第四章 3節 四巻読了
Rは今日も、四巻にしがみつき、猛スピードで読み進めていく。トイレでも、学校でも、家に帰ってからも。何かを口に入れるのも忘れ勝ちとなるRに、家ではMが甲斐甲斐しくお菓子やコーヒー、ジュースなどを運んだ。かつては天才小説家と呼ばれ、それを当然と思っていたMだが、そんな自分が今はRの下僕と化していた。Mはそんな状況を楽しんでいた。何よりRの小説への没頭が嬉しかった。それだけでMにとっては、何よりのご褒美だった。MはノートPCで調べものをしながら、時折Rの顔と開かれたページを、ちら、と盗み見た。
Mは考える。そろそろRとの共同執筆の計画を、Rとともに立てていきたい所だが……。そもそもRに、小説を書きたいという気持ちはあるのか? 第一俺自身に、五巻を書きたい気はあるのか? 俺にとって第四巻は、不本意な状況での執筆ではあったが……。あれはあれで、俺自身納得した上での入稿ではなかったのか? 何の理由もなくなった今、第五巻という蛇足をつける必要はあるのか?
「Mさん?」
「ん?」
「これを読み終えたら、第五巻を書いていくんだよね?」
「あ、ああ……、実は今、どうしようかと思ってた所だ。Rが書きたいならいいけど、そうじゃないなら、書かないというのも一つの手かもしれない」
「そうなの? でも四巻は、不本意な出来だって言ってたよね?」
「ああ、そうなんだけど、その作品は俺が生んだ、正真正銘の俺の子だ。どんなに出来の悪い子でも、親にとってはかわいいものなんだ。四巻も多少の疵はあるものの、完璧に近い、俺自身のかわいい子供なんだ。そのことにね、最近俺は気付いた」
「そうなんだ、残念……、色々アイディア考えてたんだけどなあ」
「Rが書きたいものがあるなら、俺は全力でサポートするつもりだが……。アイディアってどういうのか、聞いてもいいかな?」
「うん、ひとつはね、こうやってMさんと一緒に、どうやって小説を書こうかーって悩む小説。タイトルはね、MとRの物語」
「小説を書く小説、か。面白いかもしれないな。でも、ちょっと非現実的で、ご都合主義的な展開になっちゃうかもな」
「ご都合主義的って?」
「強引もしくは安直な設定、展開……、のことだ」
「Mさんが転生して、私と一緒になって、とかもそうかな?」
「そうだな……。あ、もうひとつ根本的な問題がある。あの世のことや、阿頼耶識のことは、神やあの世の存在にとって、門外不出の極秘事項だ。俺がRやRの母親に、転生のことを話しているのも、本来ならルール違反。それをこの世に広めてしまうというのは、例えフィクションという注意書きを付けてあっても、神は許さないと思う」
「ああ、そうだね……。うーーん、いいアイディアなんだけどなあ、しょうがないね」
「他にはアイディアは?」
「考え中のはあるから、また今度ね」
「ああ」
Rはさらに読み進めていく……、おだやかな川の水がその流量を増し、ゆっくりとしかし着実に海へと近づいていくように、結末までのページが消化されていく。きらきらと輝いていた一巻、闇にぎらぎらと光る太陽のようだった二巻、夕焼け染まる妖艶なダンスのようだった三巻。とすればこの四巻は、漆黒で不吉な夜なのか。
Rの心が慄えている。こんな悲しい心を、悲しい詩を、なぜここまで書き込み、誰かに読ませなければならないのだろう。これが純文学と言うものなのか。これは作者である、Mさん自身の悲しみなのか。どうしてこうなるの? とRは悲しくなる。人はこうやって何かを破壊しないと、成しえないのだろううか、その先に、何が待っているのか?
キイイィン……。
小さな音が、Rの周囲を震わせた。目を閉じ、軽く居眠りをしていたMがその音に気づき、Rを見ると、彼女の周囲に小さい銀色の水泡のようなものが浮かび、ゆっくりと上昇していた。まるで炭酸水の入った透明なコップの中のように、銀の水泡は、次々と発生しては、ふわふわと上昇した。
「R、その泡みたいなものは一体……」
本に目を落としていたRが、ゆっくりと顔を上げた。その目には薄っすらと涙が光っている。微笑みながらRは言った。
「Mさん? 純文学ってもしかしたら、こういうものかもしれない。でもね、私は許せない。こんな悲しいお話は、許せないよ」
Rの顔が、強い光でもあたったかのように輝き、その髪がふわっと舞った。再び本に視線を落とすRを、戦慄しながらMは見つめる。
(何が起こっている……?)
Rはすごいスピードでストーリーを追っていく。Mは信じられない思いで、それを眺めている。一体Rの身体に、何が起こった?
(Mさん……。ここに書かれている、美しい粒子という言葉で、ひとつ思い出したの。以前にも私、夢の中でこういうことをしたことがあるって)
(こういうこと?)
(うん、私がね、何かを変えるために粒子になるの。確かそんな夢だった)
ストーリーにはどんどん、暗い雲が立ち込めていた。それを読むRの周りに、軽い渦のように空気が舞い、衣服と髪の毛をひらひらと揺らす。Rを照らす白い光が、次第次第に強くなっていく。そして物語はクライマックスを迎える。主人公の苦しみが、いらだたしいほどに濃密に描写されている。Rはその一字一句をゆっくりと、しかし猛烈なスピードで読み進める。
Rはパラっとページをめくり、残り枚数を調べた。あと6枚……。あと6枚で、一体この状況が、どう解決するというのだろう? いや、それとも、何も解決しないのだろうか? Rはすがるような思いで、救いを探して読み進める。2枚読み進めた所でヒロインが現れた。残り枚数は、あと2枚……。
(そんな……)
これまで、音を立てては崩れ落ちていた古い漆喰の壁が、ここにきてガラガラと崩壊し、ストーリーを形作っていた柱が、ぎしぎしときしみ始める。それは主人公の心の中で起こっている軋みであり、読者の心の中の軋みでもあった。残り1枚を、Rはさらさらと読んでいく。
「え?」
最後の一行を読み終えたRは、小説を手にもったまま、顔をあげてMを見た。衣服や髪をはためかせていたRの周囲の風や光は消えていた。Mは息を飲んでRの発する言葉を待つ。Rは唇をあけ、言葉を選ぶように、ゆっくりと言った。
「Mさん、これは……。夢落ちみたいなものなの?」
「そうも読めるし、そうじゃないようにも読める。どちらを採るか。それは読者それぞれということだ」
Rは大きく、目を見開いた。それは感心と感動と怒りと呆れの表現であった。Mは、もっと深く感想を聞きたいという気持ちをぐっと我慢する。
「お疲れ様。コーヒーを淹れなおそうか」
「うん! お願い!」
コーヒーが出来るまでの間に、Rはぺらぺらとページをめくり、いくつか感想などをMに伝えた。
「答えられる質問と、答えられない質問がある」、とMは言った。
「答えられない質問というのは、答えがいくつかあって、俺がそれを決める必要はないものだ」
「うん……、どっちにでも解釈できるように、工夫してあるんだね」
「そう……」
Rの前に淹れたてのコーヒを置き、椅子に座るM。
「で、もう一つの質問は、R、お前の指摘の通りだ。正直、ストーリーを早く進めるために取らざるを得なかった方法だ。ちょっと安易で、しかも小説としての疵が残る、このような方法にしてしまった。でもだらだらと書くより引き締まっているから、これはこれでよかったのかもしれないね」
「疵、なんだね」
「うん。でもまあ、今からあえて書きなおすほどの疵じゃないな」
「そう……、だね?」
「ん?」
納得しかけて、首をかしげたRは、Mをまっすぐに見ながら両手を上げ、カニのようなポーズを取った。
「さっきの、これ」、そう言ってRは集中した。すると再びRの周りに、炭酸の泡のようなものが出現した。
「そうそう! それは何だ。何をするつもりだった?」
「これはね、女神さんの使ってた、黒蛇みたいな技で、私が夢の中で作り出したものなの」
「夢……、そうか、なるほど……」
意識の力、阿頼耶識の力、それで説明は一応つく。しかしまさか、Rがあっという間に、自分なりの技を開発するとは思わなかった。常人には不可能だろう。もしかしたら、1つの肉体にMと同居していることの影響かもしれない。
「それで……、その能力を何に使った?」
「秘密にしちゃ駄目かな?」
「駄目だ。秘密にしようとしたら、お前の記憶を読んで引っ張り出す」
「うん……」
Rは打ち明けた。はじめてこの能力に気づいたのは、近所でよくみかけていた子猫の、死骸を見た夜のことだった。Rはその子猫が自動車にひかれるシーンを夢に見、少しだけ時間をさかのぼり、夢の中でその子猫を救ったのだ。次の日、生きてこちらを見ているその子猫を見かけた。まさか、と思いながらも、もしかしたらこれは、Mの言っていた阿頼耶識というものを使った能力なのかも、と考えた。
「時間を戻すときにはね、時間の流れを水の流れだってイメージして、魚になった気持ちで、それをさかのぼっていくの。その時間まで戻ったら、自分が変えたい何かをイメージして、それを卵のような形にして、そこに置いて、もどってくるの。そしたらうまくいっちゃった」
「その能力を使ったのは、その時だけか?」
「ううん……。お気に入りのカバンに穴が開いちゃったから、それを修理した」
Rは立ち上がり、水色のリュックを持ってきた。確かにボロボロだったリュックが、新品同様とは言わないまでも、少し綺麗になったように見える。聞くとRは遠い遠い過去まで時間をさかのぼり、子供の頃のRの前で、「この子がもっとこのカバンを大切にしますように!」、という思いを卵にして置いてきたそうだ。
「そんなことが……」
「それってすごいこと?」
「ああ……、時間遡行は、女神にさえ不可能な、非現実的な技……」
「手から黒蛇を出すのだって、非現実的だけどね」
「で、それだけか? 猫と、カバンと……。他には?」
「うん、あと1回だけ……。あの地下の竜に、会いにいったの 時間をさかのぼって、竜が赤い裂け目から出てくる所まで行って、そこに卵をおいてきたの。私がずっと一緒にいてあげるから、暴れないで、日本を壊さないでって」
謎は解けた。たぶんこうだ。竜はMが生んだものではなかった。太古から、地球に存在していた。なんらかの、不可思議な現象によってその竜の存在が、古代の人間によって感知され、古文書に残された。生前のMは、その古文書により、竜の存在を知った。そしてRはその竜に会い、過去へ遡り、自分の分身を生みおとし、竜に捧げた……。なんと無茶なことを……。だがこれまで地球が崩壊しなかったのは、そんなRの無茶によるものかもしれない。
「なんてことを……。いやもし本当だとしたらすごいことだ。偉いよR」
「えへへ」
時間遡行……。それがもし本当だとしたら、Rは何と怖ろしい能力を手に入れてしまったのだろう。それを使って、第二次世界大戦の結果を、ひっくりかえせるとしたら? あるいは……。不慮の事故で亡くなった誰かを、助けることが出来るとしたら? Mの脳裏に、そんな悪魔のような考えが一瞬浮かび、Mはあわててそんな考えを頭から追い払った。
「Mさん、ちょっとMさんの小説の疵、直していい?」
Mは戦慄した。この小娘は、何を言いだすのだと、正直腹立たしく思ったが、その技に興味がなくもない。
「待って。もし本当に時間をさかのぼれるとしたら、その技は危険すぎる。ひとつ実験をしてみようか……」
「実験?」
「うん……。ここにノートPCがある。電源を入れよう。さっきの技を使って時間をさかのぼって、ここにRが小説を書く、という卵を置いてくる。結果どうなるか、というのはどうだろう?」
「うん……。私が書いて来なくてもいいんだね、卵を置くだけだね」
「ああ……、もしそれで本当に小説が書けるから、とんでもないことだな」
「うん、じゃあやってみるね」
MはノートPCのテキスト入力ソフトを起動し、キーボードをRの方に向けた。Rは目を閉じ、両手を少し上げてカニのポーズを取り、意識をその先端に集中させた。再びRの周囲に泡が立ち始める。Mはそれを見守った。1分、2分、3分……、やがてRが目を開けて言った。
「駄目だよMさん! 夢の中じゃないと出来ないかも!!」
泣きそうになるRに、Mはほっとした表情で言う。
「いや……、能力とはそういうものだ。必ずリスクがともなう。夢で遭遇しないと操作できない、ということは、無意識下で思考する阿頼耶識が関与している何よりの証拠だな。注意すべきはその能力が暴走して、妙な事態を起こさないように、だな……」
「うん……」
両手をおろしたRは、気持ちを切り替えいつもの表情になった。
「Mさん、これで4巻読了だよ。すごい?」
「ああ、お疲れ様! 難解な俺の渾身の作品を、最後まで読めただけですごいぞ」
「えへへ!! ご褒美が楽しみ!」
そうだな……、何かすごいご褒美をあげたい所だが……、こんなに速く読了するとは思っていなかった。それに、R、お前が俺の妹を救ってくれてたんだよな。それも含めてお礼がしたい所だが、いかんせん、俺には何もない。Rの母親に頼むにしても、この前静岡への旅行をお願いしたばかりだし、しばらくは無理は言えない……、さて、どうしようか……。
「そうだ、R! 俺が手料理を作ってやろう」
「え!!」
少しがっかりした顔をしたRは、すぐに表情をいつもの顔に戻した。
「手料理大好きだよ、ありがとうーーー、やったーーー(棒読み」
2時間後……。
エプロンを付け、特製のメロン&プリン付きホットケーキ3つを食卓に置いたとき、Rとその母親は、驚きの声をあげた。
「すごい! すごいよMさん!!」
「ほんと、おいしそうだね!」
普段はコーヒーしか飲まないMも、この日はRの読了祝いのパーティーに加わった。Mは自分の小説を読んでくれたことに感謝し、Rはすごい小説を書いたMと、それを自分にすすめてくれた母親に感謝した。




