第二章 5節 政治家と、つぶされた煙草のシーン
その後もRにとっての難関は続く。通常のシーンの描写はいいのだけど、いわゆる「テキスト中 テキスト」と呼ばれる構成の、入れ子構造になるような部分では、読みづらさが急激に増した。また「なぜこのようなシーンが」、といぶからざるを得ないような描写が挿入されており、それらのシーンでの、情景の見えづらさ、退屈さも異常だった。
「Mさん、ここ読みづらいよお」
Rはついに音をあげた。MがRの示すページを確認する。
「ああ、ここは……。確かに読みづらいかもしれない。俺はね、この第二巻では、推理小説のような楽しみを提供しようとしたんだ。もちろん、それだけじゃないけどね。このシーンには、後々起こるある事件の裏を推理するための、材料が添えられているんだ。それに後々登場するシーンも、ここに先行して描写されている。つまりこれは、『伏線』だな」
「わかりづらいし、全然面白くない伏線だね><」
苦笑いをするM。
「当時はこういう、政治家による密談のような描写が、センセーショナルだったんだよ。庶民から見た政治家なんて、雲の上の存在で、今ほど政治家と庶民が近くはなかったからね。それに比べて今の政治家はひどいな。政治家のハゲという発言とか、不倫とかが即バレて国民に叩かれ、離党騒ぎにまで至るからね」
「それって、ひどいことなの?」
「まぁね。政治家というのは、国をどう導くかだけで価値が決まる。別にその本人が、清廉潔白である必要なんて、本来はない。その点、今の政治家叩きは、俺から見れば異常だね。考えてみて欲しい。政治・経済の世界で、多大なる権力を持ち、しかも日本という国に多くの貢献をなし、多くの人に慕われる人物、お尻で煙草を押しつぶしてしまった、という一件だけで、例えば死刑などに処せられるとしたら、どうだろう? その行為は、死に値するほどの罪なのか」
「……。Mさん、何を言ってるの?」
「……、何をって……。サブテーマを……。いや、やめておこう。あんまり詳しく説明すると、ネタバレになる。ネタバレすると詰まらなくなるのは推理小説と同じだ。できたらこのシーンは、キーワードを拾う程度でさらっと読み流して先に進んで欲しい。そうすれば全てわかると思う」
「先ってどの辺?」
「そうだなあ、この辺?」
Mは、分厚い小説の、ほぼ最後の最後、数ページを示した。Rが、深いため息をついた。
「わかった、がんばってみるよ」
再び読書に集中し始めたRを見て、Mは思う。推理小説というのは、いかに自然に伏線を仕込み、それを興味深く読ませながらも答えを気づかせないという、アクロバティックな技術が必要なのだが、もししたら俺には、その技術が足りてなかったのかもしれない。あるいはそのやり方が、ぞんざい過ぎたか。
空中ブランコを演じるサーカス団員が、姿勢の美しさにこだわりすぎて地上に落下したり、安全を重視する余り、伸びやかに演技できず失笑を買ったり、いくらすばらしく演技していても、サーチライトが暗くてほとんど見えなかったりすれば、当然、お客は熱狂できない。それならと、ピエロに成り切れればいいのだけれど、プライドの高い俺には、それは不可能だっただろう。こうやって書かれている文章の、文字の一つ一つが、空中ブランコに匹敵する緊張感によって書かれるとしたら、それがたぶん、小説家が最終的に目指すべきものであり、「純文学」、というものになるのだろう。
(だが……)
たかだか文学。そこまでの緊張感をもってなす必要があるのか。いや、少なくとも俺が生きていた頃には、必要はあったのだ。だからこそ俺の書いたものは、絶賛されたのだ。需要は確実にあった。あの頃価値のあったそれらのものが、なぜ今は、無価値となったのか。そう考えた瞬間、Mはその答えに行き当たり、ふっとあきらめの表情を浮かべた。
(そうだ……。気付いたからには、認めなければいけない。かつては価値のあったものが、無価値となる瞬間があることを。もしRが、次のあのシーンでも詰まるようだったら、それを教えてやろう。
Mは目を閉じて腕組みをし、「文学の役割」についての、考えを破壊し、構築しなおしていた。それは例えば神が宇宙を消し去り作り直すほどの、大仕事であると言ってもよかった。Mは天才ではなかったが、そのような「国生み」に匹敵する、難事業をやすやすとこなしてしまうという点では、「文学の神である」、と言っても過言ではないかもしれない。
Rの読書は続く。夏休みの終わりまで、もう少しだ。




