透明人間
S博士は、研究所である薬の開発に成功した。その薬というのは、身体を透明化させることができるというものだった。
無論、学会に発表して偉大な称号を得ることも考えたが、まずは自身が使用したいという衝動にかられ、試しに使ってみることにした。
しかし、その薬を飲んでみたところで、自身ではその変化に気づくことはできない。
効果を知りたいS博士は、その足で街へと繰り出した。
すると、どうだろう。
S博士がやってきたのは、大規模な都市にある交差点であり、一日中絶えず人が行き交っているのだが、誰一人として自身の存在に気がつかない。
歩道で寝そべってみたり、サラリーマンの肩をポンッと一度叩いてみても文句を言われることはなかった。
なんと、自由な世界なのであろうか。
普段から、学会や研究などで忙しなく働いていたS博士にとってまさに天国とでもいうべき状況だった。
今頃、研究所では自分がいなくなって助手たちが慌てて建物内を探し回っていることだろう。
しかし、絶対に気づかれることはないのだ。
その日中、S博士は誰にも気づかれることのない自由を謳歌した。
お金を払うことなく、勝手に映画館へと入館して何本もの映画を鑑賞したし、レストランでは、色んな人が食べている料理を少しずつつまみ食いしていった。
これほどまでに楽しい時間を過ごしたのは何年ぶりだろうか。
――ああ、楽しい。もう日常に戻りたくない。
S博士は、そう考えるまでにこの生活が楽しく感じていた。
その時だった。
急に胸が苦しくなり、その場に倒れ込んだのだ。恐らく、持病の心臓病だろう。
しかし、S博士が現在いる場所は大都会のそれも沢山の人間が絶えず行き交う交差点だ。
すぐに誰かが自分の状態に気づいてくれるだろう。
苦しい。はやく、はやく誰か救急車を呼んでくれ……。
S博士は苦しみながら必死に助けを呼ぶ。
日ごろ、誰にも干渉されることなく生きていきたいとばかり思っていたS博士がこの時初めて誰かに気づいてほしいと願った。
だが、一向に気づいてくれる人間は現れない。
それもそのはずだ。先ほど、自身が開発した透明化する薬を飲んだのだから。
S博士は、意識がもうろうとする最中、そのことを思い出した。
そして、S博士は二度と誰にも気づかれることのない存在となった。