hello.goodbye summer⑧
幸い、私の腹を貫いたナイフによる怪我は急所を外していたとはいえ深かったらしく、全治1ヶ月で無事退院する事が出来た。その間、テレビの画面越しで何度か千倉を見かける事があった。正直、あの時から液晶を隔ててるとはいえ、千倉の姿を見る事に恐怖があった。千倉が、前のままのあいつじゃなかったらどうしようとか。仮に変わってたとして、その変貌に私の心は耐え切れるのだろうとか。自分勝手な事を考えてしまって。
「私は、その中から千倉を救おうとしているんだ。画面越しでそこまで恐怖してどうする。しっかりしろ、向日葵!」
そう言い聞かせて、仙堂先輩が教えてくれた千倉の出る番組を見て……私は凍り付いた。手からリモコンが落ちて、やけに響く音を立てながら落ちたのにも気付かない程、動揺してたのを今でも覚えてる。
「う。そ……」
いま、目の前で笑いながらインタビューを受けているのは。
ダレダ?
「嘘でしょ。千倉」
そこにいたのは、かつての千倉陽向ではない。ガラスのような瞳をし、仮面のような笑顔で笑う。千倉家の操り人形だった。それに、周りの人は何も気づいていない。なんで? こんなにも違うのに。なんで!?
動揺を隠しきれないまま、テレビ画面は千倉のピアノ演奏に移る。私は、1音聞いた瞬間、思わず口を押さえた。
「うっ!」
一般の人が聞けば、それはもう陽だまりにいるような心地よいのに、鳥肌が立つような壮大な印象を受けただろう。まさに天才。そんなテロップが画面に出ていたのが、見えた気がした。けど、私は違う音色に聞こえる。これは、狂音だ。耳障りなんて通り越して、音自体が狂気の刃となって鼓膜を侵食しているようだ。例えるなら、そう、漆黒の太陽。絶望と不幸と恐怖を孕んだおぞましい音色だ。それが、見えない毒となって、私に突き刺さってくる。
「ぁ……あああああ!!」
「空嶺さん! どうしました空嶺さん!!」
あまりの気持ち悪さに、ナースコールを押したが、間に合わずその場で食べたものを吐き出してしまう。それでも、この不快感と、脳を掻き回されるような音に、私は傷が開くのも気にせず、力の限り暴れ叫んだ。
あれ移行、本当の意味で、千倉に何があったのか分からない。けど、あの姿を見れば、嫌でも想像がつく。
あいつは、千倉に人格すらも洗脳されてしまう程の苦痛と絶望を味合わされたのだと。
「ごめん、ごめん陽向……」
涙が止まらない。あいつの羽は、もがれてしまったのだ。私のせいで、私があんな事を言ったせいで。それでも、せめて、鳥籠から出してやりたいと思うのは、ただの自己満足だろうか。
「いや、私はあきらめない」
例え、元に戻らなくても、あんな苦しい音を出さなくていい場所に千倉を連れてくことはきっと出来る。その為に、あく……いや、仙堂先輩に協力するって誓ったんだから。
新たな決意を胸に私は無事、退院をした。
「退院おめでとう」
「……どうも」
笑顔で向日葵の花束を持って現れた仙堂先輩に、私はなんとか作り笑顔を浮かべる。駄目だ。あの一件以降、この人のこと、確実に苦手対象として自分の中にインプットされてる。
当の本人は、分からっているにも関わらず、素晴らしい笑みを浮かべていたが。
「それじゃ、早速だけど美容室行こっか」
「……はい?」
「ほら、予約の時間になっちゃうからはやくはやく」
「ちょ!」
何がなんだか分からないうちに、あれよあれよと美容室に連れてかれ、髪ばっさりと切られた挙句、明るい茶色に染められてしまった。願掛け以降、切っていなかった髪を切られたショックとあまりの手際の良さに突っ込む暇もなく完成してしまったウルフカットの髪型に、私は渡された手鏡を呆然と見ることしか出来なかった。
「お疲れさまー。ふーん、結構似合ってるよ」
「ふーん、結構にあってるよ。じゃない! これ、どういうことですか!!」
「向日葵ちゃんになら似合うと思ったんだよね」
「これじゃ! 何処からどうみても男じゃないですか」
「うん、年齢よりも1回り位、成長の遅い胸のお陰もあってね」
「どこ見てるんですか!?」
「まぁ、それはいいとして」
「全く良くないんですけど」
「いいじゃない。これから男として千倉に潜入するんだから」
……はい?
「今、なんと?」
「男して、千倉家本家に潜入して」
「私が?」
「君以外に誰がいるの」
さも当たり前のように言われたけど、私の胸は平均よりもかなり小さいけど、一応女だし、いくら髪を短くして、染めたとしてもバレるのでは。
「大丈夫。男にしか見えないから。それに、向日葵ちゃんの存在はごく僅から人しか知らないから平気だよ」
「はぁ」
「……俺はあれ以降、陽向に近付く事を一切禁止されている。陽向が監禁されてる場所に入ることすら出来ない」
「そんな」
「他に陽向を千倉から出そうと協力してくれる人はいるけど、あのジジイが変に目を光らせてるから下手に動けない。だから、顔も割れてないし、何の疑いもかけられてない君が1番適任って訳」
「……」
「君には、皇太様の見習いお付きとして侵入してもらう事になったから、よろしく」
皇太の名前に、私が顔を歪めたのは、致し方ないだろう。
そこにいたのは、千倉皇太だ。彼は、千倉の親戚にあたり、千倉の一つ上の三年生だったりする。分家でありながら、本家である千倉に養子として引き取られているだけあって、腕前は確かだったりする。だが、性格は俺様で馬鹿だし、ピアノも千倉に比べれば、音は濁り、たまに耳障りな音を感じた。まるで、曇ったガラスのような音色だったのを覚えている。
そんなくすんだ音色のせいか、皇太はいつまで経っても千倉を追い越すことは出来ず、その劣等感のせいか、千倉に酷い意地悪を良くしてくるのだ。正々堂々としてればいいのに、姑息な手を使ってくる皇太の事を、私は正直気に入らなかった。千倉自身は、皇太を全く相手にしてなかったけど。
「なんで、私が皇太の世話しなきゃいけないのよ」
「いい感じのポジションがそこしかなかったんだから、我慢して」
「……」
「俺は分家の世話係まで降格させられたから、本家の見取り図と協力者の名前の名簿しか渡せない。けど、陽向に万が一のことがすぐに連絡してくれ」
「……私にもしもの事があったら?」
「その時は、自分でなんとかしろ」
なんという、対処の違い。けど、なんとなくそう来ると思っていた。
「それじゃ、俺はここまでだから……あとは頼んだよ」
かちゃりと伊達眼鏡を付けられ、ぽんと頭を撫でられた。何か言ってやろうかなと思ったけど、やめた。だって、きっと千倉を1番助けに行きたいのは、仙堂先輩だって嫌でもわかる。けど、強行してもしも陽向の身に何かあったらと考えると、動くに動けなかったのだろう。あの音色を聞いて、苦しみ、後悔と懺悔を繰り返したのは、目の前の彼も同じ。
だからこそ、ここではこの言葉だけで充分だろう。
私は大きく息を吸い込むと、仙堂先輩の目を見て、はっきりと言った。
「必ず、陽向を連れ戻します」