第一章 9節 図書室
Mさんと、遅くまでは話をした翌日、私は眠い目を擦りながら登校した。体調不良での、1日のお休みにも関わらず、誰から声もかからない、どころか私は誰とも、挨拶すらしない。みんな私を怖がっていた。私の暗い過去、それ原因で私は、クラスでただ一人のけ者になっていた。荒れていた中学時代。私にとっての黒歴史。でも、別にそれはいいんだ。いつものこと。でもMさんの気持ちが、私に伝わる。私を心配している様子だ。大丈夫、大丈夫なんだよと私はMさんに伝えて、自分の席につく。だって、別にいじめられているわけじゃないんだから。授業を聞くともなく聞いていると、Mさんが話しかけてきた。
(授業、頭に入らないのか?)
(うん……。勉強が嫌いなわけじゃ、ないんだけどね)
(そうか……。知識だけなら、俺が与えることは簡単かもしれないが、その手は必要な時にとっておこう。今無理やりやる必要もない。焦らず少しずつ、必要な知識を自分で得ればいい。)
(うん)
(それより昼休みに、図書室で小説を書く練習をしないか?「幻の五巻」を執筆するためには、俺はお前の身体を借りて、PCを使って書けばいいんだけど、それだとお前はきっと、つまらないよな。お前さえよければ、一緒に書かないか? もし気が向くようなら、そのためのノウハウを伝授するよ)
(Mさんの、小説の、ノウハウ?)
(ああ……)
憂鬱になっていた私の心に、少し光がさしたように感じた。
(うん、やってみたい!)
(いい返事だ。じゃあよろしく。昼休みまでは退屈な時間だが、少しでも頑張っておくように。どんな知識も、小説を書くには、役に立つはずだ)
(はい!)
私は閉じていた教科書を開き、顔をあげて先生の顔を見た。先生が驚いたように、私のことを見返し、周囲の友人達が、私の方を指さし、ひそひそと小声で話をする。
(大丈夫。何も気にならないよ、Mさん。私は私の道を行くからね。Mさんと一緒に)
退屈な授業に、何度も居眠りしながらも、お昼休みにこぎつけた。母のお手製のお弁当をかきこむように食べて、図書室へ向かった。10台あるPCのうち、あと1台だけ空いている。あわててカードリーダーに、IDカードを通すと、PC借用の手続きをすませた。他の9人のほとんどは、下級生っぽかったが、窓際のひとつの席だけ、見覚えのある男の子が座っていて、頬杖をついて、マウスを動かしていた。
(俺達の席は、あの男子の後ろか……)
(うん。明るい窓際が空いてるなんて、ちょっと不思議だね。何かルールでもあるのかなぁ)
(そうだな、利用者同士の暗黙のルールか。あるかもしれないが、まあ、それほど気にする必要もないだろう)
私が窓際の、もうひとつの席に近づくと、頬杖をついていた男の子が、驚いたように私を見上げた。
「何?」私は冷たい声で言った。
「い、いや……」男子は、頬杖をやめて姿勢を正した。
(なんなの? こんなに体格のいい男子まで、私のことを怖がるの?)
(いや、思春期の男子らしき反応だ。照れてるだけだろう)
(そうなの?)
(ああ。90%、断言できる)
(90%を断言とは言わないでしょ! でもあってるっぽいね)
男子がちらっとこっちを見た。Rのことが気になる様子だ。
(いやね。男子なんてみんなエッチなことばっかり)
(そう、それが男だからね。それより時間がない。PCの電源を)
(うん)
電源を入れると、OSが立ちあがり、インターネットブラウザーが開いた。
(それで、どうすればいいの?)
(「小説 書き方」、でぐぐってみてくれ)
(ぐぐるって……。Mさん最近の言葉に詳しいのね)
(もちろん、俺は何でも知ってる。神に消去されてない限りはね)
検索サイトを表示して、検索ボックスに、「小説 書き方」と入力して、実行キーを押す。大量のサイトが、ずらっと表示された。
(俺のおすすめのサイトがある。上から2番目を選んでくれ)
(「いちから学ぶ小説のかきかた」、だね)
私は「いちから学ぶ小説のかきかた」、という文字を、クリックした。小説の書き方なんて、調べるのは初めてで、すごく緊張する。
(大丈夫だ、小説なんて大したことない。誰にでも書ける)
(そう?)
(うん。難しいのは、ある一線を超えた小説を書く場合だけだ。その前にまず、簡単なルールを、学ぶといい)
(うん、わかった)
私がそのサイトを開くと、Mさんは、「それだ」と言った。確かに、すごくわかりやすそうなサイトで、私は5分くらい、そのサイトを眺めたあと、Mさんに言った。
(なんだか、もう書けちゃいそう)
(なんでもそうなんだ。難しく感じるのは、自分で壁を作っているからだ。その壁を壊すのは、意外と簡単なんだよ。じゃあ一つ、小説を書いてみよう。まずテーマを決める)
(うん、テーマね。テーマというのは、主題。小説でテーマっていうと、伝えたいことや、書きたいこと。私の書きたいこと? うーーん、なんだろう)
(最初は思いつくもの、なんでもテーマにしてみるといい。どうしても浮かばない場合は、「自分に欠けているもの」、で考えてみるといい)
(欠けているもの……。私に、欠けているものは……。お父さん……)
私がそう考えた瞬間、Mさんの動揺が、私に伝わってきた。
(Mさん、どうしたの?)
(いや、亡くなった父親をテーマに、というのは、さすがに今のお前には重すぎると思ってね。他にないかな、欠けていると思えるもの)
(そうね……。私に欠けているもの、ただし、お父さん以外で。携帯電話、新しい靴、かわいいカバン、就職先、やさしいカレシ、なんでも話せる友人……)
考えているうちに、涙が出そうになってきた。私はなんて不幸なんだろう。欠けているものばっかりだ。本当に涙が出そうになって、あわててハンカチを取り出そうとしたその時……。
「おい、大丈夫か?」
声をかけたのは、後ろの男子だった。振り返ると、私のことを心配そうに見ていた。涙をぽろぽろとこぼしながら、私はかろうじて、「大丈夫」と答えた。
(いや、大丈夫とはとても思えないな)
Mさんが、心の底からため息をついた。
男子には「この涙は花粉症によるものです、だから心配しないで」と告げて、私は小説に集中することにする。
(Mさん、私に欠けているものは、私にとって悲しすぎるよ。欠けてるものが、多すぎるんだよ)
(そうでもないかもしれない。例えばお前はさっき、カレシはいないと言った。友人もいないと言った。だけどこの後ろの男子のように、お前を気にかけてくれる者は、存在するんだ。要するに気の持ちようなんだと、俺は思う)
(そうかな?)
(ああ、たぶん。小説と同じで、人間関係だって、無理をする必要はない。少しずつ、少しずつ構築していけばいい。どうしても駄目なら、それでもいいと思う。何か一つでも才能があれば、人は許されるんだ。例えば小説の才能とかね)
(許される? 誰に?)
(神に。あるいは女神に。理解できないかもしれないが、結局人間とか、神の存在する意味というのは、「新しい物を生むこと」、に尽きるんだ。神はそれを期待し、俺達はそれにこたえる。だから俺達は、生きていられる。もし俺達人間が、「創作」という活動をやめたなら、神は人間を滅ぼし、次の世代の生物に、地球を支配させるだろう。俺たちは、クリエイトするからこそ生かされている。逆に言えば、それ以外のことには、あまり神は興味はないんだ)
(ふうううううん……)
(さあ、だいぶ時間が経ってしまった。そろそろ手本を見せよう。今は理解しなくてもいい。感じるんだ。俺の思考を、俺の感情を、俺の息づかいを。まずテーマは、「人間関係」。お前が苦労しているものだ。俺はそこに、ひとつの解を与えることにする。「人間関係より、大切なものなどいくらでもある」 わかるな? お前にはわかるはずだ。そして次に、精神を集中する。これが俺の、集中のためのポーズだ)
(え……)
私の右手が勝手に動き、ある形を作った。それに合わせて頭の中に、小さく高い、何かの響くような音が鳴り始めた。
きゅいいいいぃいぃいいいいいいいぃいぃいん
(なんなの? この音)
(「琴線に触れる」、という言葉がある。何かの事象が、ある人の心に共鳴、感銘を与えること。その共鳴のための、アンテナみたいなものが、人の心には存在する。今その感受性を高めたんだ。その効果は、音だけじゃないぞ。手を見て見ろ)
(あ!!)
私の右手の回りを、何かが包み込んでいるのが見えた。白、ピンク、黄色、黄緑、そういった色たちが、私の右手をもやっと包み込んで、ゆっくりと回転している。その色は、手から遠ざかるにつれて、薄くなるんだけど、その色の途切れる先端から、丸く白いものが、ぽろり、ぽろりと落ちて、ゆっくりと下に落ちて行き、机にふれると消えた。
(これは、何なの?)
(オーラだ。あるいは霊気とも呼ぶ。これを使うと、五感では感じられない現象も、感じ取ることが出来るようになる。聞こえ、そして見え、そして感じ取れるのだ)
(感じる?)
きぃいいいぃぃいいいいいん。
何かが私の心を優しくくるむ。お母さんと一緒にいるときの気持ちとも違う、Mさんに触れられたときとも違う感覚。癒し、っていうのかな。心が、緑色の光に照らされる感じ。
(うん、感じる。暖かい光)
(よし、その感覚のまま、もう一度考えてみよう。お前を悩ます「人間関係」。クラスの中で、お前を一番苦しませているのは、誰だ?)
(誰だろう。男子……、女子……、違う……。先生? 違う。 私を一番苦しめているのは……、私?)
かちゃかちゃかちゃ、と私の手がキーボードを叩く。私にはこんなスピードで、キーボードを叩くことは出来ない。Mさんがやってるんだ。すごいスピード。
(そうだ、そしてお前は気づいたはずだ。お前はそんな関係を、変えることが出来ると。どうやってそれに気づいた?)
(私は、少し勉強しようかな、と思った。教科書を開いて、前を見た。先生の顔を。ただそれだけ)
Mさんのキーボードを打つスピードが、さらに速くなった。
(最後に、お前にはもうわかったはずだ。お前に本当に欠けていたものは、なんだったのかを。お前が変わるきっかけとなったものは、なんなのかを。それは、何だったかな?)
(それは……、勇気……。あとは興味、とかかなぁ)
(そうだ。正解だ)
Mさんのキーボードを打つ手が止まった。Mさんが言った。
(目を開けて、ディスプレイを見て)
(あ……)
私はいつのまにか、目を閉じていた。ディスプレイには、びっしりと文字が書かれた窓が開いている。
(これって……、すごい……)
「お前、すごいな」
「え!?」
さっきの男子が、私の横で、食い入るようにディスプレイを見つめている。私からマウスを奪い取って、くるくるとスクロールさせて、小説を読んでいった。
「なんか急にタイピングを始めたと思ったら、これかよ。お前何者だ?」
男子がこちらに向いた。目がきらきらと光っている。私は顔が赤くなるの感じて、手で顔を覆って机に伏せた。
(違うんです違うんです。これは私が書いたものじゃないんです。Mさん助けてーー!)
照れて顔を上げられずにいる私に、Mさんがすかさず言った。
(大丈夫、これは正真正銘、お前の考えたストーリーだ。俺はお前に問いかけて、発想を促しただけ。俺の問いへのお前の反応や、イメージを、いい感じに文章化しただけだよ)
(そう、なの? その「いい感じ」が難しそうなんだけど……)
「う、うん、私が書いた。今書いた。一人で書いた」
「あ、ああ、わかってるよ。でも俺の質問は、何者かっていうことなんだけどね」
「あ、私はR。3年C組。あなたも3年生?」
「R? お前がRか。噂は聞いたことあるけど、全然イメージ違ったよ」
ああ、この人も私のことを知っている。私って、どんだけ有名人なんだろう? 中学校の時に荒れていて、毎日家を飛び出して警察に補導されて母に迷惑をかけていて……。でもそれだけよ……。その前の私は……。思い出そうとしたけど、その前の記憶には、闇しか見えなかった。
「ごめん、噂なんて関係ないな。俺全然気にしないし。正直言うと、俺も中学の頃荒れてたし」
「そうなんだ。あ、この席っていつも空いているの? 何か知ってる?」
「ああ、だいたい空いてる。ちょっとした怪談があるからな、そこの席には」
「え、怪談?」
「うん。よくある学校の怪談のひとつなんだけど、なるべくなら使わない方がいい。そこにはホントに出るからな、危険なお化けが」
「ふうん……」
「その小説、印刷してもらっていいかな。読ませたい人がいるんだ」
「ええ!? どうしよう……」
(Mさん、どうしよう)
(別に問題はないと思う。この作品が、俺のものであると気付く人なんていないだろうし、お前にも、一週間もすればこの程度の作品は、書けるようになる)
(わかった)
「いいよ。ちょっと待って」
私が印刷処理をすると、男子は、ゆっくり立ちあがって、プリンターに印刷物を取りにいった。
「ありがとう。俺昼休みはだいたいここにいるから、よかったらまた話そう。じゃあね」
「う、うん」
(ちょっと予想外の展開だったが、まあ、このような時間も必要だ。小説の書き方は、だいたいわかってもらえたかな?)
(うん、ありがとう、よくわかったよ!でも私に書けるかどうかは、やってみないとわからないね。それにあんなスピードでは、絶対無理)
(そうだな。俺はさっき3分で書いたけど、初心者は、1時間、2時間、数日かけたりすると思う。まあ、今は感覚さえつかんでもらえればそれでいい。さらにいえば、それがお前の自信につながればね)
(うん)
自信……、今まで私とは無縁だと思っていた、その言葉が、少しだけ身近に感じられるようになった、気がした。