白鬼の裸体
時刻は午後1時43分。私が何処かに飲みに行こうと街に繰り出して、約20分が経過した。いつもと違う所に
行こうなんて浅薄な考えで、逆方向に進むのは全く
以て愚行だった。この時間でも明かりを絶やさない
商店街の様な場所を、見付けはしたのだが、飲食を
行える様な店は見当たらず、私は途方に暮れて
しまった。
(これならばもう、一旦家まで戻って、いつもの
店に行った方が良いな、、、、このタイミングで決断
しなければ、きっと意地になって、朝を迎える
まで歩き続けてしまうだろう。)
そんな事を考えて、私がクルリと振り向いたその時、
「そこの方、妾と共に、、、夜を過ごさないかの?」
妖精の歌声と聞き紛う程に美しい声を、私は後方から
掛けられた。
「、、、貴女は?」
私は問う。この街は特段、凶悪犯罪が闊歩する様な
危険地帯では無い。とは言え、やはり警戒心を皆無に
するのは不可能だ。
しかし、私はその女を視界に捉え、すぐに声を掛けて来た理由と、目的を察した。
(この女、売春婦か。)
女の着ているドレスを見れば、それは一目瞭然。
そして、売春婦とは同時に、もう1つの事実を示す。
この女は、元々「奴隷」だったのだ。
"ベイグリー・マルーサ"。ベグマルと呼ばれる事の
多いその会社は、現存する最後の奴隷貿易会社
である。圧倒的な権力を保有し、世界を我が物と
断ずるという愚行すらも、彼等にとっては愚行に
成り得ない。ベイグリー・マルーサは法を強引に
歪曲させ、合法的に誘拐を行える。また、同じ様に
して、誘拐した女子供の戸籍を抹消させる事が
出来る。それ故に、例え奴隷という立場から逃げ
果せたとしても、その先その者が歩める道は、
売春婦か死のみである。
「目付きが変わったぞ。、、、既に妾が何者であるかは、
理解したのじゃろう?その上で今妾は、主の答え
を求めている。」
「、、、貴女の事情は分かった。良いだろう、
貴女の夜を買わせてもらう。
、、、だがその前に、、、美味くて安い酒屋を紹介
してくれ。腹が減って敵わん。
、、、、、安心しろ、勿論奢ってやる。」
女は口を開けたまま、暫く固まってしまった。
「主、、、中々に面白い男じゃな。気に入ったぞ。」
気品を崩さぬまま、女は僅かに笑い声を上げた。
猫沼 馨
男。年齢は23歳。元々は裕福な家の者であったが、
両親の人間性に辟易し、18の時に家を飛び出した。
その後、紆余曲折有り、現在は外国で一人暮らしを
している。
色無鬼
女。年齢は24歳。色無鬼とは偽名。奴隷時代にある家に買い取られ、そこで酷い対応を受ける。現在はその
家から逃げ出し、売春婦として生きている。
「そうか。主の父母は、大金持ちであったか。
しかし、あまり褒められた人格では無かったと、、。
お互い、人間関係には苦労しとるのう、、、。」
女に導かれ入った店は、正に穴場であった。要望通り
美味くて安い。加えて、店中の雰囲気も暖かい、と。
最早常連の店をここに変えてしまおうかと、考える程であった。
「あぁ、ウチは代々"桃宮石"という
石を入手し、売り捌く仕事を受け継いで来た。
だが家では、毎日の様に何処かから、女の
苦痛に満ちた喘ぎが聞こえてきた。従者によれば、
ミスをした者に折檻を行う場所であるとか。
理由はどうあれ、女にあんな声を上げさせて
いるのだ。本当に、救いようの無い父母だ。」
酒のせいか、口がよく回る。しかし、私の饒舌も虚しく、その言葉は色無鬼には届いていなかった。
「、、、どうした?」
色無鬼は何も言わず、ただその腕をカタカタと震わせるだけだった。私に向けられる視線も、今までのモノとは明らかに違った。
「、、、ハッ!いや、、、すまぬ、、。何でも無い、、。」
何とか意識を取り戻し、色無鬼は辿々しく言葉を紡いだが、それ以上彼女の口から何か言葉が喋られる事は無く、私達はそのまま店を出た。
それから数分、ホテルに向かう道中で、色無鬼は完全に冷静を取り戻した。
「すまなかったの、、、楽しい宴席であったのに、、」
「気にするな、それより、、、」
"貴女は、私の両親に何かされたのか?"
私は次にそう尋ねるつもりだった。
「、、、何じゃ?どうかしたか?」
「いや、何でも無い。、、、忘れてくれ。」
しかし、声が出なかった。私はその質問が、彼女の
過去に巣食う心的外傷を、より鮮明に顕現させて
しまう事を恐れた。
ホテルの部屋に到着し、私は色無鬼に、先に風呂に
入らせた。その間、私は彼女について調べた。
どうやら、彼女はこの辺りでは有名な売春婦らしく、
その要因として、避妊具を用いない事が挙げられていた。妊娠を恐れていないのか、それとも、むしろ子供を求めているのか、彼女の心中は彼女にしか知り得ない。しかし私としては、孕んでしまった場合、病院が
元奴隷である彼女を受け入れてくれるのか、その心配が頭から離れなかった。
それから少しして、色無鬼が風呂から出て来たので、私も後に続いた。彼女は薄いバスローブだけを纏った、普通なら顔を赤らめてしまいそうな程に淫らな
格好であったが、その顔は平静そのものであった。
それを見て、私は僅かとは言えない悲しみを覚えた。
「上がった。」
その言葉を聞いて、色無鬼は部屋全体を鮮明に映す程であった光を、互いが淡く感じられる程度に弱めた。
「では、、、脱ぐが、引くなよ。」
私は、白鬼の裸体を見た。必然的な奴隷と売春婦の
掛け合わせ、覚悟はしていたつもりだが、やはり
実際にこの眼で見ると、息を飲んでしまう。
「、、、、」
彼女の体は、傷に塗れていた。特に臍から股座を駆ける縫い目には、思わず声を失った。
「、、、そうジロジロと見られると、流石に心痛む
のじゃが、、、。」
「あっ、、、すまない、、。」
謝罪の意味を込め、私もすぐに服を脱いだ。
「じゃあ、、、来るが良い、、。」
ベッドに寝転ぶ彼女の体に、身を乗せる。
若気の至り故に、学生の頃に女と目合う事は何度も
あった。今はその殆どを忘れてしまっている程に。
しかし、これを忘れる事はこの先の生涯一度も無いと、断言出来た。
「どうだったか?最大限に優しく扱ったつもり
なのだが、、、?」
行為を済ませ、共に風呂に入り終えた後、私は尋ねた。その声色には、僅かに不安が籠もっていた気が
する。
「フフ、愛い奴じゃの。安心しろ、主の慈愛は
聢と受け取らせて貰った。
、、、、ところで、主に今後の予定はあるかの?
もしも時間が有るのなら、来て欲しい場所が
あるのじゃが。」
今日は土曜日、明日は休みだ。それ故、答えは考えるまでも無く決まっていた。最も、一番大きな理由は、
出来るならば彼女の力になりたいというモノだが。
「分かった。貴女に付き合う。」
「真か。感謝するぞ。」
彼女は私に、微笑みを見せてくれた。それは正に妖艶の体現と言わざるを得ない程に、魅力的なモノであった。
私は、何処に向かっているのか。答えは十中八九、
彼女の住処であろう。果たして、その考えは正解だった。ただ一点、
「お母さん、お帰りなさい!」
「今日も良い子にしてたよ!褒めて褒めて!」
「アレ?この人は誰ぇ?」
そこに子供が3人いた事を抜かせば。彼女等は全員が
女の子であり、全員が色無鬼と同じ様に、桃色の瞳を
持っていた。
「、、、この子達は、貴女の子供か?」
それ故に、私がそう疑問を覚えてしまったのも、
無理は無いだろう。
「いや、この子等は私がベグマルから買い取った、
孤児達じゃ。名は碧と白良と黄華と言う。
、、、私はそこまで金がある訳では無いが、
せめてこの子等だけでも救いたかったのじゃ。」
「それで、、、何故貴女は、私をここに呼んだ?」
「この子等は最近、父親を求めておってな。
暫し遊んでくれぬか?主であれば、きっとこの子等
も喜ぶじゃろうて。」
色無鬼はまた笑みを浮かべた。しかし今回は前と
異なり、悪戯っぽい魅力を十二分に含んでいた。
その顔は、正に少女のそれであった。
1時間その子等と遊び、いや、遊ばれ、終わる頃には、私は既にヘトヘトに疲れ切っていた。
「では、、、そろそろ、、、お暇させてもらう、、。」
「そうか。残念じゃのう、、、。子等も、あんなにも
楽しんでいたというのに。」
息も絶え絶えに、私は何とか声を紡いだ。これ以上
ここに居れば、私はきっと疲労で気を失ってしまう
だろう。
「、、、、、、」
玄関まで行き、靴も履き終えた所で、私は彼女の方に
振り返ると、その華奢な両手を私のそれで包んだ。
「この先、何か困った事が起きたら、何でも
言ってくれ。私は貴女の力になりたい。
私も今は裕福とは言えないが、金も少しばかりは
ある。貴女が望めば、その全てを貴女の為に使うと
約束する。貴女は不快に思うかもしれないが、
必要ならこの名字も利用しよう。」
「、、、有り難い言葉じゃな。ではもしもの時は、主を
頼るとしよう。」
私は個人情報の諸々を含んだ名刺を彼女に手渡すと、
その場を去った。私が見えなくなるまで手を振ってくれた子供達は、本当に可愛らしかった。勿論、彼女も。
ドンドンッ!
一週間後、再び土曜日を迎えた私の家のドアを、
何者かが叩いた。その音の様子から、かなりの焦りが
見受けられ、私は急いでドアを開けた。
「君は、碧、、、!」
そこには、色無鬼が引き取った子達の1人がいた。
「おね、、、お願い、、します、、!お母さんを
助けて、、助けて下さいぃ゙、、!」
涙で溢れる両眼が、ここに来るまでに何度も転んだのだろう、全身の傷が、私の最悪の妄想を裏打ちした。
私は碧を抱き上げると、急いで色無鬼の元に走った。
「色無鬼!」
声を張り上げ、彼女の名を呼びながら家の中に入った。
「は、、、?」
そこは正に、凄惨な地獄と言う他無かった。
部屋は基調が赤に塗り替わり、また、黄華の慟哭で
満たされていた。そして、部屋の真ん中で、
「白良!」
色無鬼は血塗れの、白良を抱いていた。その恐怖すら
覚える目付きは、どんな感情を孕んでいるのか、何を見ているのか、私には知る由も無い。
「男が、、、急に家に来たのじゃ、、、。其奴は、
いつかの妾の客じゃった。賭け事で金が無くなった
から、寄越せと。しかし、妾もこの子等を育てる
のに手一杯じゃったから、断った。その瞬間、、、
奴は変貌した。白良の頭を掴み、壁に打ち付けた
んじゃ、、、何度も、、、何度も、、、、妾も抵抗した
が、無駄じゃった。妾は、この子を、、あ゙あ゙、あ゙、、」
体内から昇る吐瀉物に、色無鬼は口を塞がれた。
恐らく、奴隷だからという理由で、殺人を躊躇しなかったのだろう。その男に呆れに近い絶望を覚えたのも確かであったが、それを忘れてしまう程に、私はある疑問に捕らわれていた。
「、、、何故?!何故私に頼らなかった!私は言った
筈だ!私の金は、望むのなら全て貴女の為に
使うと。それなのに、、、何故だ?!」
気付かぬ間に、私は声を荒げていた。本来この怒りは、彼女に向けられるべきでは無いのに。
「すまない、、、妾は、、、主を信頼出来なかった。
あぁ、、馨よ、何故主は、"猫沼"の姓を背負う、、?」
色無鬼は語り始めた。彼女の悍ましい過去を、殺意を
覚える事を躊躇わぬ程の、猫沼家の醜悪を。
色無鬼の一族の女には、元来からある性質があった。
それは、「 子"宮"のしこり」だ。彼女等は他族の女が
持たぬ、とある物質を子宮内で分泌する。それが血液と混ざり合い、しこりとなるのだ。摘出方法は、"子宮ごと体から切り離す事"。更に、当人の意識が覚醒している時に切り取る事で、そうで無い時よりも鮮やかな
桃色になるとの事だ。
猫沼家が扱う"桃宮石"は、正確には"桃色の子宮の石"と言う。正に、"子宮のしこり"の事だった。
その話を聞いて、私は全てを理解した。
酒場での凍結、避妊具を使わないという彼女の売春婦としての評判、臍から股座を駆ける縫い目、その一連の全てが、今この状況を予見していた。
「馨、、妾は、子供が欲しかったのじゃ。子供の
天真爛漫に触れれば、どんな困難にも立ち向か
えると思ったからの、、、。だが、その夢は
叶わなかった。だから妾は、、、、この子等を
引き取ったのじゃ。しかし、この子等も、、、」
色無鬼は、涙を流してはいなかった。心が強いのでは
無い。きっと今日に至るまでに、涙が枯れ果ててしまったのだろう。
「主は良い奴じゃ、、。だからこそ、、、何故、、
何故、、、!何故主は、猫沼なんじゃ!」
いつの間にか、立場が逆転していた。憎悪すら含んだ
彼女の眼に、私は何も言葉を返せなかった。
「、、、すまぬ、、。主が何も悪く無い事は分かって
おる。悪いのは、主を猫沼から切り離せなかった
妾じゃ。だがもう、、、妾はどうすれば良いのか
分からないのじゃ、、、。
、、、、、、悪いが、、、、出て行ってくれ、、、。
そして、二度と妾の前に、、、現れないでくれ。」
"貴女は、私の両親に何かされたのか?"
あの時、あの質問をしていたら、何かが変わったの
だろうか。それから私は、彼女の要望通りその家から去った。しかし、その想いは断ち切れず、何度も何度も彼女と出会った場所に訪れた。
あれから四十数年、還暦を五つ過ぎた今になっても、
彼女に出会う事は無い。脳裏に焼き付いた彼女の後ろ姿を、私は永遠に追い続けるのだろう。
―この、呪われた猫沼の姓と共に。
完