SUN -Two small fragments-
学校からの帰り道は、しとしと雨が降っていた。
今朝はぼくの住む街全体が雪景色に包まれ、雪も降っていた。けれど、昼休みからは雨が降り出して、今ではせっかく積もっていた雪もすっかり融けている。
せめて日が暮れるまで、雪景色を楽しんでいたかったな。何とも言えない物寂しさを感じながら、ぼくは黒い傘を手に、川沿いにある小道をとぼとぼ歩いた。時折吹く冷たい風が、ジャンパーを着たぼくの身体を震わせる。
ゆっくり歩きながら、ぼくは道の両脇に並ぶソメイヨシノの樹を眺めた。春になれば桜の花が一斉に咲き誇り、通学路の歩道にはきれいなピンク色の絨毯が敷かれる。枝についているつぼみのようなものを見て、ぼくはまだ見ぬ桜の風景をぼんやりと想像する。
ふと、視界の隅に長い黒髪が揺れるのが映った。目を凝らして見ると、ソメイヨシノの樹の下に女の人が立っている。
ぼくより少しだけ背が高いその人は、近くの中学校の制服を着ていた。大きなリュックを背負ったまま、薄いピンク色の傘を両手に持ちながら、頭上の桜の枝をじっと見つめている。何を見ているんだろう――そう思って空を見上げた瞬間、ぼくの右足は地面にあった深い水溜まりを思い切り蹴った。あっ、と声を上げるよりも早く、バランスを崩したぼくの身体は前のめりに倒れ、そのまま水溜まりへとダイブしてしまった。
「あいたた……最悪」
腕と膝に感じる痛みと、濡れたジャンパー越しに伝わる水の寒さに、ぼくはたちまち嫌な気分になった。
寒い。早く家に帰りたい……恥ずかしい。そう思いながら、ぼくはその場で半身を起こした。濡れた顔を拭って前を見ると、桜の樹の下に立っていた女の人が、ぼくのところへ駆け寄ってくるのが見えた。
やっぱり見られてたのか。ぼくは、どうしたらいいのか分からずに女の人から目を逸らす。すると、目の前に白いハンカチが差し出された。ぼくが顔を上げると、女の人は心配そうに僕の顔を覗き込んだ。
「きみ、大丈夫? ほら、これ使って」
ぼくは呆然としたまま、その場でどうにか、ありがとうございます、と口を動かす。どういたしまして、と女の人も微笑んだ。ハンカチを受け取って、自分の顔を拭く。乾いた布の感触に、ぼくの頬は少し温かくなった気がした。
「ありがとうございました。これ、お返しします」
一通り顔を拭いたところで、ぼくは女の人にハンカチを差し出す。女の人は少し濡れたハンカチを受け取ると、ぼくの顔を見て語りかけた。
「ちゃんと前を見て歩かなきゃ、危ないよ」
「ごめんなさい……でも、気になって。その、お姉さんがどうして桜の樹を見てたのかな、って」
「ああ、それは――その」
ぼくの質問に答えようとして、女の人は困ったように目を泳がせた。白い手に握られた傘の柄が左右に動くのに合わせて、ピンク色に開いた傘布がくるくると回る。やがて、意を決したように女の人は唇を動かした。
「ねえ、きみはさ、その。宇宙人って……信じる?」
えっ――ぼくが答えを言い澱む間に、女の人は言葉を続ける。
「わたしは信じてるよ。だって、実際に会ったことあるから。と言っても、エイリアンみたいな怖いものじゃなくて、白いハムスターみたいな宇宙人だったんだけどね。それで、そのハムスターみたいな宇宙人と初めて会ったのがこの樹の下だった。一年くらいは一緒に暮らしてたんだけど、いろんな理由で離ればなれになっちゃって……だけど、いつかまた会えるかな、ってこの樹を見る度に思うんだ」
そこまで話したところで、女の人は照れくさそうにはにかんだ。『彼女』とよく似た表情をする女の人を前に、ぼくは思わず安心したような気持ちになる。
「だから、ついあの子の姿を探しちゃう……もう三年も経つのにね。ヘンかな? ヘン、だよね。うん。ごめんね、急におかしいこと聞いて」
「そんなこと、ないです」
ぼくの言葉に、女の人は驚いたように目を見開いた。ぼくは、自分の中にある気持ちを思い起こしながら、初めて会った女の人に意を決して声を上げる。
「ぼくも、同じ気持ちです。家族やクラスの皆に言っても信じないと思って、今まで黙ってたんですが、ぼくは月に行ったことがあります。一日だけでしたが、月で暮らす人たちとふれあうことができました。大変なこともあったけど、後悔はありません。だからもし、もう一度月に行くことが出来たら……その時はちゃんと伝えたいです。『あの人』に、ぼくの気持ちを」
言い進めるにつれて、ぼくは自分の顔が熱くなっていくのを感じた。恐らく紅潮しているだろう自分の両耳を両手でそっと隠すと同時に、女の人は穏やかに微笑みぼくに語りかける。
「そうだったんだ。きみにも、そんな経験があったんだね。自分の気持ち、か。ちゃんと伝えられるかな、わたし……ううん、きっとできるよね。だって三年も待ったんだし、言いたいことはいっぱいあるから」
女の人はそう言うと、空を見上げた。ぼくも、女の人につられて空を見上げる。さっきまで降っていた雨はいつの間にか止んでいて、雲の隙間から青空が見えた。差し込む太陽の光に目を細めながら、ぼくは南の空に浮かぶ白い三日月を見つける。
「今頃あの子、宇宙のどこに居るのかな……?」
空の彼方をじっと見つめたまま、女の人がぽつりと呟く。ぼくは、空にある三日月を見上げたまま、胸の中に秘めた自信をもって答えた。
「きっと、そう遠くないところからぼくたちを見守ってくれてると思います。だからいつか、必ず会えますよ」
ぼくがそう言うと、女の人はそうだね、と言って小さく頷いた。すると、視界に映る三日月が、一瞬だけ薄緑色に輝いて見えた。
刹那の温かい光を前に、ぼくは時間が経つのも忘れて空の一点を眺めた。女の人もまた、遠い空に笑顔を向けた。
きっと訪れる、再会の時を信じて。
SUN -Two small fragments-/Fin.