第二章 6節 リライト再び
本を読むRの息が深い。ときおり、すぴー、という音も聞こえる。どうやら眠ってしまったようだ。そんなRを、Mが見つめている。
「やっぱり……、このシーンでスローダウンか。いや、これじゃあスローダウンどころか機能停止だ。でも、無理やり起こすのもな……」
Mがしばらく待っていると、やっとRの頭が、ゆっくりと上がった。
「ね、眠いよーーー」
「おはよう。コーヒーでもいれようか」
「うん、お願い」
Mは立ち上がって、水切りカゴからマグカップを二つ取り上げ、水道ですすいだ。まるでRの奥さんのようになってしまっているMだが、割りと楽しみながらやっている。何より、以前自分が書いた小説に、忌憚ない意見をくれるRの存在は、うれしかった。
お湯が沸いた。フィルター付きのレギュラーコーヒーを、カップに乗せてお湯を入れる。2つのカップがコーヒーで満たされた。いい香りだ。
「ありがとう」、Rがコーヒーを口にした。
「いえいえ、もう慣れっこだよ。ところで今苦労してるシーン、そこも結構、挫折者が多いんだ。少し解説しようか?」
「うーん……」、Rは黙り込んだ。「ちょっと待ってね」
そう言って、しばらく格闘していたRが顔を上げた。
「ぷはあああ!! 駄目だよMさん、やっぱり解説お願い!」
「うん、じゃあその前に、今そこを読んでどんな風に感じてるか、教えてくれるかな?」
「うん……」、Rはペラペラとページをめくる。どうやらそのシーンがスタートして、数ページは読破していたようだ。
「ちょっとね、無理して読んでたんだけどね、『能』ってなんなの?」
能、というものに、今の若者は全くと言っていいほど興味がない。「意識高い」とか、「意識高い系」という言葉はあるが、そういう言葉では表せないほど、能というものの存在は、若者から消えて落ちている。すでにそれを予想していたMは、PCのページを見ながら説明した。
「Wikipediaから引用しよう。"能とは、日本の伝統芸能である、能楽の一分野。江戸時代までは猿楽と呼ばれ、狂言とともに能楽と総称されるようになったのは、明治維新後のことである"」
「うーん……」
「今の若い人には、馴染みが薄いだろうな。由々しき事態ではあるが、今は時代の流れと割り切ろう。そして、これがその能の動画だ」
RがMの差し出したノートPCを覗き込む。ある演目の名場面を切り取って編集した動画だった。それを見終えたRが言った。
「うーーーん……。小説を読んだ感じだと、そんなお話には思えなかったよ。もっと不気味な、真っ暗な中で、2人の女性がさまよい続ける、みたいなお話かと思ってた」
「そうだな……。能に触れたことがない人の多くは、そういう印象を受けるようだ。だがそれが能の魅力だ。明るい舞台が、空想次第で月の輝く夜の浜辺になったり、遠い地で待つ恋人の情景を、まざまざと映し出したり。空想が無限の可能性を生むという点で、小説と同じだな」
「ふーん……なんとなくわかったよ、あ、でも……」
「うん?」
「この能のシーンって唐突にここに入ってるけど、どういう意図があるのか、聞いてもいい?」
「ああ……」
Mは、能のシーン挿入の意図を、ネタバレにならない程度に、Rに語った。Rは納得できないながらも、頭では理解出来たようだ。ちょっと冷めかけたコーヒーに口をつけたあと、また小説に視線を落とした。
日差しの加減が変わったのか、室温が若干あがる。ホットコーヒーより麦茶がよかったかな、と思いつつ、Mもコーヒーに口をつける。暑さはまだ厳しいが、もうすぐ夏は終わる。ちょうどRの読書も、その前には二巻読了まで行きそうだ。次の読了のご褒美は、何にするかな、と、Mは考える。Mは、生前自分が住んでいた屋敷と、娘の顔を、ちら、と思い浮かべたが、すぐにかぶりを振った。
(駄目だ。そこまではRを巻き込めない。そもそも俺の転生の目的は、娘と再会することではなかったはずだ。それは何だった? 思い出せ。思い出せ)
Mは眉間に皺を寄せ、部屋の隅の一点を見つめて考える。MとRを、全く意味の異なる二つの沈黙が、包み込む。夏の時間は、じわじわと流れてゆく。




