役立たず扱いされた結界技師、王都の城壁補修係だった俺は追い出されて気づいた。俺の力は神結界の修理だったので、今はこの星を守っている
俺は、子どものころから結界士になりたかった。
魔物を防ぐ大結界。
王都を覆う光の壁。
都市を丸ごと守る巨大陣式。
誰の目にもすごいとわかる、そういう仕事をするのが夢だった。
だから王都結界局に入れたときは、本気でうれしかった。
ようやく、自分の力を使えると思ったのだ。
だが、現実に回ってきたのは王都の城壁補修だった。
北門の継ぎ目を埋める。
西外壁の薄くなった膜をなぞる。
雨でにじんだ刻印を掘り直す。
朝から晩まで、ひび、ずれ、継ぎ目、薄れかけた線。
同僚たちは迎撃結界や広域索敵陣を任されていく。
俺だけが毎朝、壁に手を当てていた。
「お前、ほんとそれしかできないよな」
何度聞いたかわからない台詞だった。
「結界士志望っていうより、城壁の補修屋だろ」
「派手な術式は組めない、大規模展開もできない。局に置く意味、薄いよな」
「まあ、誰かはやらなきゃいけない雑用だ。ちょうどよかったじゃないか」
笑われても、言い返せなかった。
新しい陣式は組めない。
迎撃出力も低い。
巨大結界の展開もできない。
ただ、ひびを見ると放っておけなかった。
わずかなずれが、どうしても気になった。
それだけだった。
結界局の再編の日、局長は書類を机に置いたまま言った。
「レイン、お前は本日付で解任だ」
あまりにもあっさりしていた。
「王都結界局に必要なのは、広域展開と高出力を扱える技師だ。お前のように城壁補修しかできない者を置いておく余裕はない」
周囲の何人かが、露骨にほっとした顔をした。
「……そうですか」
「不満か?」
「いえ」
本当は悔しかった。
ずっと認められたかった。
自分にも結界士としての価値があると信じていた。
でも、その瞬間、妙にすっとした。
長いあいだ張りつめていたこころの糸が、ぷつりと切れたみたいだった。
結界士になる。
認められる。
見返す。
そうやって握りしめていた力が、するするとほどけていく。
王都を出た日の空は、高かった。
◇
職を失ったのに、不思議と気分は軽かった。
朝早く起きなくていい。
壁のひびを見て「お似合いだ」と笑われることもない。
せっかく暇になったのだから、俺は王都の外れの安宿にしばらく留まり、今まで読めなかった結界書を片っ端から読むことにした。
王都式結界。
古代の防護陣。
北方の氷結界。
砂漠都市の陽炎膜。
神殿の祈祷結界。
地方に伝わる雑多な守り札の理論書まで。
どうせもう結界局の人間ではない。
誰に遠慮する必要もなかった。
好きに読んで、好きに比べた。
すると、妙なことに気づいた。
どの結界体系にも、説明しきれない“ずれ”があるのだ。
王都式では理屈の合わない歪み。
古代式では前提にされているのに誰も説明していない継ぎ目。
祈祷式では「神意」とだけ片づけられている空白。
最初は気のせいだと思った。
だが、十冊、二十冊と比べるうちに、それらは同じ形をしているとわかった。
全部が、もっと大きな何かの断片に見えた。
「……なんだ、これ」
俺は紙の端に線を引いた。
王都式の欠落。
古代式の余白。
祈祷式の空白。
つなげると、ひとつの巨大な曲線になった。
その夜、宿の窓から空を見上げた俺は、息を呑んだ。
あった。
薄い。
だがたしかに、夜空に細い裂け目のようなものが走っていた。
見間違いではない。
壁の継ぎ目を見るときと同じ感覚でわかった。
あれは、ただの雲でも光でもない。
結界のずれだ。
翌朝、俺は王都の外れにある、使われなくなった古い監視塔へ向かった。
王都の外壁結界が街外れの守り札と接続していた名残が、まだそこに残っていると知っていたからだ。
塔の基部に手を当てる。
薄くなった刻印。
死んだように沈んでいる魔力の流れ。
だが完全には消えていない。
「……やっぱり繋がってる」
王都の城壁の線と、ここに残った古い守りの線。
さらにその先、空へ抜けるような、ごく細い流れ。
俺は息を整え、指先でその継ぎ目をなぞった。
いつも城壁でやっていたことと同じだ。
違うのは、見えている範囲だけだった。
押しすぎると崩れる。
足りないと戻らない。
ほんの少し、ずれた位置を元へ返す。
すると、空で小さく光が弾けた。
夜に見えた裂け目が、糸を引くようにすっと閉じる。
監視塔の上を渡る風が、一瞬だけ澄んだ。
「……閉じた?」
自分でやったのに、信じられなかった。
ただの城壁補修と同じやり方で、空のひびが閉じた?
そのとき、背後に気配を感じた。
振り返ると、白い衣をまとい、星みたいな光をいくつも散らした女性が立っていた。
妙に場違いなくらいきれいで、なのにひどく切羽詰まった顔をしていた。
俺は驚きのあまり、みっともなく口を開けたまま固まった。
彼女は今にも泣きそうな顔で、震える声のまま言った。
「やっと見つけた。上の継ぎ目が見える人……」
状況がまったくのみこめず、俺は口も閉じられないまま、ただ頷いた。
すると彼女は、縋るように俺の手を握った。
温かい。
少なくとも夢ではなさそうだった。
「お願い、助けて。もう……私の手には負えないの……」
俺はまだ何ひとつ理解できていなかった。
それでも、泣きそうなその声を前にしては、頷く以外の選択肢がなかった。
◇
少し落ち着いてから、彼女は自分のことを語った。
「この星の結界管理を任されている者、とでも言えばいいのかしら」
嫌な予感がした。
「あなた、王都の城壁を直してたんでしょう?」
「ああ」
「あれ、ただの城壁じゃないの。この星を包む神結界の末端なのよ」
俺は黙った。
「王都の結界も、神殿の祈祷も、古代の守り札も、全部つながってる。あなたが見つけた“ずれ”は、その継ぎ目」
彼女は俺の書き込みだらけの紙束を指差した。
「そこまで辿り着いたの、あなただけ」
「……じゃあ、俺が今まで直してたのは」
「王都の壁のひびじゃない。神結界の末端のずれ」
彼女はそこで、とうとう涙をこぼした。
「この世界、あと数年で壊れるの」
「は?」
「継ぎ目が限界なのに、下の人たちは末端の術式しか見てない。上位層の修理ができる人が、ずっといなかったの」
あまりにも話が大きすぎて、すぐには信じられなかった。
だが、さっき自分で空の裂け目を閉じたばかりだ。
なら、きっと本当なのだろう。
「お願い」
彼女は頭を下げた。
「助けて。このままだと、数年で全部裂ける」
俺はしばらく空を見上げた。
王都では壁の補修係。
追い出された役立たず。
だが、もし本当に俺が見ていたものが壁の先にあったのなら。
それなら、今まで信じていた力は間違っていなかったことになる。
「……わかった」
彼女が顔を上げる。
「助けるよ」
「ほんとに?」
「どうせ暇だしな」
彼女は呆れたように笑って、それから泣き笑いの顔で何度も頷いた。
◇
そこからの数か月は、人生でいちばん忙しかった。
神結界は、ただ大きいだけの壁ではなかった。
空の膜。
大地の深層を走る支柱線。
海流と連動する外周陣。
季節の巡りと噛み合う補助環。
全部がつながっていて、全部が少しずつずれていた。
俺は彼女――神さまと一緒に世界中を回った。
砂漠の上空に裂けた薄膜を縫い、
火山帯でねじれた支柱線を戻し、
極地で凍りついた循環環を解き、
海底神殿に沈んでいた要石を整える。
不思議なくらい、自然にわかった。
どこを押せば流れが戻るか。
どこを削れば全体が軽くなるか。
どの継ぎ目を先に直さないと、別の場所が裂けるか。
誰かに教わったわけではない。
ただ最初から、俺にはそれが見えていた。
王都では、城壁の外縁に出ていたごく小さな末端しか触らせてもらえなかっただけだ。
ある日、最大の継ぎ目が裂けた。
大陸の上空を横切る巨大な光の断裂。
そのまま放っておけば、空の膜が連鎖的に破れ、星全体の結界が崩れる。
神さまの顔が青ざめる。
「ここが開いたら終わる」
「だろうな」
「でも広すぎる……普通の修理じゃ間に合わない」
俺は裂け目を見上げた。
大きい。
だが、見えないわけではない。
裂け目そのものではなく、その両端にある“ずれの起点”が見えた。
そこを戻せば、全体が勝手に閉じる。
「下を支えてくれ」
「え?」
「この裂け目、破れてるんじゃない。噛み合いが外れてるだけだ」
神さまが息を呑む。
俺は空へ手を伸ばした。
王都の城壁で、ひびをなぞっていたときと同じ感覚だった。
ただ、今度は相手が空の端から空の端まで広がっているだけ。
ずれた位置を探す。
元の噛み合わせへ押し戻す。
ほんの少し、だが絶対に狂わない場所へ。
次の瞬間、星の外側を走るように光が巡った。
裂け目が、巨大なまぶたみたいにゆっくり閉じる。
空を覆う膜がひとつにつながり、淡い金の光がこの星全体を包んだ。
神さまはしばらく口を開けたまま固まっていたが、やがてその場でしゃがみこんで泣き始めた。
「滅びなくてすむうううう……!」
「泣きすぎだろ」
「だって、ずっと終わると思ってたの!」
その泣き声を聞きながら、俺は空を見上げた。
昔の俺は、王都の壁の上しか見ていなかった。
いや、見ようとしていなかったのかもしれない。
今は違う。
見える。
この星を包む、巨大な継ぎ目まで。
◇
世界規模の異変が収まったことで、各国はようやく「何かが起きていた」と知ったらしい。
空の裂け目。
突然静まった異常気象。
消えた海上の魔力嵐。
崩れるはずだった大地のひずみ。
その修復に関わった者として、俺は各国の王や結界機関の前へ呼び出されることになった。
もちろん、元の王都の王もいた。
玉座の間に通された俺は、以前とは比べものにならない上座へ案内された。
「レイン」
王は厳かな声で言った。
「そなたが成したことは、一国どころか世界全体を救う偉業である。ここに王国最高位の名誉結界技師の称号を与える」
金の杖。
紋章入りの外套。
結界院名誉顧問の席。
研究塔の使用権。
ついでに城ひとつ分みたいな褒賞金。
「……多くないですか」
「足りぬくらいだ」
王は本気だった。
その後ろには、元の結界局の連中も並んでいた。
局長。
同僚。
俺を城壁のひび埋め職人と笑ったやつら。
みんな、ほんとうに目が飛び出しそうな顔をしていた。
「ば、馬鹿な……」
「外壁補修係だったあいつが……」
「神結界の修理者……?」
局長など、今にも倒れそうだった。
俺はその顔を見て、少しだけ思った。
ああ、ざまあみろ、と。
でもその感情は、すぐに薄れた。
だってもう、見ているものが違いすぎたからだ。
王都の壁しか見えていなかった連中と、今の俺では、最初から立っていた高さが違った。
王が問う。
「何か望みはあるか」
俺は少し考えてから答えた。
「じゃあ、王都の城壁補修係を、もう少し大事にしてください」
玉座の間が静まり返る。
元の同僚たちの顔が、さらに気まずくなる。
「結界って、派手なところより継ぎ目のほうが大事なんです」
俺は肩をすくめた。
「そこを見下すと、そのうち本当に世界が壊れますよ」
王は深く頷いた。
「肝に銘じよう」
◇
そのあとも俺は、神さまと一緒にこの星全体の結界を見て回っている。
王都の外壁より、ずっと広い。
ずっと複雑だ。
でも、不思議とこっちのほうが性に合っていた。
「次は東半球の補助膜ね」
「休ませろ」
「だめ。そこ放っておくと七年後に裂ける」
「先に言えよ」
そんなやり取りをしながら、今日も空を歩く。
下を見れば、かつて追い出された王都が小さく見えた。
昔の俺なら、その小ささに傷ついたかもしれない。
でも今は違う。
ようやくわかったのだ。
俺が信じていた結界の力は、間違っていなかった。
ただ、使う場所が王都の壁では狭すぎただけだったのだと。
だから今日も俺は、世界の継ぎ目に手を伸ばす。
城壁補修係だと笑われていたこの手で、
今は、この星そのものを守っている。




