第四章 2節 竜の秘密
前バージョンでは4倍の分量だったものを大幅に圧縮して投稿。読者を無駄にミスリードさせるだけの情報をばっさりと削除した結果です。この作品は、設定やプロットを全く決めずに書いていたので、そういうことが起こり得る。それにより何か新しいものが生まれるならそれでいい。
授業が終り、自転車で帰宅するR。そこでRが異変に気付いた。
(Mさん……。どうしたの? 何かピリピリしてるけど。何か怒ってるの? 文芸部のこと?)
(いや……。大丈夫、文芸部には賛成だよ。それにそのピリピリっていうのはたぶん俺じゃない。異常なのはこの空、この大気だ……)
(空、大気?)
Rは堤防の脇の小道で、自転車を止め、空を見上げた。青く澄んだ空に、細かい雲が、ちぎれそうになりながら、なびいている。その動きが、少し速いように感じた。
(ほんとだ……、空がピリピリしてる)
(ああ、何か巨大なものが動いている……、気がするが、それが何なのかまでは、俺にもわからない)
(そうなんだ……)
不吉な予感を覚えた二人であったが、その夜は何事もなく過ぎていきつつあった。Rとその母との挨拶を終えたMは、二人が寝たのを確認して、ベランダに出た。巨大な月が美しく輝いている。その月のこちら側を、細い雲が白い生き物のようにうねり、異様な速さで通り過ぎていく。大気の緊張感は、まだ続いている。
その時……。
「M……」
「ああ……」
いつの間にかベランダの向う、地上から数メートルの高さに、女神が浮かんでいた。
「こうやって、夜二人で会うのは、平安のあの頃以来ですね」
「あの井戸でか。そうだったな」
「神よ、この緊張感の原因はお前なのか?」
「ええ……。私が寝た子を起こしてしまったから」
「寝た子、……例の太古の竜か……」
「そう」
「一人で無茶なことをしたもんだな」
ふっと女神は微笑み、ベランダに向かって空中を移動し、Mの隣に立った。巨大な月を眺めながら女神は言う。
「すばらしい月ね。でも実際は、乾いた砂の惑星」
Mは女神をちらっと見た。その言葉の真意を、計り兼ねるように。
「M。私は地下にもぐり、相を移動して、あの竜に会ってきました。その際のビジョンを、あなたに見せることが出来るけど、見たい?」
「ああ、……しかしなぜそう聞くんだ。共闘を誓った今の俺の答えは、見る一択のはずだが?」
「そうね、そうだった」
女神悲しそうに微笑んだ。女神はMに近づき、Mの額に自らの額を押し当てた。その瞬間、Mの脳裏に怒涛のように女神の記憶、「ビジョン」が流れ込んできた。それは地球の内部に向かって高速に落下する、女神の姿だった。女神の記憶がMに伝わる。闇の中、落下する感覚だけが全身を包む。
女神は落下していた。太古の竜の住む、日本の地底深くに向かって。
途中、もうもうと湯気の煙る、滝のしたたる巨大な空洞などもあったが、日の光のない地底に置いては、それらは何の情動もおこさない。ただ事象として、感覚として、女神の皮膚を刺激するのみだった。物質を伴わない感情を、「唯識」と呼ぶならば、感情のともなわない刺激は、なんと呼ぶべきなのだろうと女神は考える。意識と、物体。その間には何もないのだろうか。では刺激とは? 刺激は意識と物体の間の、かけ橋とは言えないのだろうか。いや、そもそも、神であるはずの自分が、なぜこのように些末な思考に煩わされる必要があるのだ? と、自問した自分に神は即答する。
(答えはわかっている。神とは神たるべくして神となったわけではないのだ。私が神となったのはたまたま、私であったというだけなのだ。そして今、あの黒竜が、あるいはそれを操る何者かが、私からその神の座を奪おうとしているのだ)
神は不安を覚えながらも動じない。運命を支配するのが神ならば、神を支配しようとする運命に服従するのも神としての役割の一つなのだ。やがて、女神の周囲、乾ききった岩の占める空間を、実体を持たない半透明なクラゲのような生物が漂い始めた。女神は戦慄した。その生物に、見覚えがあったからだ。
(これは……。以前Mが私に使った技……)
まるでカードバトルにおけるカードのように、対戦者の間でやり取りされることはある、「技」ではあったが、簡単にそれを共有したり、貸与したりできるわけではない。ということは、この「技」を使っている者は、Mとよほど親しい者か、あるいはMを従えるほどの強者のどちらかということになる……。
半透明の生物の密度が濃くなり、女神は相転移しながらそれを避け、さらに地下を目指した。その行く先にいるのは言うまでもなく、あのMのビジョンに見えた、「太古の竜」だ。しかしそこに至る前に、竜の放つ悪意が黒い槍のように女神に向かって放たれ、女神は少しずつ傷を負っていった。だがそのとげとげしい悪意は、竜にとってはまだただの吐息でしかない。
竜は怒り、泣いていた。
その振り絞られた涙が、悪意となり、水晶のように凝固し、
四方八方に向け、照射されていた。
その水晶の一つ一つが、誰かを傷つけていた。
地球上の、誰かを。
「M……、もしかしてあなたは、Mなの?」 女神は哀しみを込めて、竜に問いかけた。竜は何も答えず、ただただ、怒りと悲しみの込められた水晶体を、放ち続けた。やがて女神は、竜の潜む相を特定し、目視できるまでに迫った。地中で身体を丸める黒い巨大な竜。それを間近で見た女神は、自分の目を疑った。まるまった竜の中央に、ひとりの少女の姿があったからだ。まるでその少女を護るかのように、竜は優しく少女を包み、周囲には、何者をも寄せ付けぬ、鋭い針のようなオーラをふりたてていた。
女神がもっとも驚かされたのは、竜に護られた少女の顔を見た時だった。その少女は、Rと同じ顔をしていた。今はMとその身体を共有し、かつては女神のペットであった、R。
「R!!」
女神がRに声をかけたとき、巨大な竜の顔が、女神に向けられた。女神は「あの世」への退却を選ぶ。急激なあの世への相転移は、女神の魂さえも傷つけ痛めつけ、さいなむ。失神しそうなほどの苦痛に耐えながら、女神はさきほど見た竜の目、怒りに満ちた、攻撃的な赤い目を思い出す。
ああ、そういうことか……。
深い呼吸で、精神をさいなむ痛みを和らげながら、女神はふふ、っと笑った。
「M……。私の見たビジョンはここまでよ」女神がMからその額を離した。
「ぐはああああああ!!」
ぜえ、ぜえ、と深い息をして、正気を取り戻そうとするM。いつの間にはMは、ベランダの床に横たわっていた。
(どういうことだ、教えてくれ!!)
喋ること叶わず、女神に意識で訴えるM。女神は無表情にMを見おろし、答えた。
(どうもこうも、あなたがあの太古の竜なのよ、M)
ベランダのコンクリートの床に這い、息を整えるM。やがてMは眉間にしわをよせながらゆっくりと起き上って、コンクリートの上に胡坐をかき、月を見た。女神がその横にしゃがんだ。
(M、あの竜、私は量子テレポーテーションによるものと考えるけど、あなたはどう思う?)
(もしそうだとしたら、あの竜を生んだのは俺ということか……)
(ええ。あるいはあの竜自体があなた。と言っても、あまりに非現実的な、仮説でしかないのだけれど)
(いや……。俺が過去に干渉した可能性を言っているのなら、何も量子テレポーテーションでなくてもいいかもしれない。現代に生きる俺が、過去に指令を送る。過去に生きる何ものかが、阿頼耶識を通じて、その指令を受け取る。阿頼耶識は、過去、現在、未来と、同じ形を保ち続ける滝のようなものとするなら、命令とはその滝をさかのぼる鮎だ。さらにその鮎に寄生虫を仕込んでおくことで、過去を作り変えていく。そんな時間遡行がもし可能なら、おまえの見た竜とRも、説明がつく)
(そうね……。そういう方法も、なくもないわね)
(仮説としては面白い。しかし俺がなぜ、そんなことをする必要があるんだ? それに俺はあの竜を憎んでいる。だとしたら、あの竜が俺自身であるというのはおかしい。お前にはそこに、うまく説明がつけられるのか?)
女神はMにどう説明するべきかと、一瞬悩んだ。じっと女神は、Mの目を見据える。Mもまたそれを見返す。数千年にも及ぶゲームを競ってきた相手だというのに、女神にはMの心がいまだ完全には見えず、恐怖を覚える瞬間もある自分が悲しかった。過去において、Mは一回だけ、この世界のすべてを憎み、呪ったことがある。女神は、その時にMの魂から放たれた黒い虚無をいまだに忘れられない。もしかしたらその暗く深い感情の井戸の底の底に、あの太古の竜は潜んでいたのではないか。だがそれはたぶん女神の思い過ごしだ。あの瞬間のまだ少年だったMには、「竜」を地底深くに棲まわせるだけの能力などなかった。やはり竜を現出させたのは、そのずっとずっと後、古本屋で文献を漁っていた頃のMだったのであろう。
(ええ。説明はできる。でもそれは、事実ではないのかも)
女神は夜空を見上げた。白く巨大な月の前を、さきほどまでは異様な速さで月をかすめて飛び去っていた千切れ雲が、今はおとなしく漂っていた。
「大気の震えが、止まった」女神は言った。
「そうだな。あの竜は怒りをおさめたかな」
「M」
「ん?」
「あの竜がもし本当に、あなた自身だとしたら、現実のRちゃんに何かあった時に、何か禍々しいことを、あの竜がこの世に起こすのかもしれない。あなたがRちゃんを、護ってあげてくれる?」
Mは月から視線をそらし、女神を見た。悲しそうに月を見つめ続ける女神の表情。
「もしあの竜が俺なら、たぶん大丈夫だ……。あの竜は日本を滅ぼすことはないだろう。俺がRの中に生きている限り。俺は絶対にRを護る。未来永劫ね」
月はいつもの輝きを取り戻し、しっとりとした柔らかで透明な雲を、その前にゆったりとはべらせていた。女神は、いつまでもこうして、二人で月を眺めていられればいいのに、と思った。




