第一章 1節 母と娘
物語は、Rとその母親の日常からスタートする。
「ただいま。おかあさん、これ、一緒に食べよう」
私はアルバイト先のコンビニでもらってきた2つのヤキソバを、テーブルの上に置いた。
「うん、ありがと」
母はノートに走り書きをしながら、そう言った。他にもテーブルには、書類やらノートやらが、ちらかっている。仕事を持ち帰るのはやめて、と以前は言ったこともあったが、そうしないとどうしようもないのだということがわかり、最近では何も言わないようにしている。
そうだ。人生というのは、テレビのニュースとは違う。嫌な仕事だって、やらないといけないし、残業だって、やらないといけない。残業ができないなら、持ち帰ってでもやりきらないといけない。それが仕事だ。それが人生だ。と、最近私にもわかってきた。私ももう、高校卒業間近なのだ。あと1年の辛抱なのだ。
奥の部屋で、制服をジャージに着替え、テーブルに戻って椅子に座り、「ヤキソバヤキソバ」、と言ってパックを開け、割りばしを割った。あざやかな紅ショウガが食欲をそそる。私は紅ショウガが大好きだった。そこだけは、母とは似てなかった。いや、それだけではない、母は頑張り屋、私はそうじゃない。母は頭がいいけど、私はそうじゃない。いろいろ違いはあったっけ。
そうだった。母は小説が大好き。
私は小説が嫌い。
私はテーブルの隅にそっと置かれた、白い文庫本を手にとった。美しい表紙が目をひく。金色で書かれたタイトルは、「〇の□」。ぺらぺら、とめくって、そっと元に戻した。むずかしそう、わからない、やっぱり小説は嫌いだ。
「その本ね……」
「うん……」
母が私に、本の話をするのなんてめずらしいことだ。
「お父さんがね、あなたくらいの頃に読んで、感動したらしいの。私も読みたいって言ったら、お前には無理だって言われて……。ずっとお父さんの、棚にあったものなの。もう読んでもいいかなって思って読み始めてね。あっという間に、一巻読んじゃった」
「ふうん……、お母さんでも難しいって、よっぽどだね」
「それが、そんなことちっともなくてね。楽しかった。特にね、若い男の子と女の子二人が、馬車にのって、雪の中をデートするシーン。もうほんとに綺麗で、うっとりしちゃった」
母の声が震えたような気がして、私は母の顔を見た。母は顔をあげて、どこか遠くを見つめているような目をしていた。その目はちょっとうるっとしていた。いけないものを見たような気がして、私は顔を伏せ、ヤキソバをちゅるちゅると吸った。
お父さんが好きだった小説。
お母さんも、うっとりした小説。
私も、好きになれるだろうか。
母がヤキソバを手に取った。
「ちょっと休憩。ヤキソバありがとね」
「うん」
「その本、あなたも読んでみる? 時間はかかると思うけど、お母さんもサポートするよ」
そうか……。母がこの小説の話をしたのは、私にこの本を薦めたかったんた。お父さんが好きだった小説……、どんなのだろう。これを読めば、お父さんの気持ち、少しでもわかるかな。
「うん。読んでみるね」
ヤキソバを食べ終わった私はそう言って、白い文庫本を手に取った。母が立ちあがり、麦茶を入れてくれた。私は小説と格闘しながら、麦茶を飲んだ。ぐび、というすごい音がした。