「失くしもの」
「あ、やっべ、なくしたかも・・・」
男はそう呟いたのは、駅の改札を出て、駅前広場に到着した時だった。
男はすぐにポケットを確認した、いつもそこに携帯電話を入れているからだ。
「携帯は・・・、うん、大丈夫だ。・・・って、あれ?」
男は不思議に思った、なぜ自分は探し物をしているんだろう、と。
仕事に必要な書類、妻から今朝もらったばかりの弁当、愛読書、etc...などはバッグに入っている、落としたものはないはずだ。
しかし、男には確信があった。
「どこかに大事なものを落としたはずだ。心なしか体も軽くなっている気がするし、まあ、あくまで感覚的な意味だけど」
「とりあえず、駅に戻って探してみよう、見つけたら思い出すかもしれない」
「落し物?、さあ?、今ここにあるのは女物のハンカチと汚い靴下ぐらいですよ?。まあ、まだ届けられていないだけかもしれませんし、一度探してきてみては?」
そう言って、駅員は特別にタダで改札を通してくれた。
男は、なぜ駅に靴下が?、と疑問に思ったが、仕事があり、急いでいたので別段気にしなかった。
・・・軽く尿意を感じていたせいでもあるが。
「さっき俺が降りたドアの場所は、っと」
電車から降りた場所が今のところ一番怪しいので、右端から順に見てまわる。こうしてよく見るといつもは綺麗だと思っていたところも汚さが目立ってくる、黒いシミやガムが捨ててあったり。
いつも見ていて知ってるつもりでも、新しい発見ってあるもんだなあ、と考えていると、見知らぬ女性とぶつかった。
女性は、男より頭一つ分身長が低いので男は女性が向こうから歩いてくるのを気づかなかったのだ。
「あっ、すみません」
「あっ、いえいえ、こちらこ・・・そ・・・」
女性は、はっと顔を上げると表情を固まらせた。目を見開き、口を閉じようとしない。まるで、怖いものでも見たみたいだ。
女性は我に返ると同時に、俺から露骨に目をそらし、そそくさと立ち去っていった。
立ち去っていく女性の後ろ姿は、照明のせいかとても怯えているように見えた。
「いったい、なんなんだよ・・・」
俺がそんなに怖いのかよ、男は女性にそう言ってやりたかったが、探し物の途中である、早く探さなければ。
今は俗に言う通勤ラッシュ時、しかしここ周辺は目立った会社がないためか、満員電車といえどもそこまで窮屈さは感じられなかった。
新しく電車が入ってきて、男を後ろから風が押す。男は、早く会社に行かないと、と焦っていたが、いかんせん焦れば焦るほど尿意が増していく。せめて探し物を見つけてからトイレに行こうと思ったのだが、膀胱はそれを待ってはくれないようだ。
「チッ、こんな時に・・・」
早足でトイレへと向かう、が、不幸には不幸が積み重なるもので、トイレに入ることは叶わなかった。
『このトイレは只今清掃中です』の文字が男に深々と突き刺さる。
改札を出てからでもトイレはあるのだが、また駅員に改札を置けてもらうのはいささか気が引ける。いや、もしかしたら今度は改札を開けてくれないかもしれない。そうなれば『失くしもの』を見つけるのは難しくなる。
「はぁ・・・、仕方ないか」
男はさっき通った改札に行き、また駅員に事情を説明して改札を通してもらった。
駅員は「別に構いませんよ」と言っていたが、男は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「トイレ、トイレ・・・」
男は目線を上にあげトイレの道案内がないか周りを見渡した。すると、左方10~mぐらい行ったところに『トイレ→』の文字が見えた。男は早歩きでトイレを目指した。
幸いなことにこのトイレは清掃どころか誰も入ってなかった。
「やっとできる・・・、ふぅ」
男は液体を体内から体外へ出す、快感にも似たような感覚を味わいながら、周りを見渡した。
このトイレには小便器が三つ、個室が二つあるようだ。別に知ったところで得にはならないが。
と、男が考えてるあいだに液体は放出し終わった。
「このトイレ、なんか静かだなぁ、幽霊でも出そうな雰囲気あるなぁ・・」
トイレには人の気配はしない、が、駅の隅々まで響いているはずの話し声すら聞こえない。まるでここだけ駅から隔離されたみたいに。 子供の頃は公園にあるトイレにはひとりで入りたくなかったなぁ。と、男は昔のことを懐かしそうに思い出していた。
鏡があった。
トイレの入口の手を洗うところに。
しかし、だからといって不思議なことではない。トイレは「化粧室」と言われるように、身だしなみを整える場所でもあるのだ。鏡がある程度で驚く必要はない。
だが、男は違和感を感じていた。『自分』を写しているであろう鏡に。『真実』を写すと言われている鏡に。
「なんだよ、この感覚・・・」
「クソ、急いでいるってのに」
そこで男は気づいた。この鏡は傷つき、汚れているのだ。となりを見ると、みんな一様に傷つき、汚れ、歪んでいた。
男は、こんなことにも気づかなかったのか、と自分に言い聞かせながら急いで手を洗い、トイレをあとにした。
しかし、男は気づかなかった、違和感の原因は汚れや歪みではなく、『鏡』に『自分』の姿が映っていなかったことに。
「すみません、さっきの者です」
男は駅員に話しかけた、しかし、駅員は返事をするどころか男のほうさえ見ようとしない。男はしきりに話しかけるが結果は同じだった。挙げ句の果てに男よりあとに来たはずの女子高生の話まで聞いていた。
俺みたいなおじさんより、キャピキャピのjkのがいいのかよ!、と心の中で毒づいていた。「おじさん」を「おっさん」と考えなかったことはせめてもの抵抗だった。
結局、無許可で改札を通った。駅員は何も言わず遠くをみていた。
「なんなんだよ、ったく、通してくれるんなら最初から言えよ・・・」
この時、男はもう探しているものが何だったのか考えることもせず、ただただ使命感だけで動いていた。
さっき見知らぬ女性とぶつかった場所に来た。するとなんだか人溜まりができていたが、男は気にせず探し物を続けた。
あと、三つでめぼしい場所が調べ終わるというとき。変化が起きた。
向こうから、つまり俺がさっき歩いてきた方向から駅員が走ってきた。さっき男の話を一向に聞こうとしなかった駅員だ。
「あ、」
その駅員を見て男は、この駅には改札が二つあり、駅員も常時二人以上いることを思い出した。
「だからさっき、最初の人は親切にしてくれたのに、後の人はぶっきぼうだったのかぁ」
男は相手にされないだろうとはわかっていたものの、一応、落し物は見ませんでしたか、と聞いた。
案の定、駅員は男に見向きもしなかったが、なんだか切羽詰った表情でかけていくので、男は駅員がどこに向かっているのかが気になった。
すると、駅員はさっきの人溜まりに向かっていった。男は、何か事件かもしれない、もしかしたらこれを遅刻の口実にできるかも、と、邪な考えを浮かべながら駅員についていった。
「ちょっとすみません、少し・・・」
駅員がやじうまをかき分けてくれたので男は人溜まりの中心をはっきりと見ることができた。
人の熱を直に感じる中、男が見たものはとても衝撃的だった。
「うっ・・・」
死体。
電車に轢かれたのだろう。胸から上がぐしゃぐしゃにつぶされている。
ところどころ骨や内蔵がちぎれちぎれになりながら散乱していて、胴体から腕が切り離されていた。
胴体や腕から血液が不思議な曲線を描きながら線路を赤色に染めている中、頭は遠くに転がっていた。顔は半分以上潰れていたため、判別することはできなかったが。着ている服や体型からさっするに、この死体は男性のようだ。
しかもスーツ姿、通勤中のサラリーマンなんだろう。
「ううぅ、ぐぅぅ・・・」
男が死体を『男性』と認識した瞬間。
男の体に激痛が走った、否、走っている。
心臓の音がガンガンと脳を揺さぶる。全身の毛穴から吹き出すように汗がでる。
男は何がどうなっているのか考える余裕さえなかった。
体が四方に引きちぎられる感覚があったからだ。本能か、男の性格ゆえか、このような状況でも叫ぶことだけはかろうじて耐えることができた。
が、体の輪郭がぼやけていく感覚が襲ってくると、ついには足で体を支えることができなくなった。となりの人にもたれかかろうと手を伸ばすが、距離感がくるってしまったのか、伸ばした手はそのまま空を切る。
突き刺すような冷たさのある床タイルに手のひらをつき、どうのにかしてこの痛みを耐えようと四苦八苦する。
四つん這いになり、意識が薄れていく中、考えていたことは、妻と、今はもういない息子のことだった。
男には妻がいた、吸い込まれるような黒色の髪と、見てるだけで気持ちが和む柔和な顔つきは近所でも美人妻と評判で、男はそれを自慢にしていた。
しかし、去年、三歳になる息子が高熱を出し、病院に連れて行くも結局、あの世へ旅立ってしまった。医者が息子の病状を淡々と説明していたが、体の内側がえぐり取られたような虚無感の中、男が覚えているのは体温の無くなった息子の顔だった。寝顔にも見えるその表情は、今からでもすぐに起きてきて、抱っこ、と、ねだってきてもおかしくないぐらいだった。
男は外聞もなく表情を歪め、涙を流しながら、ごめん、ごめん、と何度も繰り返し繰り返し謝っていた。
それから、妻は家にこもるようになり、心を閉ざし、ついにはうつ病になった。男はそんな妻に自分の苛立ちをぶつけることもあった。
「俺だって、俺だって、泣きたいんだよ!、叫びたいんだよ!、でも!、そんなことをしても息子は帰ってこないだろ!」
もちろんこんなことを妻に言いたいわけではない、が、感情をコントロールする方法を男は見失っていた。
そんな男に、ごめん、ごめん、と深い暗闇のような目に涙を浮かべながら謝る妻に、男は罪悪感と嫌悪感がないまぜになった奇妙な感情が、血液に溶け、体中を巡っていた。
そんな中襲ってきたこの痛み、男はストレスによって体にガタがきたと思った。
自分はもうすぐ死ぬ、せめて死ぬ前にもう一度妻の笑う姿が見たかったな。
視界が黒色と赤色で閉ざされようとするとき、男は死体のすぐそば、つまり線路に、手帳がころがっているのが見えた。
ちょうど顔写真と名前の部分だけ血が付いていなく、ここからでもギリギリ見ることができた。
「・・・似てる」
似ている、自分と。
手帳に写っていた顔写真には黒髪の天パー気味の男が写っていた。まるで男の双子のように瓜二つだった。
視界がぼやけているため文字など見えないはずだが、男ははっきりと死体の名前を見ることができた。
黒いインクで印刷されたそれは何かを表す記号のようだった。
男はその名前を見た瞬間全てを理解した。否、全て思い出した。
駅前広場、改札、見知らぬ女性、二人の駅員、違和感のあるトイレ。
そして、死体。
「ああ、そういうことか、俺が失くしたものって・・・・・・」
命・・・だったのか・・・。
そう呟いて男は目を閉じた。とても静かに、とても安らかに。
頑張って純文学風にチャレンジしてみましたけど、やっぱり難しいです。とりあえず読んでくれた方がたのしんでくれればなぁ、と思いながら書きました。
感想くれたりしたらとても嬉しいです!。