで読んでただろ、俺の小説。「〇の□」。その作者のMだよ!)
(あ!!)
そういえば、聞いたことがあった。「〇の□」の作者のことを。母からだったか、それとも、友達からだったかは、忘れたけど、「昔演説をしながら自殺をとげた、おかしな小説家がいた」って……。私を見下ろすこの影が、その男だとしたら、これってまさか、幽霊??
小説とか怪談なら、ここで気絶したり、「朝までまんじりともせず」、みたいな展開になるんだろうけど、私の場合は、そうならなかった。私は私を見下ろす、黒い影を見上げながら、がくがくと震えた。そうだ! ナースコール!!
(待って!!)
その影は、私がしようとしていることを、読み取ったかのように、あわてて止めようとした。影は両手を上げながら、ベッドを離れ、後ろに下がった。
(大丈夫だ、俺は何もしない。うれしかったんだ。ただうれしかった。俺の小説を読んでくれているのを見てね。)
(そう、なの?)
黒犬が登場するまでは、つまらなかったなんて言えない! と私は思った。
とにかく、私とMさんの物語は、こうして始まったのだ。