hello.goodbye summer⑥
「おーい」
「んー」
「起きて」
「もうちょっと……」
「起きて向日葵」
「ひゃい!」
ふっと耳に生暖かい風を感じて、思わず跳ね起きる。この起こし方をするのは1人しかいない。
「ひゅーくん! この起こし方やめてって言ったじゃん」
「ごめんごめん」
「全然ごめんって思ってない」
「だって、この起こし方だと、向日葵可愛いし」
「なっ!」
思わず、ぽかっと彼を叩くと、ほら可愛いと頭をなでられた。本当に彼には敵わない。というより、いつの間に寝たのか
。辺りを見回すと、日が沈む所だった。慌てて時計を見ると、もう最終下校時間ぎりぎりだ。
「千倉は?」
「まだ寝てるよ。昨日は色々と酷かったし」
「酷かった……?」
何かあったのだろうか? もしかして、千倉の熱とも関係があるのだろうか。
彼は暫く黙っていたが、意を決したように口を開いて教えてくれた。
驚愕の事実を。
「陽向ね。昨日練習中にミスをおかして、裸のまま氷風呂に沈められたんだ」
「っ!?」
「普通に入ってるだけならまだ良かったけど、罰だって顔を呼吸が止まるぎりぎりまで水面に押さえ付けられて、上げては押し付けられてと続けられたせいか、酷く疲弊して」
「なっ…」
「けど、コンサートや取材以外で学校休めば、どんな仕置きをされるか分からないから、出てきて今に至るって感じかな」
今、なにを言われたのか分からなかった。罰? 氷風呂?水面に顔を押し付けられた?
「ひゅーくん、千倉って」
「陽向本人は、当たり前って思ってるよ」
「っ!?」
「けど、嫌でもわかる。これは異常すぎるって」
「なら、警察とか!」
「警察の幹部には、千倉一族の息がかかった者が沢山いるから、仮に通報出来ても、取り合ってくれない」
仙堂先輩の言ってる意味がやっとわかった気がした。自分達にはどうすることも出来ない。なにも力になれない。
それはそうだ。まさか、一族ぐるみの事なんて、だれが想像するか。
「陽向が僕から離れたがってるのは、これ以上、僕に苦しい思いをさせない為だと思う。あの子は、とても優しい子だから」
「え?」
「陽向の痛みの半分は、取り憑いている僕にも反映されるから。実際そのお陰で、陽向は生きてると言っても過言じゃない。実際、1回死にかけてるし」
「まさか、10年前のって……」
「誘拐は実際あったよ。けど、促したのは、陽向の祖父であり、千倉家当主の千倉雄太郎。あの時の陽向は、何かと反抗的だったみたいだから」
「千倉の両親は! なにも言ってないの!?」
「陽向の両親は……既に亡くなってる」
「っ!」
「……二人共、とても有名なピアニストであり、母親の方はバイオリニストだった。けど、あの人は、ピアノ以外の楽器をただのガラクタとしか考えていない。だから、子供が産まれて暫くしたら、母親を家から追い出そうとしたんだ。それに反発した父親が、子供と母親を連れて逃げようとした。その時の事故で父親と母親は命を落とした」
「……」
「幸い、子供は一命を取り留めたけど、そこからは千倉の首輪を嵌められ、飼い殺し状態だ。虐待同然のピアノレッスン。束縛された環境。息苦しい程の重圧。それを受けているうちに、陽向の中ではいつの間にか当たり前になってしまった」
「ひどい……」
音楽は、無理矢理やさせるものじゃない。楽しむためのもの。それなのに、こんな酷いことして……音楽を汚しているとしか思えない。
「それじゃ、あの太陽のようなピアノは仮面で、本当の千倉の音色はあの辛く、氷のような音色?」
「……うん」
それを聞いてやっとわかった。例の曲を引いた時に感じた微かな違和感。楽譜の間違いもあっただろうが、それ以上に、あの音色が千倉の本当の音色じゃなかったからだ。
その事実に愕然としていると、そっと手を握られた。顔を上げると真剣そのものの彼の瞳と目が合う。
「お願い向日葵。陽向を救って」
「え?」
「陽向はもう、限界を大幅に超えてる。このままじゃ、心が死んでしまう」
「けど、私」
「向日葵なら、出来る。……だって、あの飛雅の、音楽を愛してやまない男の血を引いた子だもの」
「ひゅーくん?」
なんで、彼が死んだ父親の事を知ってるのだろうか……?
「まさか、記憶が」
「うん。戻ってる。陽向に取り憑いたあの日に。今まで黙っててごめんね」
彼の記憶が戻った。それは、嬉しい筈なのに、彼の哀しそうな笑みを見ると、その思いは簡単に吹き飛んでしまった。
「僕は……。君のお父さん、千倉飛雅の友達だよ」
「ひゅーくんが、お父さんの友達?」
「飛雅は、向日葵が産まれる少し前に、千倉のしきたりに嫌気がさして、君のお母さんと一緒に千倉の家を駆け落ち同然で出ていったきりだったけど。まさか、その後産まれた子供が、向日葵だったなんてね」
そういえば、私、父方の祖父母に会った事がなかった。てっきり死んでいるものと思っていたけど、まさか、こんな形で事実を知るなんて。
「けど、なんでひゅーくんがそれを知ってるの?」
「……この前のお盆に、飛雅に会った」
「っ!?」
「そこで君が、千倉の家の子だって知った」
「お父さん……」
「飛雅は、君を千倉から守ってくれと懇願してた。千倉に関わらせないでくれって。なのに、僕は、僕の都合で君を利用しようとしてる」
「……」
「ごめん。向日葵。ごめんね……」
「ひゅーくんが謝ることじゃないよ」
それに、千倉の力になりたいと思ったのは、私の意思だ。お父さんには悪いけど、私は例え危険があっても、乗り込むべきだと思ってる。
千倉家の本家に。
「話してくれてありがとうひゅーくん」
「ううん。お礼なんていらないよ」
「けど、ひゅーくんのお陰で原因が分かった」
あとは、どうするべきか。
「っ! 向日葵!!!!」
「え? っ!!!!」
突然の彼の鋭い声に、何事かと顔を上げた瞬間、バチバチという耳障りな音と共に、体をとてつもない衝撃が貫いた。意識が闇に落ちていこうとするのが手に取るように分かる。
「話は全部聞かせてもらったよ。まさか……向日葵ちゃんがあの音楽に愛されてる男の子供だったなんて」
「仙堂せ……ぱ」
「向日葵になにをするんだ!」
そこにいたのは、仙堂先輩だ。その手には、火花を散らすスタンガン。それを押し付けられたと気付いたのは、少したった後だった。
彼は、私を守る為に飛び掛ったが、まだ体調が優れないのか、壁に叩きつけられた後、腹にスタンガンを突き付けられていた。
「かっは……!」
「動かないで。彼女を差し出せば、俺もお前もこの地獄から開放されるんだから」
「そんな開放のされ方、望んで……ない!」
「お前が望んでなくても、俺は望んでる。お前と共に自由の世界へ旅立つ事を。その為なら、どんな犠牲も払うって。それに、たかが数ヶ月のほんの少しの時間しか共にしてない女なんか、どうなろうと気にしなくてもいいだろ」
霞む視界で見た仙堂先輩の瞳は、恐ろしい程に冷たくて、怖い。まるで、私をその場の石ころとしか思ってないような感じだ。
「ぁ……」
「陽向の事知りたいって言ってたし。同じ境遇になれば嫌でもわかるから、良かったね」
「せんど……せ」
「君を本家に招待するよ。空嶺向日葵。いや、千倉向日葵様と呼んだ方がいいかな?」
「ぁ……」
「迎えは呼んだから、それまで少し寝ててね」
再び体に衝撃が走る。完全にシャットアウトする意識の中、悲痛に私の名前を叫ぶ彼の声だけが、鮮明に耳に残っていた。