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第一章 12節 「白き魔女の世界」

すべての授業が終わって、私は、自転車に乗って帰宅した。暑い……。マンションのドアを開けると、恐ろしいほどの熱気が、私に牙をむいた。平静を装い、中に入って扉をしめ、鍵をかける。靴を脱いで、大股に台所を横切り、壁のリモコンをとってエアコンをオンにした。


 ぴっ


 排気口の下で、直接冷気を浴びる。母がいたら叱られるけど、今は構ってはいられない。このままでは死んでしまう。急務だ。おやつのアイスも急務だ。台所に向かって冷蔵庫を開けた。そこにアイスはなかった。冷蔵庫の中に閉じこもりたい気持ちを抑え、一回扉をしめ、コップを軽くすすいでまた扉をあけ、床に膝をついてコップに麦茶を注ぐ。これも母に見られたら叱られそうな姿だ。だが、それがいい。私は喉を鳴らして麦茶を飲みほした。軽く眩暈がした。


「さて、と……」


レンジの上の、ノートPCを食卓に乗せ、電源ケーブルをつないでスイッチを入れた。自分用のIDとパスワードを入力して、ログインした。身体から何かがするっと抜け出す気配。Mさんだった。今日は襟のある白いTシャツに、ベージュのチノパンを身に付けていた。


「あれ? 今日は軍服じゃないんだね」


「ああ。TPOに合わせて衣装も変える。男のたしなみだな」


「まあ、それは女もだけどね」


 軍服には、何かこだわりがあって、その姿のまま、お化けになっちゃったのかと思っていたんだけど、そうじゃなかったみたい。でもそれ以前に、お化けってこんな明るい部屋でも、出てこれるんだね。それにしても、Mさんすごい筋肉。あ、こういう思考も、Mさんに聴こえちゃってるんだね。恥しくなった私は、あわててノートPCに目を落とした。


 (男の身体に興味を引かれるのは、悪いことではない。だが彼氏の一人くらい作るのが、自然だな)


 (彼氏なんていらないよ、面倒くさい。Mさんがいればいいよ)


 (まあ、そう言ってもらえるのは正直うれしいけどね)


 私は左手で麦茶の飲みながら、右手で、Mさんの集中するときのサインを作り、Mさんに向けた。Mさんは少し、困った顔をしたけど、同じサインを右手で作って、私の手に近づけた。人差し指と人差し指が触れたとき、私の全身に、快感が走った。私は目を閉じて、その快感に浸った。


 (これはあんまり、いいものじゃないな。麻薬みたいなものだ。そのうち中毒になり、身を滅ぼすかもしれない。こんな感覚はあの世にもない。何かおかしい)


Mさんは右手をゆっくりと離した。快感もゆっくりと、消えていく。


 (そうなの? こんなに気持ちいいなら、私は身を滅ぼしても、構わないけど)


 (いや、駄目だ。今は小説に集中だ。その後なら少しは……)


 (うん、わかった)


 私は右手をPCの上に移動して、息を深く吸った。その途端、周囲の景色が変わり始めた。


 (ほんとすごいね、これ。綺麗……)


 (うん、それが本当の、この世の姿だ。神でさえも心ひかれ憧れる美の世界だ。彼女が俺に望むものだ)


 (え? 彼女?)


 (ああ、神は男性でもあり女性でもあるが、どちらかというと女性だな。何億年、何十億年、何百億年と生き続けてきた魔女のような存在。それが神だ)


 (魔女……。神様が魔女……。ちょっとロマンチックね)


 (そうでもないさ。老獪な、枯れた哀れな女だ)


 (私みたいな?)


Mさんが驚いて、私を見つめた。その目はまんまるに見開いている。


 (ん? 私、何か変なこと言った?)


 (いや……)


Mさんは、私から視線をそらして、窓の外を見つめた。その様子が、少し気にはなったけど、私は小説に、集中することにした。


 右手の人差し指を上に向けて、じっと見つめる。ぽろぽろと、銀色の光の球がこぼれてゆっくりと落ちてゆく。その球の間に、ちらっと、女性の顔が見えた。きりっとした顔の美人で、冷淡に人を見下す感じの眼。もしかしてこれが魔女? だとしたら、この人は枯れてなんていない。特にこの赤い唇。女の私が見ても、ゾクゾクする。まるでカッターナイフの鋭い刃に指をあて、ゆっくりと前後に動かすような感覚。そうだ、この感じを小説にしてみよう。


 私は心に感じる、カッターナイフの違和感を味わいながら、ゆっくりと両手をキーボードの上に置いた。私はキーを叩いた。


『白き魔女の世界』


 46億年という、長い長い時を、私はひとりで生きてきた。私自身の、深くせつない溜息と冷たい視線だけが、その世界を満たす、全てだった。私は暗い部屋に閉じ込められた、一匹の白い子猫だった。


 その世界には、「孤独」という概念はなかった。私が「さみしい」と思うまでは。その瞬間、世界には白いブリザードが吹き荒れ、海は凍り付き、草木はばらばらに分解された。私は、さらに孤独になった。孤独のスパイラルだ。そこに突然、あなたが生まれた。あなたは白い雪原に氷の家を作り、その中に火を灯した。火は、氷を溶かし、それは水になり、小さな草を、蘇らせた。広大な冷え切った空間は、あなたの家から少しずつ、温められた。私はそんなあなたに、目を奪われた。私はあなたを見つめ続けた。


 何十年、何百年が経っただろう。あなたの営みは、世界を春にした。そして奇跡が起こった。鳥が、魚が、獣が、そして虫たちが、生まれたのだ。世界はにわかに活気づいて、時代が動き始めた。私はもう、孤独ではなかった。うれしかった。私はあなたに感謝した。


 それだけでも、私にとっては、とてつもない奇跡だったのに、ある日もっとすごい、奇跡が起きた。それはあなたが森の中で、食べられる実を、探しているときのことだった。あなたは、とてもいい香りのする、みずみずしいフルーツを見付けて、手に取り、口に入れた。その瞬間、世界はあなたの気で満たされた。ずっとずっと孤独だった私が、初めて触れた、私以外の人の心。それはとても温かで、優しかった。うれしくて、泣き始めた私をあなたは見つけた。あなたは目を丸くして驚いていた。あなたが何かを叫び、私に向かって、手をさし伸べた。私もあなたに向かって、手を伸ばした。こうして、この世界に愛が生まれた。


<おわり>


 ふう……。


 私はノートPCから、顔をあげた。世界が奇妙にゆがんでいる。でも美しく、七色に輝いている。私の初めて書いた小説を、世界中が喜んでくれているみたい。Mさん、あなたはどう思う? 私はMさんを見た。Mさんは、また、目をまんまるにして驚いているけど、その口元は笑っている。私はMさんの期待以上の小説を書けたみたいだ。Mさんが言った。


 (すごいな……、思っていた以上だ。今後が楽しみだ)


ありがとう、もっと褒めて。そして私に、快感というご褒美をちょうだい。私はMさんに向かって手を伸ばした。

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